すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(7)激動の縄文期~大量のボートピープル
縄文時代、沖縄から「シラ」の思想・信仰を持った多くの人々が、北陸をはじめとする日本海側に、遠路はるばるやって来た。それは何故か。
そしてそれは一方通行的なものだったのか、交流を伴うものだったのか。
縄文文化自体は、常にと言っていいほど海外からの影響をその時代々々で受け続けています。
それは大別して”北方からの影響”と”南方からの影響”に分けられます。
縄文草創期~早期までは、どちらかと言えば北からの影響が強かったようですが、縄文前期になると南方からの影響がどんどん強くなってゆき、縄文中期には南方の影響が俄然優勢になります。
縄文前期と言えば温暖化による「縄文海進」が起こりました。
海抜が現在よりも4~5メートル(一説には10メートル)高く、陸地(平地)が減少した時代。
そのため航海をふくめた海洋技術が飛躍的に高まりました。
縄文前期には本州最北の三内丸山遺跡でさえ、南方文化の影響を受け始めます。
三内丸山遺跡の研究の第一人者ともいえる岡田康博氏は、”三内丸山の人々は南から来た人々で、北からの可能性はあまりない”とさえ言っています。
またその頃の日本海側各地の遺跡からは、あきらかに南方からの栽培植物(ヒョウタンや豆類等)が出土しています。
野生のままでは冬を越せないものもあり、”明らかに当地で栽培されていたもの”と考えられています。
だとすれば当初から”移住”する目的で、計画的に持ち込まれたものである可能性があります。
それを示すのが縄文時代の人口動態です。
前期は陸地面積が減少したにもかかわらず、主に北陸以東の各地で人口が大幅に増えた時代でもありました。
事態が急変するのは縄文中期です。
安田喜憲氏の花粉分析によれば、それまで温暖だった気候が5300年前に逆に寒冷化します。
そのため中国東北部で高度な文明を誇っていた紅山文化が崩壊します。
安田氏は崩壊した紅山文化の人々の一部が、縄文の東北を中心にした日本海側に流れ込んできたのではないかという仮説を立てています。
しかし、縄文中期により大きな影響をもたらしたのは、より南方、長江流域以南の人々だと考えられています。
5300年前の寒冷化(小寒冷期)は南方の長江文明にもおおきな影響を与えました。
さらに同じく縄文中期の4600~4500年前にも小寒冷期が訪れます。
この気候変化による直接的な影響もさることながら、より大きな影響は「北方」からのインパクトでした。
寒冷化のダメージをモロに受けた北方地域から、多くの他民族(おそらく紅山文化の人々も含めて)が長江流域に侵入してきたのです。
多くの軋轢や争いがあったことと想像されますが(具体的に何が起こったのかは不明)、その結果として長江文明は5000~4500年ほど前に、安田氏の言う「メガロポリスの時代」、すなわち長江の下流域(良渚文化)から中流域(石家河文化・宝墩文化)にかけての”巨大都市文明”が花開くことになるのです。
安田氏は突然多くの巨大都市が出現した理由として、(稲作農耕民の持ち得ない)北の畑作牧畜民の「俯瞰の思想」の影響が大いにあずかっているのではないかと述べています。
それはともかく、結果として数百年後の発展を促したとは言え、長江文明の人々が北からの侵入者を、そのまま受け入れたとはとても考えられません。
さらに悪いことに、4200~4000年前にはダメ押しのように(「海退」を伴う)「大寒冷期」が訪れてしまいます。
小寒冷期(2度)、大寒冷期、いずれの場合も、前述のように多くの軋轢・争いがあったと想像されますが、それが”長江文明人の大量流出”を招いたと考えられます。
当ブログでも以前書きましたが、長江文明人というのは水運・航海に長けた民でした。
彼らがその地から流亡するとすれば 、当然舟を使うことになります。
いわゆるボートピープルです。
向かう先は長江の南岸や上流域もあったでしょうが、多くの逃亡者が選んだのは長江の河口からさらに先の「海」、東シナ海だったのではないでしょうか。
航海民でもあった長江文明人たちは、 ”東アジアの地中海”ともいうべき東シナ海周辺にどのような陸地・島々があるのか、逃亡先としてふさわしいのはどこか、など「そこまでの航路」も含めて知悉していたはずです。
ボートピープルとなった彼らが逃亡先として選んだ場所の一つが、縄文中期の日本列島だったと多くの専門家(考古学者・文化人類学者・言語学者・etc.)は考えています。
その根拠ともなる「長江文明の影響によると考えられる縄文中期の大変化」と、その”証拠”となると思われることについて、以前のブログでも述べましたことですが、その補足も含めて以下に列挙してみましょう。
- 「人口増加」 まずは人口(遺跡の数と規模による)の爆発的増加です。縄文前期にもその前の早期に比して爆発的ともいえる人口増加がありましたが、中期はそれをも大幅に上回る急激な増加がありました。東北、関東、中部で前期に比べて2~2.5倍、比較的人口の少なかった北陸では6倍もの増加となっています。
北陸は日本海側沿岸だけに広がる地域。つまり北陸だけが突出して6倍もの増加になっているのは、元々少なかったこともありますが、それ以上に対馬暖流に乗って日本海側を海路やって来た集団がいたことを示していると考えられます。しかもこの人口変動の数は1974年時点と古いデータによるものですが、その後北陸では中期の重要な大規模遺跡の発見(富山県桜町遺跡や石川県真脇遺跡など)が相次いでおり、さらなる人口増加が考えられるのです。
- 「蛇信仰の始まり」 中期になると土器装飾に「リアルな蛇」の意匠が突然現れます。前期にも蛇状の渦巻き紋や波状紋があり蛇への畏敬の念はあったと思われますが、それが蛇に対する強い信仰、蛇信仰に昇華するのは「写実的な蛇」が現れる中期だと考えられます。これについて複数の専門家が「ヘビに関わる宗教とその勢力の拡大という、政治、文化的動きがあった」「新しい強力な文化の渡来があった」等と考えています。
- 「高床建物」 1.で言及した富山県の桜町遺跡では、縄文中期においてすでに用途に合わせた幾種もの「高床建物」があったことが確認されています。従来は弥生期に伝わったとされてきたものです。
柱材、梁材、桁材、壁材など多数の用材が出土しており、「ほぞ穴」や「えつり穴」「貫穴」など部材を組み合わせるための加工が施されていました。驚くべきは「渡腮仕口(わたりあごしぐち)」という、これまで法隆寺金堂で使われたものが最古とされてきた高度な技法の跡まで見つかったことです。このような高床式建築は中国南部や東南アジア、南太平洋に見られる南方の文化ですが、特に長江流域・江南地方にその遺跡が多数みつかっています。中期の高床建物の遺構は青森の三内丸山遺跡でも多数見つかっています。
- 「南方系栽培植物」 前述したので割愛します。
- 言語学の観点から 今回の冒頭において、縄文草創期~早期までは北の影響が強く、 前期から南の影響が強まると述べましたが、言語学者の崎山理氏は言語学の観点からそれを裏付けています。中国南部の越(百越)を故地とするオーストロネシア語族は、東シナ海から東南アジア島嶼部、さらには南太平洋一帯(ミクロネシア・メラネシアの一部・ポリネシア)や遠くインド洋のマダガスカルにまで展開する大語族ですが、彼らは北のアルタイ系語族の侵入によって長江流域の「越(エツ)」の地から押し出され(崎山氏は「大きな民族交替」と言っている)、 「新天地」へと向かったということが言語学では分かっているそうです(これは先述した安田氏の説と完全に重なります)。
大事なのは崎山氏はさらに、オーストロネシア語では「母」は「イネ」というのに対し、日本で母を古い言葉で「イネ」と言っていたのは佐渡・石川・福井の北陸すなわち「越(コシ)」の地であり、これはオーストロネシア語から来ているとはっきり述べていることです。つまり長江流域を起源として「北からの圧迫」により海へと押し出されたオーストロネシア語族の一部が、少なくとも北陸の地に到達し、定住したということになります。また氏は「(オーストロネシア語族の日本列島への移動の波は)琉球列島づたいに渡来した確率が高い」という重要な発言もしています。
- 「憑霊型シャーマン」 名著『シャーマニズム』を著わしたエリアーデによれば、シャーマンの型には大別して「脱魂型」と「憑霊型」の二種類に分けられます。長江流域や南太平洋一帯は総じて「憑霊型シャーマン」、日本のイタコも「憑霊型」に属します。
ククリヒメも、以前述べた「間人(ハシヒト)」と同様に「あの世とこの世の間に立って託宣する巫女」の姿を持っており、 「憑霊型」と考えられます。また、国立民族学博物館教授の小山修三氏は、縄文期にシャーマンがいた証拠として、多数出土する「仮面」の存在を挙げています。重要なことに文化人類学者の諏訪春雄氏は、「仮面芸能」が東アジア一帯においては長江流域とその南においての分布が顕著であり、黄河以北では極めて少ないという調査事実を挙げて、これが中国南方の「憑霊型シャーマニズム」と中国北方の「脱魂型シャーマニズム」の分布とほぼ完全に一致しているという指摘をしています。つまり「シラ(シラヤマ)」の信仰における主神ククリヒメは、(長江流域を拠点に東アジアの海を往き来した航海民である)長江文明人(越人・オーストロネシア語族)の文化に、その究極の起源があると考えられるのです。
(ククリヒメについてはコチラ↓)
(「間人(ハシヒト)についてはコチラ↓)
このように1.~6.を考え合わせれば、縄文中期に長江流域から”押し出された”長江文明の民(オーストロネシア語族)が、琉球列島(沖縄)を経由して、日本列島、とくに日本海側に流入してきたというシナリオが描けます。
当時沖縄に暮らしていた「シラ」の概念を持った人々も、「航海民」であった長江文明人(オーストロネシア語族)と、元々関わっていた可能性は非常に高いと思われます。
そして彼らも押し出されるようにか、それとも積極的に行動を共にしたのかは分かりませんが、大挙したボートピープルとともに日本海側にやって来たのだと考えることは可能です。
以前述べたことですが、当時の北陸は潟湖が発達し、沿岸には船材となるスギの巨木が林立しており、港湾として最適な条件が揃っていたといいます。
「航海民」であった長江文明の民もそのことをよく知っていた可能性は高いと思われます。
だから「シラ」の概念も中期ではなく、前期からすでに北陸の地にはいっていたのかもしれません。
しかしそれが信仰にまで昇華したのは中期なのではないかと思われます。
2.で述べた中期の「蛇信仰」も、その実態は「シラ(シラヤマ)の信仰」と同じ「死と再生」の信仰です。
実はシラヤマ信仰にも古い「蛇信仰」の”面影”が残っており、シラヤマヒメは「蛇体の女神」なのです。
ワタシの個人的意見ではありますが、中期における縄文日本列島の「蛇信仰」の発生~隆盛と、 「シラ」の概念・信仰の発生~隆盛は、完全にリンクしていると思われます。
縄文期の沖縄と列島の日本海側で「交流」があったかどうかという問題については、それこそ日本列島の北から南まで縦横無尽に海上交易をしていた縄文人のこと(中には黒潮の激流を突っ切って八丈島あたりまで物資や家畜、植物を海路運んでいた例も)、それは難しいことでは無かったに違いありません。
沖縄県北谷町の平安山原(はんざんばる)B遺跡で、縄文晩期の東北を中心に使われていた亀ヶ岡系に含まれる大洞(おおほら)系土器の破片が見つかり、しかも組成分析等から造られたのは東北ではなく、北陸・中部出身者が西日本のどこかで東北産の実物を基に作られたものだというのです。
これは縄文期に沖縄~北陸・中部~東北間で、モノだけではなくヒト、それも技術者たちの交流・交易があったことを示すものです。
縄文期の沖縄と北陸~東北の日本海側、そしておそらく長江流域の民たち。
彼らには恐らく恒常的ともいえる交流・交易があり、寒冷化に起因してボートピープルとならざるを得なかった”同胞”たちと行動を共にし、また受け入れるだけの”関係”があった。
そしてその”絆”にも近い精神的つながりを支えていたのは、「シラ」の概念だった。
ここまで見てきたかぎりにおいては、そのように推測しても”当たらずといえども遠からず”と言えるのではないでしょうか。
このシリーズ「すべては沖縄から始まった~有史前の日本列島で何が起こったか 」は、ここで一旦終わりということになりますが、縄文時代の沖縄、北陸~東北については、これからもチョコチョコ(笑)書いていきたいと思っています、今のところ(笑)。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
ふぅー疲れた(笑)。
参考文献:
他、 『縄文鼎談 三内丸山の世界』 (岡田康博・小山修三編:山川出版社)など多数。