義経と黄金 暗躍する「鬼」 ④
さて、前回では義経よりもさらにさかのぼった古代に、「鬼」たちのリーダーと期待された人物がいたのではないかと述べました。
そのことに言及する前に、もう少し義経の周辺について、おさらいもふくめて見てみましょう。
義経の兄、頼朝は義経を過剰なまでに追い詰め、その首を見るまでは安心しませんでした。
たしかに朝廷の支配から独立した武家政権を鎌倉に打ち立てようとしていた頼朝にとって、官位を勝手に授かってしまった義経は、あまりに無邪気とは言え許しがたいものがあったでしょう。
しかし実の弟、しかも平家を滅ぼした最大の功労者の凱旋にたいして、鎌倉へ入ることさえ禁じるというのは、やりすぎのようにも思えます。
それならまず対面して義経の言上を聴いてから、叱責するなり罰を与えるなりすればいいのですから。
結果的に、義経の反抗的態度を促したのは頼朝ということになります。
一応「結果的に」と言っておきますが。
それはともかく、頼朝が義経を恐れていたことは確かなように思えます。
では頼朝は義経の何に対して、恐れを抱いたのか。
確かに義経の軍事的才能は脅威ですが、自分のまわりには屈強な東国の武士団がいる。
それ以上に脅威だったのが、義経のカリスマ性だったのではないか。
前回述べたように、義経は日吉(天台)系を中心とした「鬼」を統べるリーダーとして育てられました。
これも鬼一法眼とその配下だったと考える専門家もいます。
鞍馬山には鬼一法眼社が祀られていることは周知の事実ですが、実は鞍馬寺は天台系(戦後、独立)です。
水の神を祀るものですが、海に注ぐ淀川から遡ってここに来たとの社伝があり、つまりは(山奥に鎮座しながら)海や川を網羅する「水運」にも深く関わる神社と考えていいでしょう。
もともと平家側だった熊野水軍を義経が味方にできたのも、そのあたりの「力」が働いたのかもしれません。
また鬼一法眼は武装集団を従え、祇園社の賤民集団(犬神人、非人、下級僧など)と深くつながっていたと目されていますが、祇園社自体、10世紀(平安中期)以降、叡山末社(つまり日吉天台系)でした。
鬼一法眼とその配下の武装集団は日吉天台系の中でも、かなり力を持った重要な実働部隊だったと考えられるのです。
義経を育て、またバックアップしていたのは日吉天台系という、当時の裏社会(=「鬼」の世界)の巨大な組織だったと考えられます。
「鬼」の世界は裏社会だけでなく、まつろわぬ山の民・海の民・川の民の集団でもありました。
義経は当時の日本におけるそのような「鬼」の世界のトップとして育てられ、そのカリスマ性をも身に着けつつあった。
義経もその自覚があったからこそ、「関東に恨みある者は私のもとに集まるがいい」などと言い放つことが出来たのだと思われます。
頼朝は鬼集団のカリスマとしての義経をこそ、恐れたのでしょう。
「まつろわぬ民の集団」といっても全くつかみどころがなく、隠然たる不気味な存在です。
不気味な存在のままでいれば問題はないのでしょうが、日本中に広がる彼らが、天才的な軍事の才能とカリスマ性を併せ持ったリーダーのもとに一丸となってしまったらどうなるか・・・
義経がそのカリスマ性を発揮してしまう前に、葬り去らねばならない。
頼朝を頂点とする鎌倉がそう判断するのは、当然のこと。
ワタシはそう推測するのです。
さて、義経は幼少期から鞍馬山で修業を積み、同じく鞍馬と密接な関係があったと目される鬼一法眼から兵法の奥義書『虎の巻』をかすめ取った(あるいは授かった)とされています。
最初に述べたように、義経の時代からずっと遡る古代に「鬼」たちのリーダーと期待された人物がいた可能性があります。
あくまで「可能性」ではありますが。
物部氏と蘇我氏の戦い、丁未の乱において物部守屋の軍の勢いに押されて蘇我氏が劣勢となったとき、崇仏派の蘇我氏の側に付いていた厩戸皇子は、『日本書紀』によれば四天王に戦勝を祈願し、そのおかげで態勢は逆転し、蘇我氏の勝利となった。
これは良く知られた話です。
しかし奈良県の信貴山朝護孫子寺では似て非なる言い伝えを主張しています。
それによれば同様に厩戸皇子が戦勝祈願すると、またたくまに戦いの神である「毘沙門天」が現れ、「必勝の秘法」を授けたといいます。
それはまさに「寅年寅の日寅の刻」だったといいます。
これが史実かどうかは別にして、まさしく聖徳太子も義経と同じように、毘沙門天から「寅(虎)」に関係すると暗示された『必勝の秘法』(『六韜』」の『虎韜』=『虎の巻』?)を授けられた、という言い伝えが残されていたのです。
では、古代飛鳥時代の人物である聖徳太子が、後世の「鬼」につながる集団のリーダーと期待され、そのバックアップを受けていたとするならば、その集団とは具体的にはどのような集団だったのか?
それこそが他ならぬ秦氏集団だった、とワタシは考えています。
聖徳太子の側近に秦氏の棟梁・太秦であった秦河勝という人物がいたことは良く知られています。
彼は太子を強力にサポートし、スポンサーでもありました。
秦氏は当時すでに殖産豪族として様々な技術と、それにもとづく異常な財力を誇っており、深草屯倉という軍事拠点まで有していました。
秦氏集団の技術、そして「鬼」との関係については以下を参照してください。
これらで述べたように、秦氏は後に「鬼」とされた特殊技術・技能を有した職能民(中世以降は被差別民とされていった人々)と深い関係にありました。
それが後世の義経や豊臣秀吉(木下藤吉郎)の場合と、同じ意味をもっているのかどうか。
その答えは未だ深い霧の中、闇の中です。
そもそも聖徳太子をサポートした「秦氏」と、義経・秀吉を背後で支えたと推測される「日吉天台系」を、同等に見て良いものかどうか。
ワタシは、微かながら「秦氏」と「日吉天台系」をつなげるリングは存在すると考えています。
しかしそれを説明し出すとまた長くなりますので、それはまた別の機会に。
聖徳太子とその一族を陥れ、滅亡させた蘇我氏本宗家は、また中大兄皇子と中臣鎌足によって滅ぼされてしまいます。
おそらくその計画立案と重要な段取りは鎌足の手によるものでしょう。
その鎌足は遠い東国、常陸の国からやって来たと伝えられています。
古代史に通暁したなーまんさんのブログでは、古代史においては関東からの視点が非常に重要であることを教えてくれます。
そこでは秦氏と関東の深い関係、そして秦氏と中臣鎌足の関係も示唆してくれています。
na-mannoeyelevel.hatenablog.com
ワタシもなーまんさんの影響を受け、古代における秦氏の謎、そして秦氏と聖徳太子の関係も、関東を中心にした東国に注目しないと解けないのではないかと考えはじめています。
そういえば、太子の一族である上宮王家(じょうぐうおうけ)が蘇我入鹿の襲撃を受けたとき、一族の長である山背大兄王に対して側近が「一旦、東国へ逃れて再起を期してのち、入鹿を討ちましょう」と提言しましたね。
その東国への逃避ルートの途上にある拠点こそが、秦氏の深草屯倉でした。
秦氏は当時、畿内から各地へ通ずる交通拠点を抑えていたとする研究(原島礼二氏)があります。
それを使って商業交易も行っていたのだとしています。
山背大兄王の側近が秦氏のサポートを期待して提言したことは間違いないでしょう。
問題はなぜ東国へと言ったのかということです。
東国に蘇我氏にも対抗し得る大きな勢力があった、しかもそれは上宮王家にとって味方になることが期待される勢力だった。
そう考えるしかないように思えます。
それが関東に根付いていた秦氏の集団であった可能性は高いと思われます。
後に蘇我氏を討つことになる中臣鎌足が、この動き、そして関東の秦氏にどう絡んでくるのか、あるいはそもそも無関係なのか。
話しが義経から大きく逸れてしまいましたが、とりあえず次回は義経の逃避行とそのルート、そしてその先に待つ奥州藤原氏について考えたいと思います。