古代史は小説より奇なり

林業家kagenogoriが古代の謎を探求する

秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(9)長江文明と縄文の交易、そして大量移民

 長江文明は日本列島の縄文文明に、縄文前期(7300-5500年前)の頃から関わっていました。

 問題は、そこに「交易」は存在したのかどうか。

 もしそうなら、長江文明において交易を担ったと推測される秦氏の前身となる集団が、その海上交易にも関わっていたのかどうか。

 

 まず縄文の「海上交易」について見てみましょう。

 じつは縄文よりはるか以前の旧石器時代の日本列島には早くも、遠隔地との遠距離航海による「交易」活動があったことが確実視されており、さらにその専門集団の存在さえ想定されています。

 この旧石器時代にはすでに原始的な「」を付けた丸木舟レベルのものがあったことは確実と言われています。

 

 縄文時代にも活発な海洋交易(それもかなりの遠距離の)があったことは、各地の出土物の分布から確実視されています。

 長野県のような内陸との交易でさえ、河川を利用して海上まで出ていたと考えられています。

 日本列島の土壌は酸性が非常に強く、木材は出土しにくいのが現状ですが、それでも丸木舟は各地の縄文遺跡から百数十艘出土しています。

 一般に丸木舟(単材刳り舟)では、”舟の前後端部に反り上りがない”ことや、”船幅に制約がある”ことから、外洋向きではなかったとされています。

 

 しかし海の専門家によれば、波除の板で囲ったり、アウトリガー(腕木)付き双胴型の大型カヌーにすることで積載量を増し、耐航性を持たせることは可能だといいます。

 

 前述したように縄文期の人々はすでに、高床式など手の込んだ構造物を金属が無くても建築する高度な技術(すなわちほぞ穴えつり穴等や渡腮仕口部材組み合わせ技術)を持っていました。

 さらにアスファルトによる接着・接合・充填および耐水の技術を持っていたことから推しても、それらを応用して外洋航海用の舟を造ることは可能、というより簡単なことだったとさえ考えられます。

 交易ということを想定する場合、陸上での長距離移動は所持物も限定され、疲労も大きく、食料も不安定、大河や湿地ではたちまち行き詰まる、さらに猛獣や毒虫・細菌などの危険も大きいことなどを考えれば、長距離移動を目指すには海上」は、それなりのリスクはあるものの、「陸上」よりはよほど安全で効率的な交通路であった、というのが海の専門家の見方のようです。

 

 長い航海には飲料水の確保も大きな問題となります。

 その面でヒョウタは当時の航海に必要不可欠で大いに活用されたと考えられます。

 日本列島には自生しないヒョウタが、縄文前期においてすでに他の南方栽培植物とともに見つかっていることは以前に述べましたが、それらは野生のままでは冬を越せないものもあり、明らかに出土地(福井の鳥浜・青森の三内丸山)で栽培されていたものだと、福井大学教授の小林道憲氏は述べています。

 この事実は、遅くともその頃には航海民たちが「目的」をもって日本列島にやって来たことのみならず、(ヒョウタが栽培されていたということは)日本列島においてもその沿岸部を拠点にした航海民たちがいたことを物語るものだと考えられるのです。

 

 縄文期の交易品で有名なのはヒスイ黒曜石アスファルトなどですが、他にもや装飾品に加工される珍しい貝殻、そして干物・干し肉や塩漬け、さらには発酵させた嗜好品(塩辛など)等、保存が効くように加工されたサケをはじめとした魚介や獣肉などの食料加工品などもあったでしょう。

サケのイラスト(魚)

 能登真脇遺跡イルカが多数捕獲されていたことが確認されていますが、これなども従来言われているような干し肉にする以外に、交易品としても大変貴重な「」を大量に採るためだったのではないかとワタシは考えています。

イルカ, 水泳, 水, 海, 海洋, 哺乳動物, 泳ぐ, 水生生物, ジャンプ, 跳躍, 海の生活

 一万年以上にわたる縄文時代において、このような交易が恒常的に行われていたならば、当然そこには海路潟や河川などの水路、さらには水路から離れた地へも運ぶための陸路をも利用した、確固とした「交易ネットワークが在ったはずです。

 特に遠隔地との海洋交易の場合、様々な専門知識が必要であることは言うまでもありません。交易を専門にする集団、すなわちプロの交易民が存在したとも考えられています。

 

 単独あるいはその時限りの交易ならともかく、恒常的な「海の交易ネットワーク」で重要となるのは「潟湖」です。

 いつも波のおだやかな「潟湖」は海から直接出入りすることのできる天然の良港ですが、特に潟湖が多かったのは日本海側です。

 前出の小林道憲氏は、当時スギの巨木が林立していた日本海側の潟湖は、「縄文の造船センター」の最適地として発展していたと推測しています。

杉の木|kis0140-009 

 日本海側の豪雪地帯で多く見つかる縄文前期~中期の「ロングハウス」と呼ばれる大型建物は、雪国特有の共同作業所ではないかとも言われていますが、小林氏はこれについても遠隔地交易の「市場」(交易民集団のための)「宿泊施設」としても必要だったとしています。

 ワタシは同じく日本海側で多く見つかる縄文中期以降の「高床式建物」も、貴重な交易用の品を貯蔵する倉庫としても使われたのではないかと推測しています。

 

 このように縄文期、日本列島内における遠距離海洋交易はあったと考えられます。

 では長江文明と縄文日本列島との間に、海洋交易はあったのかどうか。

 ここまで見てきた通り、双方の技術的には可能だと考えて良いでしょう。

 しかしその証拠(つまり互いの交易品)は見つかっていません。*1

 そうはいっても互いの交易があった可能性がゼロというわけでは、もちろんありません。

 技術的には十分可能であり、また少なくとも長江文明側からの往来があった可能性は非常に高いのですから。

 その交易・交流は、距離的な問題もありますから頻繁なものではなく、あったとしても季節風などを利用した年に一度か二度の往来だったのではないでしょうか。

 

 そして縄文中期、突然の大事件が起こります。

 長江文明からの大量の移民ボートピープルがやって来たのです。

 

 縄文期において人口が大幅に増えたのは前期~中期ですが、とくに中期になると人口(遺跡数)は爆発的な増加となり、また列島各地の土器装飾「リアルな蛇」の意匠が”突然”あらわれます。

 高床式建物日本海側各地で建てられるようになるのも、この時期です。

 この時期に「蛇信仰」を持つ集団が、大挙どこからかやって来て勢力を拡大したという政治的・文化的動きが背景にあったと考えられます。

 この集団とはもちろん、長江流域に住んでいた越人の集団でしょう。

 かれらが太陽信仰に基づく蛇信仰をもっていたことは以前のべましたが、漢代においても漢人たちは越人のことを「蛇族」であると記録に残しています。

 

 縄文中期に越人たちが長江流域から大量に来たのは何故でしょうか。

 それは五三〇〇年前(一説には五千年前)、ユーラシア全体を襲った「小寒冷期」と呼ばれる気候変動があったことが、そもそもの原因です。

 このころ、中国の北方でも紅山文化という高度な文化が発展していましたが、恐らくはこの寒冷化のあおりを食って間もなく消滅します。

 この紅山文化の一部や黄河流域の人々が大挙して、あたたかな南に向けて移動しようとします。

 

 南、すなわち長江文明はその圧迫と侵入をもろに受けますが、逆にそれが刺激となって巨大都市が各地に出現するという発展の時期(安田氏によればメガロポリス」の時代)を迎えることになります。

 長江文明の玉器文化は紅山文化から伝わったのではないかともいわれます。

 この際、単に発展しただけではなく、(考え方も文化も言葉も異なる異民族との接触を嫌って)長江を下って海外への脱出を試みる人々も大量にあったと考えられます。*2

 そのとき長江河口域から船出して向かう地として、最も容易で有望だったのが、遥か以前から往来と交流があり勝手知ったる日本列島、とくに対馬暖流に乗った先の日本海だったのではないかと考えられます。

「夜明け前の日本海 | 写真の無料素材・フリー素材 - ぱくたそ」の写真 

 その後も寒冷期の波は幾度か押し寄せますが、特に大きかったのが四ニ〇〇~四〇〇〇年前の「大寒冷期」で、長江文明もついにこの時崩壊します。

 この時長江文明の民はその上流に逃れ、三星堆遺跡やのちの滇文化を発展させたと考えられていますが、逆にこの時も「海」へ逃れた人々が大量にいたはずです。むしろその方が多かったのではないでしょうか。

 しかしこのとき縄文は後期を迎えていますが、長江からの大量移民が来た兆候は見られません。

 逆に縄文後期は人口がガクッと減少した時期なのです。

 では大量に発生したはずの長江からのボートピープルはどこへ向かったのでしょうか。

 「大寒冷期」というほどですから、北方の海よりも南の海を目指したのではないでしょうか。

 ワタシはそれこそが、四千年ほど前南シナ海に突然現れ、そこからさらに長い時間をかけて南太平洋各地に拡がった「ラピタ」、すなわちいまのポリネシア人の祖先ではないかと考えています。

 彼らはオーストロネシア(南方)語族を形成しましたが、その故郷は中国の長江流域とその以南と考えられています。

 

 話が大分それてしまいましたが、ワタシは縄文中期に「太陽信仰に基づ蛇信仰」をもって渡航してきた大量移民の中に、のちに秦氏となる交易集団もいたのではないかという仮説を立てています。

 前述したように秦氏「蛇」の名を持つ「太陽信仰に基づ蛇信仰」の集団です。

 さらに秦氏白山(シラヤマ)信仰に深く関わっていたことも、その前身集団が縄文から日本に関わってきたことの一つの傍証ともなるのですが、これを説明しだすと恐ろしく長くなってしまうので、興味がある方は拙著『影の王』を参照してみてください。

 

 ただワタシも秦氏というひとつの「血族」が何千年の長きにわたって、その血脈を保ったとは考えません。

 当時渡って来たその集団はひとつの血族というより、あくまで交易を目的とする集団であり、現在で言えば貿易会社のようなものだったと考えられます。

 だとすれば彼らは日本列島に安住するのではなく、中国大陸~朝鮮半島や日本列島に囲まれた、東シナ海から日本海にかけての「東アジア地中海」を真の本拠として、各地に拠点を持ちつつ活動していたのではないでしょうか。

 彼らは優れた航海民の末裔として、その後も中国大陸・朝鮮半島・日本列島に深く関わり、アメノヒボコとして本格的に日本列島に移住する頃には、古朝鮮語で「パタ」、古日本語で「ワタ」、すなわち「」を意味する「ハタ」を名乗るようになったのではないか、というのがワタシの考える仮説です。

 

 「秦氏の謎 いつ、どこから来たのか」の話はこれで終了です。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

 結論としては、「秦氏として本格的に移住してきたのはアメノヒボコとして来た弥生期だが、縄文中期から長江文明の交易民(の末裔)として日本列島には関りを持っていた」というものです。

 

 次回からは、ここまで述べてきたことなども踏まえて「秦氏ユダヤ人の本当の関係」について迫ってみたいと思います。

 お楽しみに。

 

参考文献:

影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)

 

 

 

縄文学への道 (NHKブックス)

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龍の文明・太陽の文明 (PHP新書)

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海を渡った縄文人―縄文時代の交流と交易

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縄文鼎談 三内丸山の世界

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*1:例えば縄文の日本列島には硬玉ヒスイを加工した玉器の遠距離海洋交易があったであろうことは分かっています。

 前出・安田喜憲氏は縄文中期(5500-4500年前)に爆発的に盛行した日本の玉器文化は、同じく玉器文化であった長江文明の影響があった可能性が極めて高いとしています。

 ただ日本のヒスイは硬玉であるのに対し、長江文明をはじめとする中国における「玉」はすべて軟玉と呼ばれるもので別の鉱物です。

 硬玉・軟玉それぞれの玉器が互いの地で出土した例はいまのところありません。つまり玉器においても、その文化は一方に伝わったとしても、それぞれの玉を互いに交換品として交易した証拠は無いのです。

*2:言語学もこのことを裏付けている。言語学者の崎山理氏は、古代中国において北方からのアルタイ系民族の侵略による「大きな民族交替」があり、その結果中国南部の「」の地からオーストロネシア語族の祖先が押し出され、「新天地」へと出ていったと述べている。