すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(3)シラヤマ信仰と「境の場」
「シラ」の”転換力”が発現する「場」。
それと密接にかかわる白山(シラヤマ)信仰の本質とは。
白山(シラヤマ)信仰。
その総本宮が石川県の加賀地方にあります。
現在は白山市の一部となっている鶴来(ツルギ)町に鎮座する「白山比咩神社」(シラヤマヒメジンジャ)です。
その主祭神は「ククリヒメ」。
菊理媛と書きますが、まあこれは当て字と思っていいでしょう。
神社の名前が”シラヤマヒメ”(白山姫)ですから、「ククリヒメ」こそが”シラヤマヒメ=白山の女神”だとされているわけです。
このククリヒメ、実はほとんどどういう神なのかわかっていない、という”謎の女神”でもあるのです。
なにしろ古代文献に出てくるのは『日本書紀』の「神代巻」のなかでもただの一か所、 「一書(あるふみ)にいわく」として書かれている所だけ。
ここでは「国生み」で有名なイザナギが、死んでしまった妻イザナミに会いたいと思って黄泉の国に行く場面を描いています。
そこで妻との約束を破ってイザナミの醜い腐乱死体を見てしまったイザナギは、怒り狂うイザナミの追っ手から命からがら、”黄泉と現世の境界”である「泉平坂(ヨモツヒラサカ)」(「黄泉平坂」とも)まで逃げおおせます。
この黄泉と現世の「境界」を挟んでかつての夫婦神が対決(というか言い合い)するわけですが、ここでまず「泉守道者(ヨモツモリミチヒト)」という神が出てきます。
この神はイザナギに、黄泉の存在となってしまったイザナミからの伝言を伝えます。
『あなたと共にここを去ることは出来ない。わたしは黄泉にとどまります。』と。
ここでククリヒメが登場するのですが、その「行動」がじつに謎めいているのです。
”菊理媛、また申す事あり”( ”申す事”は原文では「白事」(「白す事」)と書かれています。)
ククリヒメはここでイザナギに対し”何か”を申し上げ、それを聞いたイザナギは”ほめた”といいます。
ククリヒメがした事といえばこれだけ。
登場シーンもこれだけなのです。
ククリヒメが何を申し上げたのかについては諸説ありますが、この後イザナギが川で「禊ぎ(ミソギ)」をして黄泉の国でついた”穢れ(ケガレ)”をキヨメたことから、”禊ぎをすることを勧めた”とするのが一般的です。
このようなつかみどころのない”謎の女神”を、何故シラヤマ信仰では主神としているのか。
それこそがシラヤマ信仰の本質にかかわる重大な問題なのです。
シラヤマ信仰の主神は「ククリヒメ」ですが、崇拝というか信仰の対象となっているのは、その名の通り白い雪を頂いた「白山」です。
白山の色である「白」は、前回述べたように「清浄なるものの象徴」であり、 「死の象徴」であり、それを目にしたときは「自分が死ぬとき、あるいは(死から)再生するとき」であるという、古代の人々にとっては非常に重要な色であり、また恐ろしい色でもありました。
白山の白い雪からは清冽な「水」が生まれ、その地域を潤し、また清めます。
シラヤマ信仰は「水」の信仰でもあります。
その清冽な水は すべての生き物を潤し、育み、豊饒をもたらします。
その清冽な水は、またすべての「ケガレ」をキヨメる力をもっています。
さらにその清冽な水は、 「越(コシ)の変若水(ヲチミズ)」と呼ばれるほど、すべてのものを蘇らせる(黄泉返らせる)、つまり「再生」させる力を持つと信じられていました。
このような力を持つ白山の「水」 。
まさに前回述べた「シラ」そのものです。
白山(シラヤマ)は文字通り「シラの山」なのです。
実際、シラヤマ信仰とは「死と再生」(=「シラ」)の信仰であると考えられています。
一方のククリヒメ。
イザナギに「川で禊ぎをすること」を申し上げた。
この「申し上げた」が実際は「白事」だったことは先述の通りですが、これは「シラコト」とも訓みます。
つまり「シラ」に関する事、すなわち「禊ぎ」を申し上げた。
多少の私見も混じりますが、 「シラ」を司る神として、同じく「シラ」の霊力を持つ白山の神にされたのだと考えられます。
白山比咩神社の片隅に「川濯尊」という神がひっそりと祀られています。
起源がよく分からない神ですが、地元では古くから「カワスソンサマ」として親しまれている神様です。
その名から「禊ぎ」に関わる神であることは容易に推測がつきますが、 「川で濯ぐ(すすぐ)=禊ぎ」という名は、イザナギの川での禊ぎを思い起こさせます。
ククリヒメの「ククリ」も水で禊ぎを行う際の「潜り(クグリ)」だとも考えられています。
このように白山比咩神社とククリヒメは、 「水」を媒体にした「シラ」を介して結びついていますが、さらに重要なことがあります。
それはククリヒメがどこにいたかということです。
ククリヒメは泉守道者とともに、黄泉(あの世)と現世(この世)の「境界」であるヨモツヒラサカにいました。
そもそもイザナギが妻に会いに行っただけとはいえ、黄泉(あの世)=「死の世界」に行ったということは、現世=「生の世界」から見れば一旦死んだと言う事にほかなりません。
そこから死と生の「境界」=「境の場」に戻って来た。
そして禊ぎを行ってようやく落ち着き、生気を取り戻した。
これは「死」から「再生」した、蘇ったということです。
それを手助けしたのが、その「境の場」にいたククリヒメ。
つまり川で禊ぎをして「穢れた身を浄化(キヨメ)」し、「死からの再生」を実現するという、 「シラの転換力」が働いたということです。
そしてその”力”の発動に深くかかわったのは、まぎれもなく「あの世とこの世の境の場」にいたククリヒメ。そして泉守道者。
ククリヒメ、そして泉守道者の男女一対神は、 「シラ」とその「転換力」の発動に深く関わる神だったのです。
そしてその”力”が発動したのは、ヨモツヒラサカという黄泉と現世の「境の場」であり、禊ぎをした「川」でした。
歴史学・民俗学・文化人類学などでは、 「坂」や「川(河原)」は橋・浜辺・村境・道・墓地・辻・神社・寺等々と同様に、神仏やあの世の存在が支配する「境界」の地と考えられています。
境界、「境の場」こそが「シラの転換力」が発動する場だった。
なぜか。
「浄化(キヨメ)」にせよ「再生」にせよ、 ”穢れからの浄化” 、 ”死からの再生” 、つまり全く正反対、対照的な状態への劇的な変化です。
このような変化=転換は、例えば「死からの再生」ならば、「死の世界」の只中では困難であり、また完全な「生の世界」でも難しい。
どちらの状態にでも変化がたやすい「両者の境の世界」だからこそ、「負から正」への劇的な転換が可能なのです。
ただし「境の場」にただ漫然といるだけではだめで、転換する技術を持った存在、いわば転換のための触媒となる存在がいないと、「シラの転換力」は発動しないのです。
その存在こそがククリヒメなのです。
じつはククリヒメの「ククリ」には「(水を)潜る」以外にさらにもう一つ、 「正反対の世界をくくる」「あの世とこの世をくくる」という重要な意味があったのです。
これは逆に、「あの世とこの世の境」にいないと不可能な能力です。
この「ククリ」はあの世(アッチの世界)の存在、すなわち神霊や死者の霊魂とのコミュニケーション(交信)も可能にします。
泉守道者が黄泉の住人となったイザナミの伝言を、「生の世界」に戻ったイザナギに伝えることが出来たのも、まさにこの能力によるものと考えられます。
ククリヒメと泉守道者の能力は、ひとことで言えば「正反対の世界(や正反対の存在)の間に立ってその関係をとりもつ」能力です。
それが「神霊や霊魂との交信」を可能にし、また「死から生への転換」をも可能にするのです。
ククリヒメは「シラの神」なのです。
白山もまた「シラ(死と再生)の山」であり、 「シラの神」であるククリヒメが白山の女神と考えられたのも当然と言えるかもしれません。
ククリヒメを主祭神とする白山比咩神社は、じつは「縁結び」の神社としてむしろ有名です。
これもククリヒメの「正反対の存在の間に立ってその関係をとりもつ」能力の得意とするところであることは、言うまでもありません。
「良縁」を求めている善男善女の方々、金沢観光の折には是非白山比咩神社にまで足を延ばしてみてはいかがでしょうか(笑)。
ククリヒメは優しい神様ですヨ。
それはともかく(笑)、そのようなククリヒメの能力は「境の場」でないと発揮できないはずですが、この女神が祀られる白山比咩神社の鎮座する「場」はどうなのか。
神社だからある程度の「境の場」であることは間違いないのですが、そのぐらいのことでククリヒメの特別な能力が発揮されるものでしょうか。
じつはこの神社が鎮座するのは、大げさに言えば「大いなる境の場」 (やっぱり大げさデスネ.笑)とも言うべき場所だったのです。
次回はそのあたりを。
参考文献:
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)