アフター・コロナの世界 ~ その時、日本の”立ち位置”は?
アフター・コロナ、つまり世界のコロナ禍が終息したあとのことが、今さかんに言われていますね。
その時世界の政治・経済の状況や国家間のパワーバランス等はどうなっているのか。
そしてその時日本はどうなっているのか、どうあるべきなのか。
ワタシなりに取り急ぎ考えてみました。
なお、ここで注意されたいのは、これはあくまでワタシの想像、よくて推測に過ぎないということです。
ただ、「アフター・コロナの世界」を考えるにあたって、ある程度”最悪の展開”を予測しておくことは、決して意味の無いことではないと思います。
最後までお付き合い頂ければ、と思います。
(パンデミック後に歴史が変わる……↓)
多くの方が懸念されているように、中国が前時代的な「覇権国家」を目指して動くことになると思われます。
報道を見てもその”動き”はすでに、軍事的にも経済的にも始まっているようです。
欧米は当然、それを良しとはしないでしょう。
というより許さないでしょう。
やはり多くの方が懸念されているように、その時欧米(だけでは無いでしょうが)の政治・経済は大変なことになっていると思われます。
それなのに、コロナが世界中に広がる原因を造ったはずの中国は、その後いわば”火事場泥棒”的に勢力を増長させている、と欧米の国々が考えてもおかしくはありません。
何よりも自分たちが弱っているときに、中国だけが突出して強大化することに対する危機感は、ワタシたちが想像する以上に大きいはずです。
まさに欧米諸国はそれを「危機」と捉えることでしょう。
欧米を中心とした世界と、
中国を中心とした世界。
コロナ過がいつまで続くのかにもよると思いますが、それを原因とした”危機”をきっかけとしたこの両者の対立が、”衝突”に発展する可能性は否定できません。
それは、もう決して「絵空事の世界」ではないと思われます。
その時、日本はどうするのか。
拙著『影の王』で述べたことですが、ワタシは日本という国は「境界の国」だと考えています。
「境界」 、つまりは以前当ブログでやや詳しく言及した「境の場」です。
そこでは「あの世」と「この世」の「境の場」について説明しましたが、日本が”あの世とこの世の境界”というわけでは、もちろんありません。
(「境の場」については以下をご参照のほど↓)
先ほど「欧米を中心とした世界」「中国を中心とした世界」と言いましたが、要するに西洋的社会と東洋的社会です。(西洋文明と東洋文明、と言ってしまうとちょっと大袈裟な感じになってしまうので、ここではそうしておきましょう。)
日本という国は、その西洋的社会・東洋的社会どちらにも属さない、あるいは逆に、どちらにも属する、という「境界の国」だと考えるのです。
境界(境の場)には、 「物事の意味や価値が転換・逆転する」あるいは「(境界の両側にある)対立する二つの世界を結びつける」という重要な働きがあります。
(「転換力」については以下をご参照ください↓)
あの世とこの世の境界では、以前述べたようにククリヒメのような巫女的存在がその役目を担っていましたが、「あの世とこの世」も含めたあらゆる「境の場」でその”仕事”を担うと汎世界的にみとめられる存在が、いわゆる「トリックスター」と呼ばれるものです。
トリックスターは性別を持たない、あるいは両性具有であるという世界共通の特徴があります。
日本古来の境界の存在である、塞神(サエノカミ)や道祖神、あるいはククリヒメと泉守道者(ヨモツモリミチヒト)のペアは、いずれも「男女一対神」の形をとっていますが、その根底には「トリックスター=両性具有」の思想があることは間違いないと思われます。
世界中の神話・伝説において、このトリックスターはさまざまな奇跡的な事績を行って見せます。
(しかしトリックスターは意識的にそのような”仕事”をするわけではありません。自分の”慾”に従って”無意識に”ヤリタイように行動しているだけで、 ”結果的に”そうなっている、ということが多いのです。)
物事(社会の仕組み・秩序なども含めて)の意味や価値を「転換・逆転」させたり、対立する二つの世界の間に立って両者を結び付けたりするなどして、新しい価値(文化や利益)をもたらし、新しい世界を切り開くのです。
もっと分かり易く砕けた言い方をすれば、「破壊(したあとの)・創造」ということにでもなるでしょうか。
文化人類学的にはエルメス(ヘルメス)神や、さらに一般的存在として「道化」がその典型と考えられています。
個人的意見ですが、実在の人物としては、坂本龍馬などはその典型ともいえるでしょう。
日本は西洋的社会と東洋的社会の間の「境界の国」ではないかと述べました。
つまりこの国は、西洋・東洋の間に立つ「トリックスター」なのではないか、というのがワタシの考えです。
拙著でやや詳しく述べたのですが(長くなるのでここでは避けます)、日本という国の歴史や文化や気質には、トリックスターの性質とされている特徴が、驚くほど当てはまるのです。
先述したように、もし仮に、「欧米を中心とした世界」と「中国を中心とした世界」がはっきりと対立すると仮定した場合、日本はその時どうするのか。
ここまで述べてきた流れの限りにおいては、日本は両者の間に立ってトリックスターとしての役割を持つのでは、ということになります。
しかし、その時の政治・外交上の判断でどちらかにつく、という可能性はもちろん大きくあります。
そうなった場合、日本が(新しい世界の構築という点において)何ら意味のある働きを為すことは出来ないと思われます。
多くの日本人が薄々感じているように、日本の政治家や、外務省をはじめとする「国」に、そのような”力”は無いでしょう。
せいぜい、軍事面や経済面での多大な”供出”を強要されるだけでしょう。
では、どちらにもつかず、両者の間に立った場合、日本には何ができるのか。できることがあるのか。
この場合も、国や政治家に期待できることはあまり無いでしょう。
神話上のトリックスターのように、無意識に行動していたら、いつの間にか最良の結果になっていた、というわけにもいきません。
実は、対立する二つの世界の間を立ち回って、意味のある”結果”を出すというのは、非常に難しいことで、相当な能力と努力が要求されます。
意味のある結果どころか、両方からツマハジキにされるか、最悪の場合、スケープゴート(生贄の羊)にされてしまいかねない可能性さえあるのです。(まさに「道化」がその役割を負わされることがあります。)
「境界」とは、それほど危険な立ち位置でもあるのです。
ではどうすれば。
ワタシが密かに期待するのは、政治家や国や経済界の大物などではなく、ワタシやアナタも含めた、ごく一般のフツーの日本人です。
言葉はよくありませんが、いわゆる”その他大勢”に属する、大多数の人たち。
そもそも今、日本が世界中から称賛されたり高い評価を受けたりしているのは、名も無い日本人たちの”行動”にこそあるのだと思われます。
どのような辛く苦しい状況に置かれても節度ある行動を忘れない”意識の高さ”。
自分よりも周囲を気遣う思いやりの心。
ひとりひとりの力は弱くても、お互いに心と力をつなぎ合わせることで、存外の”強さ”を発揮することのできる日本人。
それは一朝一夕に築かれたものではなく、非常に古くからの伝統・精神文化に基づくものです。
それがあるいは、世界中のやはり一般のフツーの人たちの心を動かすのかもしれません。
あるいは、苦しい状況の中でも頑張りぬいた、名も無き日本の技術者たちが、問題の解決に結びつくような”ナニカ”を開発するのかもしれません。
これから訪れるかもしれない”危機の時代”には、また私たちが「当たり前」と思っている”節度ある行動”や”思いやりの精神”が発揮されることでしょう。
それは国家レベルで見れば(国家を人に見立てれば)、まさに(トリックスターと同じ) ”無意識”の行動です。
それが”対立する二つの世界”の衝突を霧消させたり、新しい世界を切り開く、といった淡い期待は抱かないほうがいいのでしょう。
しかし現代はSNS等で、一瞬で日本中さらには世界中とつながることが出来る時代でもあります。
日本人一人一人の行動の結果として、「何」が起きる、とは言えないまでも、「何かが起きる」、ということは期待してもいいのではないでしょうか。
あくまで最初から最後まで推測であることには違いないのですが。
以上、ここまでワタシの個人的考えをつらつらと述べさせていただきました。
取り急ぎ書いたので、非常にザックリした内容にもかかわらず、読みづらい文章になってしまったことをお詫びいたします。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。