すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(5)沖縄と加賀の不思議な一致
「シラ(死と再生)」の信仰である白山(シラヤマ)信仰に基づいた「擬死再生(=ウマレキヨマリ)」の儀礼は、白山を仰ぐ加賀よりもむしろその近辺の地域に有名なものが残っています。*1
三河地方の「花祭」における「白山(シラヤマ)行事」や、富山県立山の芦峅寺における「布橋灌頂(ぬのはしかんじょう)」がそれです。
詳しく述べる余裕はありませんが、いずれも「橋」を渡って「暗く密閉された空間」に籠もったあと、解放されることで”新たな力強い自分に生まれ変わった(ウマレキヨマル)”ことを実感するというものです。
では肝心の加賀にはそのような民俗儀礼がまったく残っていないのかといえば、花祭や布橋灌頂ほど大々的ではありませんが、じつは細々と伝えられてきた”奇習”があります。
それが金沢にいまも残る「七つ橋渡り」です。
金沢の古い街なかだけで口伝えで伝承されてきた行事です。
この行事は春と秋の彼岸中日の真夜中午前0時に行われます。
50歳前後の女性たちが集団で、街なかを流れる浅野川に架かる七つの橋を、上流から下流に向かって順番に渡ってゆくのですが、
- 新しい「白い」下着をつける。
- 行事の最中は無言で歩く。
- 行事の最中は決して後ろを振り返らない。
- 同じ道、同じ橋は二度と通らず、一筆書きのように進む。
などの決まり事があります。
これによって”老齢後の健全”が叶うというものです。
あきらかに「シラ(死と再生)」の概念に基づく「生命力の更新」を図る儀礼であり、これによって「グレードアップされた新しい自分に生まれ変わる」のです。
ただ「七つの橋を渡る」というこの儀礼の起源はまったく不明なのだそうです。
ところが、この儀礼と驚くほど酷似している儀礼が、遠くはなれた沖縄の祭祀の中にあったというのです。
その祭祀とは「イザイホー」です。
沖縄のなかでも”聖地”として知られる「神の島」久高島。
そこで1978年まで行われていたのがイザイホーです。
久高島で生まれ育った女性はある一定の年齢に達すると必ず、神に仕え、また家族を守護する「神女(タマガエー)」になることになっていたのだそうです。
12年ごとの午年、旧暦十一月十五日の満月の日から4日間にわたって行われる、30歳から41歳の女性が「神女」に就任する儀式、それがイザイホーなのです。
金沢の「七つ橋渡り」と酷似する儀式はその初日に行われます。
その名もまったく同じ「七ツ橋渡り」です。
※『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』比嘉康雄(集英社新書)より
イザイホーの「七ツ橋渡り」では、初日の夕刻、 「白」装束の女性たちが”エーファイ”と連呼しながら「七ツ橋」と呼ばれる橋を渡って”他界との境界”である「神の宮(ハンアシャギ)」に入り、入りきると踵を返してまた「七ツ橋」を渡って”現世”側に出てくる、ということを7回繰り返します。
7回目にハンアシャギに入ると全員で「神歌(ティルル)」を歌い、歌い終わると反対側の出口から”他界”である「七ツ屋」に入ります。
神女となる女性たちはそこで一晩を過ごし、二日目の午前中にそこから出てくるのです。
イザイホーはその後も続き(全4日間)ますが、「七ツ橋渡り」に関する行事はここまでです。
細かい相違点はありますが、 「橋」を7回渡る ということ、 「グレードアップした新しい自分に生まれ変わる」と言った点では完全に一致しています。
とくに、 「七つ橋渡り」という儀礼名の一致など偶然とは思えないものがあります。
なにより両者ともに「シラ(死と再生)」の儀礼であると言う事。
「シラ」の最も古い形が、柳田国男によって沖縄の地に見出されていたことは、以前述べた通りです。
もうひとつ、両者の奇妙な一致点を述べましょう。
金沢の「七つ橋渡り」では上流から下流に向かって順次橋を渡っていくと先ほど述べましたが、最後の橋である昌永橋からさらに下流側へ1キロほど下ったところに「七ツ屋」町があります。
前述の通りイザイホーの「七ツ橋渡り」でも、最後の7回目からさらに”他界”側へ向かって「七ツ屋」に入ります。
これを偶然と捉えるかどうかは、読んでいるアナタ方におまかせします。
もちろんワタシは偶然とは思っていません(笑)。
他にも沖縄久高島と加賀のそれぞれ独特の民俗儀礼・風習において、奇妙な一致を見せるものがいくつかありますが、長くなるのでここではもう言及しません。*2
それはさておき、前回、 「大いなる境の場」としての加賀と白山比咩神社について述べましたが、そこでひとつ大事なことを言い忘れていました。
それはこの地が、東日本と西日本のちょうど境界、すなわち日本列島全体の「境の場」でもあったということです。
大げさと思われるかもしれません。
しかし前回述べた、この地の他の「境の場」的要素からみても、それが偶然だとは思えません。
だとすれば、この地を「列島規模の境の場」であることを見出した人たちとは、当然、 ”列島規模でこの地を見ることが出来た人たち”であったに違いありません。
もちろん飛行機も無ければ人工衛星も無かった時代の話です。
それは遠い海からやって来て、海からこの日本列島を見ることのできた人々であったはずです。
それも南の海からやって来た人々だったはずです。
なぜなら南から海流に乗って来た時に、真っ先に見える秀麗な「白い山」こそが加賀の白山であり、また逆に北から来たのだとすれば「白い山」など珍しくも無く、そこを自らの信仰(「シラ(死と再生)」)の”聖地”になどとは考えなかったでしょうから。
以上のことから、加賀の地に「シラ(死と再生)」の概念、 「白山(シラヤマ)信仰」 、そして「七つ橋渡り」の儀礼の原型等をもたらした人々とは、
すなわち沖縄から来たと考えるのが、もっとも自然だと思われるのです。
ところで「シラ」の概念をたずさえて沖縄から来た人々は、加賀の地だけにとどまったのでしょうか。
もちろんそうではありません。
何しろこの日本列島を、それこそ列島規模で眺めていた人たちです。
彼らは主に日本海側を中心に日本列島中に展開したとワタシは考えています。
その傍証となるものが、列島中の「縄文遺跡」から発見されているのです。
ワタシが、 「シラ」あるいは「シラヤマ信仰」の原型が縄文時代に伝わって来た と考える理由はそこにあります。
またその名残ともいえる信仰儀礼が東北地方各地に残っています。
次回は縄文時代に伝わった「シラ」とその具体例について見ていきましょう。
参考文献:
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)