すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(6)縄文の「シラヤマヒメ」
沖縄から対馬暖流に乗ってやって来たシラ(「死と再生」)の概念・信仰は、主に本州日本海側に広がってシラヤマの信仰となった。
その傍証となるものが各地の縄文遺跡から出土している。
またその名残と言える信仰儀礼が東北地方各地にも残っている、というのが前回までの話。
つまり「シラ」は縄文時代に沖縄から伝わったことになります。
縄文期にすでに「シラ(死と再生)」の概念が伝わっていたことを示す遺物とは何か。
お気づきの人も多いかと思いますが、それは土偶です。
土偶はその形状(胸部や女性器、妊娠を示す腹部)から女性像であり、豊饒・増殖の女神、大地母神をかたどった姿であるとの見方が非常に有力です。
その理由として妊娠を示す形状のものが多いこと。
そしてほとんどすべての土偶は人為的に、全体や一部が破壊された状態で発見されていますが、最初から破壊する目的で壊されやすいように作られていたことなどが挙げられます。
土偶を破壊する事というのは、つまり大地の女神を破壊=殺害するということ。
古事記などに見られる日本神話や南北アメリカを含む太平洋各地の神話では、女神を殺害することで、その遺骸から多くの食べ物や作物(の起源)が得られたという共通のモチーフが数多く見られます。
その代表的な神話の女神の名からハイヌヴェレ(ハイヌウェレ)型と呼ばれる食物起源神話です。
あまりに広範な分布から、相当に古い思想であると考えられます。
つまり土偶が最初から全体や一部を破壊するために作られていたということは、女神を殺すことで豊饒を願い、またケガや病気からの快復を願い、さらにそこから転じて(乳幼児の死亡率が高かったことから)死後の再生や多産までも願う一種の呪物だったと考えられるのです。
これはまさに「死と再生」すなわち「シラ」の信仰です。
では土偶が象った女神とは「シラ」の女神なのか。
土偶と同じ時期に盛んに造られたものに男性器を象った石棒があります。
両者が一緒に出土する例もあることから、これらは一つのセットだと考えられます。
女神と男神のセット、つまり男女一対神。
この男女一対神の系譜は非常に古いことが知られていますが、そのルーツは縄文時代の「土偶ー石棒」にさかのぼるものだったのです。
そしてこれは、シラヤマ信仰の総本宮である白山比咩神社の主祭神(つまりシラヤマヒメ)であるククリヒメと、その相方である泉守道者(ヨモツモリミチヒト)の男女一対神と重なります。
事実、現在の主祭神はククリヒメですが、柳田国男が当時の白山比咩神社の宮司から聴き出した社伝では、古くは「陰陽二神」(つまり男女一対神)だった、という話があるのです。
男女一対神というのは、その多くが男女の性的結合を表している神像なのです(そのため「男女一対の性神」という言われ方もします)が、白山比咩神社が永く「陰陽二神」であることを秘していた理由もそのあたりにあるのではないでしょうか。
話しがそれましたが、いにしえの人々はそれほどまでに女神の妊娠による豊饒と多産を祈願していたと言えます。
先ほど「土偶が象った女神とはシラの女神なのか」と書きましたが、少し形を変えてもう一度問いましょう。
シラヤマ信仰のククリヒメと泉守道者の男女一対神(陰陽二神)は、本当に縄文の土偶と石棒に起源を持つのか。
これはシラヤマ信仰は本当に縄文にまで遡るのか、 「土偶ー石棒」はそのことを示すものなのか、という問いでもあります。
さて?
縄文の「土偶ー石棒」とシラヤマ信仰の「陰陽二神」の間(ミッシング・リンク)を埋めるものはあるのか。
実はその”連続性”については、おおよそ分かっています。
まず縄文に続く弥生時代。
縄文からの系譜を引くと考えられる「人形(ひとがた)土製品」 、 「石棒」や「木製の男根像」が各地で出土していますが、前期でほぼ姿を消します。
それを継ぐのが弥生中期以降の「男女二体の木偶」で、出土場所が集落と墓地の「境界」に位置する祭場と推測されているケースもあります。
この系譜はずっと続き、平安期にはそれがさまざまな神像として残っていたことが記録で確認されています。
京都の辻々に祀られた、男女の性器が刻まれて赤く塗られた男女二体の木製神像である「岐神(クナドノカミ)」 。
同様に辻や村境などの「境の場」に祀られた男女二体の性神である「サエノカミ(道祖神・塞神)」 。
現在でも男女の結合を表した「道祖神(ドウソジン)」(双体道祖神)が見られることをご存知の方も多いでしょう。
ここまで来るとシラヤマ信仰の「陰陽二神(男女一対の性神)」との類似性は明らかです。
おそらくシラヤマ信仰の「陰陽二神」の姿も、「クナドノカミ」や「サエノカミ」、あるいは弥生期の「男女二体の木偶」とほとんど同じなのだと考えられます。
「男女二体の木偶」は、実は現代にも残っています。
東北地方各地に残る「オシラサマ」です。
地域によっては「オシラガミ」 。
「シラ」様であり、 「シラ」神です。
これらのご神体は、 「男女二体の木製神像」であることが知られています。
さらには遠野地方では「男女二体の性神」を「シラア」 (!)と呼んでいた(宮田登『白のフォークロア』 *1より)といいますから、弥生期にさかのぼる「男女二体の木偶」 、さらにはそれとはっきり”連続”するルーツである縄文の「土偶ー石棒」が、少なくとも「シラ」の信仰につながることはかなりの確率で言えるのではないでしょうか。
もう一つ決定的なことがあります。
「オシラサマ」といえば”口寄せ”で有名な「イタコ」の大切な呪具で、筒に入れて常に持ち歩いています。
民俗学者の宮本常一が、あるときイタコに無理を言ってその筒の中身を見せてもらったところ、中に紙が入っており「白山姫神」と書いてあったというのです。
前田速夫氏がその著書『白の民俗学へ』のなかで、”オシラサマ(オシラガミ)がシラヤマの神である動かぬ証拠”とやや興奮ぎみにこのことを報告しています。
「男女二体の木偶」であるオシラサマは、シラヤマの女神=ククリヒメと泉守道者の「男女一対神」と直接つながるものだったのです。
さらに付け加えれば、オシラサマはカイコの神(蚕神)としても知られますが、蚕もまた「シラ」を体現する生き物なのです。
蚕は脱皮を繰り返して一旦死んだようになった幼虫が、サナギとなってマユの中に静かに籠もり(このときサナギの中では蚕が一旦ドロドロに溶けた状態となり、生物の体を成していない、つまり疑似的「死」の状態にある)、何日後かにマユを突き破って、より華々しい成虫として力強く「再生」(羽化)することで、 「死と再生」を体現しているのです。
つまりオシラサマにも実質的に「シラ」=「死と再生」の信仰の特質が認められるのです。
ちなみにイタコといえば「恐山」ですが、この「オソレ」山も「オシラ」山から転訛したものではないかと個人的には考えています。
このように「男女一対の性神」の系譜は縄文期の「土偶ー石棒」から連綿とつながっており、それは(沖縄から来た) 「シラ」の概念・信仰に基づくものであると、かなりの確率で言えることが分かりました。
シラヤマ信仰の「陰陽二神(ククリヒメ・泉守道者)」もこの系譜につながることは確かなのですが、シラヤマ信仰自体が縄文期にまでさかのぼるものなのかどうか。
その”物的証拠”といえる縄文遺跡が、白山比咩神社の周辺(古社殿伝承地など)でいくつか見つかっています。
縄文中期の舟岡山遺跡・白山上野遺跡。
縄文後期~晩期の「白山(しらやま)遺跡」 。
これらはその立地上、白山比咩神社およびにシラヤマ信仰との関係が疑われている遺跡です。
とくに後~晩期の「白山遺跡」は中世にまで継続する集落遺跡で、祭祀施設だったとみられる「ウッドサークル」も発見されており、白山比咩神社の”起源”と深く関わる遺跡であると考えられるのです。
このようにシラヤマ信仰およびに白山比咩神社の「原型」さえもが、縄文期にまで遡る可能性が非常に高くなってきました。
縄文期に(沖縄から)伝わった「シラ」の概念・信仰に基づいて作られた「土偶ー石棒」の「男女一対神」 。
同じく縄文期にさかのぼり、同じく「シラ」の概念・信仰に基づくシラヤマ信仰の(「ククリヒメー泉守道者」という) 「陰陽二神」 。
前回(すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(5)沖縄と加賀の不思議な一致)で見た沖縄と加賀のただならぬ”関係”も考え合わせれば、 「土偶ー石棒」と「陰陽二神」は同等もしくは同一であると考えられるのです。
つまり「縄文の土偶」は、豊饒の女神(大地母神)でもある「シラヤマヒメ」を象ったものである、と。
この結論部分だけに関して言えば、これはワタシの個人的意見ではなく、何人かの専門家も同様の考えを持っています。
縄文期以降の「シラ」の概念・信仰およびに「シラヤマ」信仰の広がりと定着ぶりを見れば、沖縄から「シラ」の思想・信仰をたずさえて来た人々は、単に伝えるために来たのではなく、 ”移住”を伴っていたはずです。
それも大量に。
ではなぜ、彼らはわざわざ遥か遠くの北陸までやって来たのか。
そしてそれは一方通行的なものだったのか、それとも双方の往き来、さらには”交流”があったのかどうか。
それも含めて次回以降ということで。
参考文献:
他多数。