甲賀の真実
』(6)はまた次回ということで。
甲賀については前回、全国の木地師の中心とチラリと述べましたが、正確には甲賀を含む「南近江」一帯と書くべきでした。
この南近江は、かつて栗本慎一郎氏が「日本における闇のシンボルゾーン」と呼んで、日本の歴史を影で(=裏から)動かしてきたと指摘した土地です。
その原動力は、栗本氏は「山人(やまびと)」の系譜と言っていましたが、ワタシ流に言えば、それこそ「境の場の住人たち」だったのです。
具体的には(前回やや詳しく列挙しましたが)「商人・木地師などの工芸人・金属民(鉱山師・鋳物師・鍛冶師等)・芸能民(遊女・白拍子・傀儡子・大道芸人等)・宗教民・山岳修験者・‥‥etc.」といったヒトたちです。
点、そして「さまざまな”富”を産み出す」という点にあります。
日本列島の中心部にあり、また琵琶湖の水運をも視野に入れた東西南北の交通の要衝でもあった南近江一帯は、そのような「境の場の住人」が各地を遍歴する上で必ず往来する場所であり、全国各地の”富と情報”が行き交う特別な地域でもあったのです。
先述した木地師の本拠地ともいえる中心は南近江の現・東近江市(笑.ヤヤコシイですが一応南近江とします)の山深くにある君ヶ畑、蛭谷です。
この東近江市と甲賀にはさまれた地域には日野川が流れる日野町がありますが、全国に何か所かこれと同じ地名が散在しています。
詳しく述べる余裕はありませんが、この地名は古代から続く”金属にかかわる(採鉱・精錬加工など)”地名です。
実際、日野川流域には金属にかかわる地名や神社が散在しています。
また南近江には金属民の崇敬を集める霊山・三上山と御上神社が、野洲市にあります。
俵藤太伝説で藤太に退治された大ムカデが住んでいたのが三上山です。
ムカデは歴史・民俗学では金属民の象徴とされています。
注目すべきは南近江には秦庄をはじめとして、 ”~畑”など「秦氏」との関連をうかがわせる地名が多数あり、実際秦氏一族の根拠地の一つでもあります。
それもそのはず、鏡神社や兵主大社、穴村(穴村町)など、秦氏の祖伸であるアメノヒボコ*1に関係する地名や神社があるのも南近江です
南近江の西隣、京都と隣接した大津市には、古代からの石工技能集団で、戦国期には城の石垣造りに重宝された穴太(あのう)衆の本拠地がありました。
この穴太(アノウ)は、前回述べた聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の穴穂部(アナホベ)とも関係しています。*2
このような人々というか集団、すなわち「境の場の住人」たちが集住し、盛んに行き交っていたのが南近江であり、甲賀だったのです。
まさに全国規模の情報と物資と技術と富が南近江には集中していた。
そしてそれは特に戦国期において、戦略上おおいに求められたものばかりです。
そしてそこに住む人々は必然的に、 ”機を見るに敏”で”理にさとく”なります。
このような(しかも伊賀と隣接する)甲賀に全国屈指の忍者集団が生まれ、戦国期におおいに勢力を拡大したのも、ある意味当然と言えるでしょう。
そしてこの土地に生まれた戦国期の大名、六角氏や蒲生氏などはまさに南近江的な性格を濃厚に持った大名であり、「境の場の住人」との結びつき*3を背景に表舞台に出てきた人たちだったと考えられるのです。