古代史は小説より奇なり

林業家kagenogoriが古代の謎を探求する

縄文人とイヌイットの関係? アラスカ発見のペトログリフが真脇出土のものと似てるような・・・

 

 

 

 

 

 

 まずはこちらの記事(5/28(土)付)をご覧ください。

 

 雑誌『サライ』さんのサイトからお借りしました。

serai.jp

 

 

(こちらも別のところからお借りしましたm(_ _)m)

出典: USDA Forest Service Alaska Region

 

 

先史時代のものであるペトログリフ(岩面彫刻)自体は世界中で見つかっており、

 

それらは距離的に大きな幅があるにもかかわらず、

 

その文様のデザインは(すべてでは無いですが)

 

どれも比較的似通っているように思われます。

 

 

その代表的な文様のひとつが上記写真に見られるような同心円状の文様です。

 

 

 

 

 

記事にもあるように、このアラスカのペトリグリフ(岩面彫刻)

 

8000年前という意見が有力なようです。

 

 

日本列島で云えば、、

 

縄文文化が飛躍的に発展し始める縄文前期(7300年前~5500年前)

 

よりもさらに古い、縄文早期(1万1000年前~7300年前)のあたりです。

 

 

 

一方、下に示すのは、

 

石川県能登地方の縄文遺跡、真脇遺跡から出土した「装飾木柱」

 

その個性的な外観から俗に「縄文のトーテムポール」とも呼ばれているものです。

(ちなみにアラスカのトーテムポール自体の歴史は浅く、白人文化と接触して以降のものと考えられています)

 

真脇遺跡出土の「縄文のトーテムポール」(教養文庫『縄文からのメッセージ』より)


5000年前(縄文中期)のものです。

 

 

はっきりした同心円状の文様があることが分かりますね。

文様部分の拡大とスケッチイラスト(教養文庫『縄文からのメッセージ』より)

 

 

真脇遺跡は、

 

縄文前期(7300年前~)、縄文中期(5500年前~)、

 

縄文後期(4500年前~)、縄文晩期(3200年前~2900年前)

 

にわたる集落遺跡です。

 

単純計算なら4000年にもわたって栄え続けた稀有な縄文遺跡なのです。

 

 

 

それぞれの時代から重要な遺物が出土していますが、有名なものを挙げますと、、

 

前期 : 装飾木柱(前出↑)、大量のイルカの骨、丸木舟の櫂、

 

中期 : 大型石棒、鳥形土器、有孔つば付土器、大量のイルカの骨

 

後期 : 土製仮面、注口土器

仮面のまつり土製仮面(真脇遺跡

 

晩期 : 巨大木柱根(環状列木、いわゆるウッドサークル)、

     御物石器、石冠、石刀

 

 

 

真脇遺跡縄文時代の遺跡としては、かなり大規模な中核遺跡とされ、

 

また「祭祀」に関わる遺物が多いことも特徴です。

 

そのことを最も端的に示す遺物こそが、例の装飾木柱なのです。

 

 

 

この装飾木柱はその後作られることは無く、

 

この直後あたりから北陸・飛騨で主に見つかる「玉抱き三叉紋付き石棒」

 

に置き換わったと見られています。

 

教養文庫『縄文からのメッセージ』より)

石川・富山・岐阜県飛騨地方で出土する「玉抱き三叉紋付き石棒」



 

この一見目玉のような、あるいは女性器のような文様はなんでしょうか、、、

 

 

アラスカは8000年前、真脇出土の木柱製品は5000年前、、、

 

と時代に開きがありますが、

 

 

日本列島にも、この文様とそれに関する概念は、

 

5000年よりももっとさかのぼるのかもしれません。

 

 

 

また日本列島とアラスカは、地理的にもかなり離れています。

 

 

 

恐らく、ですが

 

有史以前の日本列島から、すくなくともアラスカにかけて、

(もちろんこの範囲はもっと広がっていた可能性もあります)

 

この文様に象徴される共通の概念があったのではないか、、、

 

そう推測することも可能だと思われます。

 

 

 

日本とアラスカ、両方に共通する概念、、、

 

ワタシが思い浮かぶのは「シラ」です。

 

 

「シラ」の概念、あるいは「シラ」の信仰、、

 

詳しくは過去記事(↓)に譲りますが、

 

一言で言うならば「死と再生」の思想・信仰ということです。

 

 

「シラ(sir-)」に関連する言葉、概念は、

 

環太平洋を中心に、世界中に散見されます。

 

kagenogori.hatenablog.jp

kagenogori.hatenablog.jp

 

 

上記に挙げた過去記事でも述べましたが、

 

「シラ」の本源とは、

 

大自然の大いなる力・精霊(スピリット)であり、

その特有の力である「転換力」を以て、

 

・ものを浄化(キヨメ)し、

・誕生、再生、生命力の更新を実現し、

・農作物の豊穣、狩猟採集物の豊饒をもたらす、、、

 

それが「シラ」だと考えられます。

 

 

このような「シラ」は、

 

おそらく縄文時代から続く、泰澄以前の「シラヤマ信仰」に色濃く見られ、

 

 

またアラスカにも同じ意味を持つ、

 

まさに「シラ」と呼ばれる「大自然の大いなる力」が信じられていました。

 

 

そしていうまでも無く、これと同じような概念・信仰は、

 

「シラ」という言葉であったかどうかはともかく、世界中に見られるものでした。

 

 

 

真脇遺跡の装飾木柱(縄文のトーテムポール)の文様が、

 

「女性器」に酷似していたことを思い出して下さい。

 

 

これこそ「生命の誕生・再生」に関わる「シラ」に密接した文様だったのではないか。

 

想像の翼をやや広げてしまえば、そう考えることも可能です。

 

 

装飾木柱の後を引き継ぐ「玉抱き三叉紋付き石棒」の目玉のような文様も、

 

実は同じような意味があるとも考えられています。

 

 

アラスカのペトログリフには様々な文様や意匠が発見されていますが、

 

その中でも同心円状の文様には、日本列島のシラヤマ信仰に引き継がれる

 

「シラ」と同じ意味があった、

 

 

とすれば、ロマンがありますね(*^^*)

 

 

 

 

 

今回、取り急ぎ書いた記事ですので、

 

欠けてることや説明不足の部分などもあったかもしれません。

 

とりあえず、、、あしからず(笑)ということでm(_ _)m

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地上に描かれた謎の図形

 

 今回は、ちょっと不思議な巨大図形についてのお話です。

 

 問題提起という意味も込めて・・・

 

 

 

 

 

沖縄県久米島沖の海底図形

 

 このグーグルアースを開いてみて下さい。

earth.google.com

 

 

 沖縄本島の西にある久米島

 

 

 その久米島の真北、数十kmの海底に、

 

 巨大な長方形があるのがお分かりになるでしょうか?

 

 「地上に」というタイトルとは、いきなり反する海底ですが(笑)

 

 

 この長方形、ほぼ正確に東西南北の線に沿っています。

 

 

 そして長方形の内部にもやはり正確に東西と南北の直線が、

 

 いくつも引かれています。

 

 格子状?なのでしょうか。

 

 一体何だと思われますか?

 

 まるで古代の長安平城京平安京のようですね。

 

 よく見ると、その南側に大きなピラミッド状の山(海山)

 

 があることに気付きます。

 

 ただピラミッドは四角錐ですが、これは三角錐のようにも見えます。

 

 そういえば(この海底ピラミッドは南側ですが)平安京の北側には

 

 舟岡山がありますね。

 

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 本当に、これは一体、、、、、、、何なのでしょう?

 

 もしご存知の方がいらっしゃったなら、ご教示頂ければありがたいのですが。

 

 自然の造形でないことは、まず間違いないような気がします。

 

 

 では古代の遺跡? 

 

 それとも現代において、海底資源かなにかを採掘した痕跡?

 

 

 採掘跡にしては規模が大きすぎる(パッと見た所、約東西70km、南北50km)

 

 と思われますし、

 

 そもそもその辺りで何かが採掘された、されているという事実自体がありません。

 

 

 伊平屋島伊是名島の西方沖や久米島西方沖で、

 

 熱水鉱床のボーリング調査が行われたことがありますが、

 

 ボーリング調査ですから規模はスポット的なものですし、

 

 そもそも場所がかなりずれています。

 

 

 では某国が(笑)日本に断りなしに、海底でナニカやっているのか?(笑)

 

 その可能性は捨てきれません(笑)が、それにしてもやはり規模が大き過ぎます。

 

 

 では残る可能性、、、

 

 せっかく古代史ブログということもありますので(笑)

 

 何らかの古代遺跡である、という前提で検証してみましょう。

 

 

 まず、海底にあるので、たとえ古代人が高い建築技術を持っていたとしても、

 

 これだけ規模の大きな、たとえば都市のような構造物を、

 

 海底にこしらえるのは無理でしょう。

 

 

 となると、そこが陸上であったかもしれない、氷河期の時代でしょうか?

 

 それだと2万年さかのぼることになります。

 

 縄文時代の開始1万6千年前にまで遡ると言われますが、

 

 それよりもさらに数千年前に作られたことになってしまいます。

 

 

 何よりも問題なのは、

 

 氷河期において、もっとも海面が下がったのが120mと考えられている

 

 ことなのですが、

 

 この巨大長方形は、どうみてもそれより深い海域にあるように思われます。

 

 

 世界地図などで確認してみても、(正確な深度までは分かりませんが)

 

 少なくとも数百mの海底にあるように思われます。

 

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 要するに、たとえ氷河期の時代であっても、

 

 この海域は陸地にはなっていない、ということなのです。

 

 つまり、古代遺跡である可能性も、ほぼ、消えた・・・・

 

 

 

 ・・・・・・・検証するとエラそうに(笑)言ったわりには、

 

 結局なにも、分からずじまいでした(^^;

 

 

 ・・・本当に、これは一体なんなのでしょうか?

 

 グーグルアースのエラーか何かなのでしょうか?

 

 誰か、分かる方、いらっしゃらないでしょうか?(笑)😳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白山比咩神社を頂点とする正三角形

 

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白山比咩神社を頂点とし、国見山ー水葉山ー三輪山を結ぶ直線を底辺とする正三角形

 

 これはどうでしょう。

 

 ワタシが拙著『影の王』の構想を練っていた10年以上前、

 

 ボンヤリと石川県の地図で白山比咩神社周辺を眺めていた時に、

 

 偶然見つけたものです。

 

 

 まず金沢の山中にある国見山、水葉山、三輪山(みのわやま)が、

 

 きれいに同じ南北線に乗っており、水葉山はその中点にあります。

 

 

 そしてその直線を底辺にした正三角形を描くと、

 

 全国の白山神社総本宮である白山比咩(シラヤマヒメ)神社が、

 

 そのほぼ頂点に、ぴったりと乗ってきます。

 

(白山比咩神社と三輪山を結ぶ線の中点に奥獅子吼山がありますが、

 これはさほど正確ではありません)

 

 

 面白いと思いませんか?

 

 とても偶然に出来た図形とは思えません。

 

 ただ国見・水葉・三輪の三山は、自然の山ですので人工物とは言えないでしょう。

 

 しかし白山比咩神社は、もちろん違います。

 

 

 つまり・・・・

 

 古代において、だれか(あるいは集団)が偶然、

 

 国見・水葉・三輪の三山が、

 

 等間隔で一つの正確な南北線にのることを発見した。

 

 この場合、発見した人物・集団は、正確な測量技術を有していたと

 

 考えるべきです。

 

 

 古代において、この事実を発見した人物・集団は、これをどう考えたか。

 

 おそらく「神が作った聖なる三山」と思ったのではないでしょうか。

 

 

 それを自分たちが見つけたということは、

 

 この聖なる山々を祀って欲しい

 

 という神の意思なのではないか・・・

 

 

 少なくとも、「祀る必要がある」と強く感じたことでしょう。

 

 

 

 しかし・・・

 

 この三山のあたりは、ワタシも仕事でたまに行く辺りなのですが、

 

 とてもではないが、徒歩で度々訪れるなど不可能と思われる奥深い山なのです。

 

(今は道路が整備されてますが、それでもこの三山すべてを訪れるのは

 かなり難儀です)

 

 

 ではどうするか。

 

 そこで考えたのが、この三山から見て、正三角形の頂点にあたる場所

 

 お祀りするための「場」を設けること。

 

 それだったのではないでしょうか。

 

 

 しかし、いまそこに鎮座するのは白山比咩神社

 

 言うまでもなく白山をご神体とし、白山、そして白山の神を祀る神社です。

 

 この三山を祀っているわけではない。

 

 

 実を言うと、いま白山比咩神社が鎮座するこの地は、15世紀後半まで、

 

 別の神社があった場所なのです。

 

 

 

 その場所、

 

 もともとは白山七社のうちの「三宮(三宮姫神社)」

 

 があった場所だったのですが、祭神など一切不明。

※一応「白山比咩神の第三御子」とされているが、具体的なことは全く分からない。

 

 一部では、水の女である瀬織津姫が祀られていたのではないか、

 

 とも言われています。

 

 

 瀬織津姫、ここで詳しく述べる余裕はないのですが、

 

 要するに中央(大和朝廷)から「消された神」「隠された神」

 

 と思っていただければよろしいかと思います。

 

 

 どちらにせよ、中世半ばまで存在した重要な神社(白山七社のひとつ)の

 

 祭神さえ分からなくなっているということは、ちょっと異常です。

 

 意図的に隠されたとしか思えないでしょう。

 

 

 いずれにせよ、ここにかつて存在した「三宮(三宮姫神社)こそが、

 

 国見・水葉・三輪の三山を祀った祭祀場、のちの神社だった可能性は

 

 考えられるべきだと思います。

 

 

 「三」宮という名前もひょっとしたら、

 

 「三山」との関わりからきたのかもしれません。

 

 

 

 もっと、想像をたくましくすれば、、、、

 

 正三角形の頂点である現・白山比咩神社(旧・三宮)から下ろした垂線と

 

 底辺が交わる点(=底辺の中点)にあたる「水葉山」

 

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 その「ミズハ」という名前の由来となったと考えられる、

 

 「水」を司る蛇女神「ミズハノメ」(ミズハ=水蛇)

 

 祀った宮だったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 他にも石川県で言えば、『影の王』でもかなり詳しく言及した、

 

 次の南北線東西線があります。

 

 

南北線: 

気多大社能登一宮)白山頂上ー伊勢の奥宮といわれる伊雑宮のさらに奥宮 

                といわれる「天岩戸」と呼ばれる洞窟

 

 

東西線: 

不動堂遺跡大境洞窟(縄文遺跡・巨大石棒出土)ー気多大社能登一の宮

富山県)  (富山県

 

 お分かりのように、どちらにも 能登一宮の気多大社が乗っています。

 

 つまりこの南北線東西線は、気多大社交点として、

 

 垂直に交わっているのです。

 

 

 そして、そのことがとてつもなく大きな意味を持っているのですが、

 

 拙著でも詳しく述べたことなので、ここではごく簡単に、

 

「太陽(太陽神)の『死と再生』を再現している」

 

 とだけ述べておきましょう。

 

 

 

 

 いかがでしたでしょうか。

 

 ワタシは石川県に住んでいるので、

 

 石川県に関係する地上図形に気付くことができ、

 

 その意味も、曲りなりに推論することができました。

 

 でも同じような巨大図形はここだけにとどまらず、

 

 ひょっとしたら皆さんの身近にも、ひっそりと眠っているかもしれません。

 

 もし地図を開いたら、そのような視点で探してみるのも、

 

 面白いのではないでしょうか(^ω^)

 

旅をするなら ~番外編~   若狭・古代史の旅(*´ω`*)

 

 どうもお久しぶりでございますm(_ _)m

 

 先日、独りで福井県若狭地方へ日帰り旅をしてまいりました。

 

 

 

みんなの知識 ちょっと便利帳】[福井県の形と位置] - クイズ・形で当てよう都道府県の答え

 福井県の下(南)の方、細長い部分が若狭地方です。 その上は越前地方。 

 

 

 

 若狭地方は本当に大好きなところで、

 

 日本中に好きなところはいくつかあるのですが、

 

 地元石川もふくめて日本で一番好きな地域かも知れません(*´ω`*)

 

 

 その中でも特に好きな場所があります(#^^#)

 

福井県の地形・地盤

 

 それは小浜市の山間部(というほど山の中ではないのですが.笑)にある、

 

 「鵜の瀬」と呼ばれる場所です。

 

 細かい説明は後にして、とりあえず行ってみましょう(●^o^●)

 

 

 

 

 敦賀から若狭を縦断する国道27号線を行き、

 

 小浜市にはいってから県道35号線へと左折しますと、

 

 遠敷(おにゅう)川が流れる「遠敷」と呼ばれる地域になります。

 

 

 その入り口あたりに、まず、

 

 海神の娘・豊玉姫を祀る若狭姫神が鎮座しています。

 

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若狭姫神社 鳥居

 

 「下宮」とあるのは、若狭姫神のことですね。

 

 さらに上流には「上社」たる若狭彦神社があります。

 

 

 

 

 

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若狭姫神社 社殿

 

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 読みづらくてすみません💦

 

「遠敷神社」とありますが、

 

 若狭彦・若狭姫両神社を以て、

 

 また遠敷神社とも呼んでいるようです(^ω^)

 

 

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「乳神(ちちがみ)さま」と呼ばれる大イチョウの木です。

 

 イチョウの木の枝分かれしている辺りから、

 

 鍾乳石のような乳垂れが、見えますね。

 

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 若狭姫神を出て、県道35号線をさらに1.5kmほど、

 

 遠敷川をさかのぼるように南下します。

 

 

 若狭彦神社です。

 

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 祭神は彦火火出見尊ヒコホホデミノミコト)、

 

 つまりは山幸彦ですね。

 

 山幸と豊玉姫は、神武天皇の祖父母。

 

 

 豊玉姫は皇子(ウガヤフキアエズ:神武の父)を出産する際、

 

 夫の山幸に「絶対に出産の様子を覗き見るな!」とクギを刺しますが……

 

 

 「見るな」は「見ろ」ということかとダチョウ倶楽部ばりの解釈(笑)で、

 

 お約束通りノゾキ見てしまうダメ夫(笑)

 

 

 するとそこには愛する妻が・・・・

 

 おそろしいワニの姿になってのたうち回っていた!!Σ(゚∀゚ノ)ノ

 

 そりゃ逃げられますわ

 

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若狭彦神社

 

 

 若狭彦・若狭姫神は、いわば「ふたつでひとつ」の

 

 夫婦神(山幸彦・豊玉姫)を祀る神社。

 

 

 まず、ここに来られたことと、日々の感謝の気持ちをお伝えし、、、

 

 祈ることはもちろん「コロナ退散」もふくめた世界平和、

 

 そして夫婦円満・家内安全・・・って祈ったっけ?(笑)(*´∀`*)

 

 

 

 

 

 そして、最終目的地鵜の瀬目指して、さらに上流側へ・・・

 

 

 

 

 鵜の瀬に着きました。

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駐車場からみた「鵜の瀬」全景

 

 山がきれいですね(*´▽`*)

 

 

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     遠敷川にかかる橋。 向こう左側に見える建物が資料館。

 

 

 

 

 良弁(ろうべん)の生誕地となってますが・・・・ハテ?

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 良弁東大寺大仏建立、東大寺を開山、そして初代別当となった人ですが、

 

 その出自は相模国鎌倉漆部氏

 

 なーまんさんのブログの読者ならご存じのはず!(^ω^)

 

 もちろん通説もその通りで、

 

 東大寺乾漆像が多いのも、

 

 漆部氏の出身であったことが関係しているらしいです(●^o^●)

 

 

 

 しかし東大寺開山の祖ともなれば、

 

 その人に少しでもゆかりのある土地は、

 

 こここそが生誕の地! と主張したくなるものなのでしょうか。

 

 

 そういえば、良弁が寺を建てた近江国志賀里にも

 

 そのような伝があるようです^^;

 

 人気者は辛い?(´∀`*)

 

 

 たしかにここ若狭はこの由緒記にあるように、

 

 東大寺と深いつながりがある土地ではありますが。

 

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 ここに見える「実忠」は、言うなれば東大寺における良弁のお弟子さん。

 

 

 東大寺二月堂

 

 毎年旧暦2月におこなわれる修二会における「お水取り」

 

 その起源について、ここの由緒書きでは語られています。

 

 

 二月堂の地下から湧き出る「若狭井」

 

 そこに地下の長い長いトンネルを通じて、

 

 「閼伽水」と呼ばれる香しい水を送っているのが、

 

 ここ鵜の瀬というわけです。

 

 

 東大寺「お水取り」に先駆けて、

 

 ここ鵜の瀬では「お水送り」の儀式が行われるというわけです。

 

 

「鵜の瀬公園資料館」内の展示です。

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    鵜の瀬での「お水送り」      東大寺二月堂修二会(「お水取り」)

 

 

 古代の北陸は、ここ若狭だけでなく、

 

 白山からの雪解け水が得られる地域なども含め、

 

「越の変若水(こしのおちみず)と呼ばれるほどの、

 

 つまりは若返りの水を産出する所と信じられていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 役行者(えんのぎょうじゃ)、

 

 役小角(えんのおづぬ)の木像です!

 

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      ガラス越しなので、いろいろ写り込んでます(笑)

 

 手前が江戸期のもの。前鬼・後鬼が愛嬌ありますね(*´∀`*)

 

 奥の大きいのが室町期のものですが、さすがの眼力をしてます(;・∀・)

 

 

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 もちろん役小角が、

 

 ここの出身というわけではなく(所縁があるという話もワタシは知りません)、

 

 単に小浜における修験道の本尊として崇められていたものが、

 

 ここ「鵜の瀬公園資料館」で保管展示されることになったようです(^ω^)

 

 

 

 以下4枚の写真は鵜の瀬の清流です。

 

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            透明度が高いですね(*´▽`*)

 

 

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    この写真の向かい岸のあたりで、「お水送り」神事が行われます。

 

 

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 この鵜の瀬には一時間ほどいましたが、ずっとワタシ一人きりでした(*´ω`*)

 

 そばの県道も1,2台、のんびりと通り過ぎただけ。

 

 

 

 

 

 

 金沢からここ小浜までは高速道路で来たのですが、

 

 帰りはずっと一般道で行くことにしました。

 

 小浜からは国道27号線、敦賀で国道8号線に乗り換え、

 

 数km走ったところで「しおかぜライン」という、

 

 海岸に沿ったくねくね道(一応国道です)を、のんびりと(*´ω`*)

 

 

「しおかぜライン」からの風景です。

 

 敦賀と、その向こうに見えるのは敦賀半島

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 美しい風景です(●´ω`●)

 

 ちなみに、この敦賀半島の向こう側には、

 

 美浜原発高速増殖炉もんじゅがあります😳

 

 

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 同じ場所から北に目を向ければ、

 

 はるか向こうに越前海岸とその先の越前岬が見えます(*‘∀‘)

 

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 このまま一般道をのんびりと金沢まで帰りました。

 

 

 敦賀から越前の海岸沿いをずっと走るこの道は、

 

 今のような状況(コロナ)に限らず、

 

 だいたいいつも交通量が非常に少ないので、ちょくちょくドライブする、

 

 好きな道です。

 

 

 この日の交通量も極端に少なく、快適なドライブとなりました(^^)

 

 

 

義経と黄金 暗躍する「鬼」 ⑤

 ちょっとご報告になります。

 古代よりもさらにさかのぼる、歴史年表でいえば「原始」とされている(実は全然「原始」ではないのですが)縄文期における東北・関東を中心とする東日本、そして北陸の関係について、ワタシの中で一つの発見がありました。

 

 じつにささやかな発見だったのですが、これまでのこのブログでワタシが説明しようとしてきた考えの再構築を促すものでした。

 

 再構築といっても、ワタシの説の大きな枠組みが変わるというわけではなく、むしろ補強することになるものなのですが、今はまだその論説を組み立て直すにあたって、その方向性を探っているような状態です。

 

 繰り返しになりますが、原始~古代にかけての東北(東日本)と北陸の関係についてです。

 

 

 

 ワタシは拙著『影の王』という本の中で、縄文から弥生期あたりにかけて北陸に大きな宗教的国家(というよりは「クニ」)があったことを、論考したことがあるのですが、今回の義経と黄金 暗躍する「鬼」』も、その説に基づいた論考になるはずでした。

 

 

 

 しかしなーまんさんのブログを読ませていただいているうちに、古代の日本における関東、さらには関東を含めた東日本の重要性に気付かされるようになりました。

 

 その辺りについての書物をいろいろ集めてチェックしていると、上記の「原始」と言われた時代の東北と北陸の関係について、一石を投じるであろう一つの「発見」があったのです。

 

 その「発見」はささやか過ぎて、おそらくそれらの書物の著者の方々も含めて、誰もそのことには気づいていないのではないかと思われます。

 

 

 

 そのささやかな「発見」は、いままで4回にわたって書かせていただいてきた義経と黄金 暗躍する「鬼」』の今後の論考にも、大きく関わってくるであろうことが容易に想像できることでもありました。

 

 そして、その発見によるワタシの中の「再構築」が、モロにその辺りの問題にぶち当たっているのです。

 

 なので、当シリーズ義経と黄金 暗躍する「鬼」』における、ここから先のこと義経の逃避行、奥州藤原氏の関係等)を、このブログ上で筋道を立てて説明していく、ということは、一旦、閉じたいと思います。

 

 

 ですが、ここからまた勉強していく過程で気付いたことや面白いと思ったことは、その時その時で徒然なるままに書いていくかもしれません。

 

 本当に申し訳ないのですが、しかし、ワタシの中では、このままこの義経と黄金 暗躍する「鬼」』を続けるわけにも行かなくなってきたのです。

 どうか、ご了承いただければ、と思います。

 

 

 

 一応、ですが、このあとどう展開しようとしていたのか概要だけ、簡単に説明しておきます。

 

 

 

1.義経軍の強さの理由の一つとして、東北の優秀な鉄の刀、東日本の優秀な馬が無かったか、ということ。

 

 

2.義経の逃避行ルートは、当時の東北と畿内の「金属(特に黄金)運搬ルート」に深く関わっていたのではないか、ということ。

 

 

3.義経・弁慶の一行が修験者のいで立ちをしていたのには、当然、修験者集団の協力があったと思われる。修験者集団には熊野修験、白山修験、そして比叡・・・・

 それらすべてを結びつけるネットワークがあったのではないか。

 そして全国の金属民にかかわる日吉神人とその全国ネットワークもそれに関わっていたことは、当然、予測がつく、ということ。  

 

 

4.日吉(天台)信仰の総本山である比叡山には、「金大巌(こがねのおおいわ)」という巨大な磐座(いわくら)が鎮座しており、もともと比叡山はそれを信仰とする「聖なる山」だった。

 恐らく縄文か弥生あたりにまで遡るものではないかと考えられるが、日吉信仰の原型もそこにあるのかもしれない。

 その磐座が「金(こがね)」と名付けられた(恐らく金属文化が入って来た弥生期以降)からには、「金属」とかかわる信仰の山であり、金属民が崇拝の対象としたのではないか。

 つまり金属民と日吉信仰の関係は、相当古くまで遡る可能性があること。

 

 

5.最澄はその「聖なる山」を天台密教の総本山とした。

 それが、どのような山であるかを当然知った上でのことに違いないと思われる。

 

 

奥州藤原氏白山信仰に深く心酔し、また密接に関わりを持っていた。

 それはなぜか。単なる信仰心だけなのか。

 

 

7.実は古代後期あたりから(実はもっと以前から?)日吉(天台)信仰と白山信仰、そして日吉神人と白山神人は深いかかわりをもっていたことが知られている。

 その「深いかかわり」のなかには、「金属」を介しての関わりも大きくあったはずである。

 

 

8.北陸も弥生期には優秀な金属を生み出し、またその加工品の産地であったと考えられる(物量的には少ないかもしれないが)。

 弥生期にこの北陸に他を圧倒する精巧な木工集団が暮らすムラ(都市?)があったことが知られているが、それも優秀な金属製品があってのことであろう。

 北陸に古くから金属民がいたのだとすれば、それが白山信仰・白山修験結びついていったことは容易に想像できる。

当シリーズでは上記のごとく書くつもりだったが、実は私見としてはかなり古い太古(「原始」と言われる時代)から白山(シラヤマ)信仰に関わった一族がいたことを想定しており、彼らが「金属」にも古くから深く関わっていたと考えて、その旨を拙著にてやや詳しく述べた。

 

 

9.をはじめとする金属の力でのし上がろうとした奥州藤原氏が、白山信仰と深く結びつこうとした理由は、以上のことがあったからなのではないか。

  白山神人から日吉神人を介しての金属流通ネットワークはもちろんのこと、金属採鉱・精錬の技術者もできるだけ欲しかったにちがいない。これは東北の技術者だけでは数が足らなかったと仮定しての話しではあるが。

 

 

10.義経をバックアップしていたのは、このような集団だったのだ。

 強いはずだし、頼朝でなくても恐れるだけの力がある。すくなくとも鎌倉にはそう見えていたのではないか。

 

 

11.義経の逃避行ルートにも当然、これらの集団が総がかりで関わっていた、というのが私見

 

 

 

 以上、これらはあくまで私見にすぎませんが、このシリーズの以降の記事において述べようとしていたことの概要です。

 

 

 問題は、奥州藤原氏白山信仰に関りを持ったのが、東北と白山信仰の関係の始まりと捉えていたことです。

 

 

 じつはそれよりもはるかに古くから白山(シラヤマ)信仰が「東北」に関わっていた可能性は、以前から考えており、拙著でもチラッと述べたりはしていたのですが、いかんせん、材料が少な過ぎたこともあって、それ以上は踏み込んでいけませんでした。

 

 しかし冒頭で述べたとおり、古代の東日本に関する書物を読み始めて見ると(ホントにまだ読み始めの段階なのですが)、東北・関東北陸・白山信仰の関係の歴史が、はるかに遡る可能性を示すことがいくつも見えてきたのです。

 まだ読み始めにもかかわらず。

 

 

 まだまだこれから東北・関東の古代の勉強をしていけば、当然自説の再構築や補強・補完が大幅に出てくることが予想される中で、この義経のシリーズをこのまま続けるわけにはいかなくなった(このまま続けても途中で自説そのものが変わる可能性さえ否定できない)、ということをご理解いただければ、と願います。

 

 

 もちろん、勉強を続けていく中で、新たに見つけた面白話などは、これからも続けていきますので、今後ともよろしくお願い出来れば、と思います。  

 

 

 

 

 

義経と黄金 暗躍する「鬼」 ④

 

 さて、前回では義経よりもさらにさかのぼった古代に、「鬼」たちのリーダーと期待された人物がいたのではないかと述べました。

 

 そのことに言及する前に、もう少し義経の周辺について、おさらいもふくめて見てみましょう。  

 

 

 義経の兄、頼朝義経を過剰なまでに追い詰め、その首を見るまでは安心しませんでした。

 

 たしかに朝廷の支配から独立した武家政権を鎌倉に打ち立てようとしていた頼朝にとって、官位を勝手に授かってしまった義経は、あまりに無邪気とは言え許しがたいものがあったでしょう。

 

 しかし実の弟、しかも平家を滅ぼした最大の功労者の凱旋にたいして、鎌倉へ入ることさえ禁じるというのは、やりすぎのようにも思えます。

 

 それならまず対面して義経の言上を聴いてから、叱責するなり罰を与えるなりすればいいのですから。

 

 結果的に、義経の反抗的態度を促したのは頼朝ということになります。

 一応「結果的に」と言っておきますが。

 

 それはともかく、頼朝が義経を恐れていたことは確かなように思えます。

 

 

 では頼朝は義経の何に対して、恐れを抱いたのか。

 

 

 確かに義経の軍事的才能は脅威ですが、自分のまわりには屈強な東国の武士団がいる。

 

 それ以上に脅威だったのが、義経のカリスマ性だったのではないか。

 

 

 前回述べたように、義経日吉(天台)系を中心とした「鬼」を統べるリーダーとして育てられました。

 

 義経を鍛え上げた鞍馬寺の天狗。

 

 これも鬼一法眼とその配下だったと考える専門家もいます。

 

 鞍馬山には鬼一法眼社が祀られていることは周知の事実ですが、実は鞍馬寺は天台系(戦後、独立)です。

 

 また鞍馬山には貴船神社があります。

 

 水の神を祀るものですが、海に注ぐ淀川から遡ってここに来たとの社伝があり、つまりは(山奥に鎮座しながら)海や川を網羅する「水運」にも深く関わる神社と考えていいでしょう。

 

 もともと平家側だった熊野水軍義経が味方にできたのも、そのあたりの「力」が働いたのかもしれません。

 

 

 また鬼一法眼は武装集団を従え、祇園社の賤民集団(犬神人、非人、下級僧など)と深くつながっていたと目されていますが、祇園社自体、10世紀(平安中期)以降、叡山末社(つまり日吉天台系)でした。

 

 鬼一法眼とその配下の武装集団は日吉天台系の中でも、かなり力を持った重要な実働部隊だったと考えられるのです。

 

 義経を育て、またバックアップしていたのは日吉天台系という、当時の裏社会(=「鬼」の世界)の巨大な組織だったと考えられます。

 

 「鬼」の世界は裏社会だけでなく、まつろわぬ山の民・海の民・川の民の集団でもありました。

 

 義経は当時の日本におけるそのような「鬼」の世界のトップとして育てられ、そのカリスマ性をも身に着けつつあった。

 

 義経もその自覚があったからこそ、「関東に恨みある者は私のもとに集まるがいい」などと言い放つことが出来たのだと思われます。

 

  頼朝は鬼集団のカリスマとしての義経をこそ、恐れたのでしょう。

 

 

 「まつろわぬ民の集団」といっても全くつかみどころがなく、隠然たる不気味な存在です。

 

 不気味な存在のままでいれば問題はないのでしょうが、日本中に広がる彼らが、天才的な軍事の才能とカリスマ性を併せ持ったリーダーのもとに一丸となってしまったらどうなるか・・・ 

 

 

 義経がそのカリスマ性を発揮してしまう前に、葬り去らねばならない。

 

 頼朝を頂点とする鎌倉がそう判断するのは、当然のこと。

 

 ワタシはそう推測するのです。

 

 

 

 さて、義経は幼少期から鞍馬山で修業を積み、同じく鞍馬と密接な関係があったと目される鬼一法眼から兵法の奥義書『虎の巻』をかすめ取った(あるいは授かった)とされています。

 

 鞍馬寺と言えば毘沙門天です。

 

 最初に述べたように、義経の時代からずっと遡る古代に「鬼」たちのリーダーと期待された人物がいた可能性があります。

 あくまで「可能性」ではありますが。

 

 

 それは、聖徳太子厩戸皇子です。

 

 物部氏蘇我氏の戦い、丁未の乱において物部守屋の軍の勢いに押されて蘇我氏が劣勢となったとき、崇仏派の蘇我氏の側に付いていた厩戸皇子は、『日本書紀』によれば四天王に戦勝を祈願し、そのおかげで態勢は逆転し、蘇我氏の勝利となった。

 これは良く知られた話です。

 

 しかし奈良県信貴山朝護孫子寺では似て非なる言い伝えを主張しています。

 

 それによれば同様に厩戸皇子が戦勝祈願すると、またたくまに戦いの神である毘沙門天が現れ、「必勝の秘法」を授けたといいます。

 それはまさに「寅年寅の日寅の刻」だったといいます。

 

 これが史実かどうかは別にして、まさしく聖徳太子義経と同じように、毘沙門天から「寅(虎)」に関係すると暗示された『必勝の秘法』(六韜』」の『虎韜』=『虎の巻』?)を授けられた、という言い伝えが残されていたのです。

 

 

 では、古代飛鳥時代の人物である聖徳太子が、後世の「鬼」につながる集団のリーダーと期待され、そのバックアップを受けていたとするならば、その集団とは具体的にはどのような集団だったのか?

 

 それこそが他ならぬ秦氏集団だった、とワタシは考えています。

 

 聖徳太子の側近に秦氏の棟梁・太秦であった秦河勝という人物がいたことは良く知られています。

 

 彼は太子を強力にサポートし、スポンサーでもありました。

 

 秦氏は当時すでに殖産豪族として様々な技術と、それにもとづく異常な財力を誇っており、深草屯倉という軍事拠点まで有していました。

 

 秦氏集団の技術、そして「鬼」との関係については以下を参照してください。

 

kagenogori.hatenablog.jp

kagenogori.hatenablog.jp

kagenogori.hatenablog.jp

kagenogori.hatenablog.jp

kagenogori.hatenablog.jp

 

 これらで述べたように、秦氏は後に「鬼」とされた特殊技術・技能を有した職能民(中世以降は被差別民とされていった人々)と深い関係にありました。

 

 その秦氏の多大なサポートを受けていた聖徳太子

 

 それが後世の義経豊臣秀吉木下藤吉郎の場合と、同じ意味をもっているのかどうか。

 

 その答えは未だ深い霧の中、闇の中です。

 

 そもそも聖徳太子をサポートした秦氏と、義経・秀吉を背後で支えたと推測される「日吉天台系」を、同等に見て良いものかどうか。

 

 ワタシは、微かながら「秦氏」と「日吉天台系」をつなげるリングは存在すると考えています。

 

 それは、祇園社牛頭天王社、そしてスサノオです。

 

 しかしそれを説明し出すとまた長くなりますので、それはまた別の機会に。

 

 

 

 聖徳太子とその一族を陥れ、滅亡させた蘇我氏本宗家は、また中大兄皇子中臣鎌足によって滅ぼされてしまいます。

 

 おそらくその計画立案と重要な段取りは鎌足の手によるものでしょう。

 

 その鎌足は遠い東国、常陸の国からやって来たと伝えられています。

 

 

 古代史に通暁したなーまんさんのブログでは、古代史においては関東からの視点が非常に重要であることを教えてくれます。

 そこでは秦氏と関東の深い関係、そして秦氏中臣鎌足の関係も示唆してくれています。

na-mannoeyelevel.hatenablog.com

 

 ワタシもなーまんさんの影響を受け、古代における秦氏の謎、そして秦氏聖徳太子の関係も、関東を中心にした東国に注目しないと解けないのではないかと考えはじめています。

 

 そういえば、太子の一族である上宮王家(じょうぐうおうけ)が蘇我入鹿の襲撃を受けたとき、一族の長である山背大兄王に対して側近が「一旦、東国へ逃れて再起を期してのち、入鹿を討ちましょう」と提言しましたね。

 

 その東国への逃避ルートの途上にある拠点こそが、秦氏深草屯倉でした。

 

 秦氏は当時、畿内から各地へ通ずる交通拠点を抑えていたとする研究(原島礼二氏)があります。

 それを使って商業交易も行っていたのだとしています。

 

 山背大兄王の側近が秦氏のサポートを期待して提言したことは間違いないでしょう。

 

 問題はなぜ東国へと言ったのかということです。

 

 東国に蘇我氏にも対抗し得る大きな勢力があった、しかもそれは上宮王家にとって味方になることが期待される勢力だった。

 そう考えるしかないように思えます。

 

 それが関東に根付いていた秦氏の集団であった可能性は高いと思われます。

 

 後に蘇我氏を討つことになる中臣鎌足が、この動き、そして関東の秦氏にどう絡んでくるのか、あるいはそもそも無関係なのか。

 

  

 話しが義経から大きく逸れてしまいましたが、とりあえず次回は義経の逃避行とそのルート、そしてその先に待つ奥州藤原氏について考えたいと思います。

 

 

 

 

 

義経と黄金 暗躍する「鬼」 ③

 長らくご無沙汰してしまいましたm(_ _)m

 前回では、義経は「鬼」たちを統べるリーダーとして、幼少のころから期待されていた、と述べました。

 

kagenogori.hatenablog.jp

 

 義経は「鬼」だったのか。

 

 義経のまわりにいた人達を見てみましょう。

 

 鬼一法眼については前回見ましたので、弁慶から。

 

 

 

 弁慶     

         

 弁慶の名は史書吾妻鏡にも記録されており、一応実在していたと考えられますが、その出生から事績については、物語上で語られるのみです。

 そのため彼についてのエピソードがすべて彼自身のものというより、他の人物のことも併せて、物語上では弁慶のものとしている、という説も根強くあります。

 いずれにせよ、そのような人物(あるいは人物群)が義経のまわりにはいたと考えられ、そのことこそが重要ですので、便宜上ここでは弁慶という一人の人物として述べさせていただきます。

 

 弁慶の出生には諸説ありますが、もっとも有力とされているのが、熊野の別当(本宮・新宮・那智の三山からなる聖地・熊野を実質的に支配していた)であろ湛増(たんぞう)あるいは弁しょうの子であるという説です。(これなども「弁慶」が複数人いたということの傍証になるかもしれません。)

 

 母の胎内に十八か月もいた末に、生まれて来れば三歳児ほどの巨躯に長髪、歯も生えそろっていたとあって、父から鬼神の子として殺されそうになるも母の命乞いによって救われ、「鬼若」と名付けられたという、なかば伝説的なエピソードが語られています。

 

 六歳のときに比叡山延暦寺に預けられますが、成長して持ち前の怪力で乱暴狼藉を繰り返したあげく、十八歳の時に追放同然で比叡山を追われました。

 

 この頃に武蔵坊弁慶を名乗るようになります。

 

 その後のことは、まぁ、良く知られた話になるのですが。

 

 

 京で千本の太刀を奪うという願掛けをしていた弁慶はご存知のように、僧兵姿をしていました。

      武蔵坊弁慶の似顔絵イラスト

 

 僧兵といえばまず比叡山延暦寺が思い浮かびますが、弁慶はたしかに比叡山にいたことは先に述べた通りです。

 しかし弁慶が叡山にいたころはまだ僧にはなりきっておらず、僧形・僧兵姿になったのは叡山を出たあとのことです。

 

 実はこの僧兵姿、中世(鎌倉期以降)の京においては、祇園社(現・八坂神社)の「犬神人(いぬじにん・つるめそ)」清水坂非人の長吏(ボス)が武装集団”として”行動”するときの身なりにつながっているという指摘があります。

 

 犬神人非人寺社に属して葬送など死穢に関わる務めを役割とした人たちですが、それだけではなく寺社における最下層の仕事(ケガレに関わる仕事や人々の怨恨を買いそうな仕事などのいわゆるダーティ・ワーク)など任されることも多く、語弊を恐れずに言えば、いわば便利屋のような存在でした。

 

 寺社の自警団の役目も果たし、それが武装集団に発展したりもするのですが、完全に寺社に縛られていたかというと、そうでもなかったようです。

 寺社には最低限の務めだけを果たし、あとは武具や履物の製造・行商なども行うなど、なかば自立していたとも言えます。

 つまり武装集団としても寺社に付かず離れずの集団だったと考えた方が良いかもしれません。

 前回、鬼一法眼のところで京や周辺に割拠する武装集団について言及しましたが、このような武装集団同士の横のつながり(ネットワーク)とも関りがあったと思われます。

 

 祇園社犬神人の文献上における初見は鎌倉中期ごろの1227年で弁慶よりも半世紀ほどあとのことになりますが、弁慶の時代にその原型がすでに見られたとしてもおかしくはありません。

 あくまで「犬神人」という”呼び名”の初見が半世紀後、ということだと思われます。

 そもそも神人という職掌自体、古代末期から存在するものですから。

 

 

 問題は、ここからです。

 弁慶は幼少の頃から比叡山とかかわりを持っていましたが、祇園社も10世紀末以降は叡山の末社でした。

 その武装集団が叡山の僧兵姿と似ていたのも、そのためかもしれません。

 そして比叡山は言うまでも無く天台宗かつ日吉神社の総本山です。

 比叡と日吉どちらも「ひえ」。

 

 日吉神社と言えば、以前言及したように(↓) 

 宇佐八幡系と並ぶ全国規模のネットワークをもった大きな金属民集を従えたところです。

 その金属民集団の中心を担っていたと考えられるのが日吉神人と呼ばれる神人集団でした。

 上記の記事で、その日吉系金属民集の伝説的金属民の一人として挙げたのが、義経と深く関わった金売吉次でした。

 

 また弁慶と同様に比叡山から追放されて野に下った存在に、酒呑童子がいます。

 正真正銘の「鬼」ですが、その風貌・身なりや「山」を根拠地にしたことなどから、やはり日吉系金属民との関係は考えられるべきだと思われます。

 鬼≒金属民。

 とくに鬼と日吉系金属民集団の関りには注目しておきたいところです。

 

 同じく叡山(日吉)を追われた弁慶も、その「七つ道具」の多くを見れば、金属民との深いかかわりは考えるべきで、実際そう指摘する専門家の方もいます。 

 とくに七つ道具の中の「鉞(まさかり)」「鉄棒」「さすまたは、まさに絵に描かれる鬼たちが手にしている道具です。

 

 

 こうしてみると、弁慶という人物には明らかに比叡山日吉社、とくに日吉系金属民との深いかかわりが見られることが分かります。

 

 弁慶も「鬼」の一人だったと考えればいいかと思います。

 

 義経をバックアップしていた日吉系金属民は金売吉次だけでは無かったのです。

 

 弁慶も、いや、日吉神人を含む日吉系金属民集団全体が、義経を自分たちのリーダーとして担ぎ上げ、支援しようとしていた。

 

 そう考えれば、義経の活躍、そして逃避行の謎にも光がさすように思われるのです。

 

 

 豊臣秀吉木下藤吉郎よりさらに400年前にも、同じような日吉系金属民のリーダー・棟梁がいた。

 

 それは同時に「鬼」たちの棟梁でもありました。

 

 それが義経だったと、当ブログでは仮定したいと思います。 

 

 実は義経よりもさらにさかのぼる古代に、同じく「鬼」たち(その当時は「鬼」という概念さえ気迫だったと思われますが)のリーダーと期待されたのではないかと疑われる人物がいました。

 

 そのことも含めて、次回は義経とその周辺についてもう少しみていきたいと思います。

 

 

 

 

義経と黄金 暗躍する「鬼」 ②

 皆様、大変長い期間を開けてしまいましたことを、お詫び申し上げます<m(__)m>

 

 

 

「鬼」

 この日本には古代から中世にかけて、 「鬼」とされてきた(というよりされてしまった)人々が存在していました。

 前回、「~童子と呼ばれることが多いと言いましたが、それは外見上の特徴からも言えます。

 すなわち「鬼」と呼ばれた人々は、外見上は「童形」 、つまり成人しているにもかかわらず、髪型が当時の子供(童、童子)と同じ「禿(かむろ)頭」という特徴があったのです。

 「禿(かむろ・かぶろ)」とは、髪の毛の先を切り揃え、結ばずに垂らしておく”おかっぱ”のような髪型をいいます。

 金太郎の髪型を思い起こしていただけれ分かり易いと思います。

 当時の子供は、数え年で十五歳の「成人」になるまで、この髪型をしていました。

 

 「鬼」がこのような子ども(童・童子)の姿をしていたことには、理由があります。

 それは「童・童子」は「人」ではない ということです。

 どういうことかと言うと、当時は成人してはじめて「”人”になる」のであって、子供は「人」とは認められていなかったのです。

 では子供は何なのかというと、どちらかと言えば「神」に近い存在、と言いますか、 「神」と「人」との中間の存在「あの世」と「この世」の中間に立つ存在だと考えられていたのです。

 つまり「境」の存在

 とくに七歳までの子供は、「七つまでは神の子」とされたように、「神の依りまし」でもありました。

 よく神を奉斎する祭りの行列において、子供を行列の先導役にしたり、神輿に乗せて担いだりするのには、このような理由があるのです。

 

 「鬼」も当然、「人」としては認められなかった。

 しかしそれ以上に、彼ら自身が「人」ではない「鬼(モノ)」 人」以上の霊力・神力を持つ「モノ」であることを誇示する意味でも、彼らは成人後も「禿」であり続けたのです。

 (実は「禿」頭の例として挙げた金太郎は、成人しても禿姿のまま、つまり童子でした。 その姿で源頼光に出会い、頼光の「四天王」として酒呑童子討伐で活躍します。そのことについてはあとでまた言及するかもしれません。)

 

 

 不思議と義経の周りには、幼少の頃から常にこうした「鬼」たちの存在が見え隠れしているように思われるのです。

 まるで義経という存在をガードするかのように、入れ替わり立ち替わり姿を現すのです。

 

 

 

 まず鬼一法眼(きいちほうげん)

 

 京の一条堀川を拠点とした民間陰陽師集団の首領だった人物です。

 名前に”鬼”の字がありますね。

 義経はこの鬼一法眼のもとで剣術や兵法を学んで、奥義書である六韜のうちの『虎の巻』を授けられたとも、あるいは鬼一法眼の娘をだまして盗み取ったともいいます。

 義経に剣術を指南した「鞍馬の天狗」はこの鬼一法眼だった、とも言われています。

 鞍馬鞍馬寺の一角には鬼一法眼社が鎮座しています。

 

 六韜とは、を滅ぼしたの軍師である太公望呂尚(りょしょう)が三略とともに著わした、実在する兵法書です。

 六韜「文・部・龍・虎・豹・犬」の六巻からなり、『虎の巻』はそのうちの一つ『虎韜』のことです。

 

 なぜ民間陰陽師だった鬼一法眼が、そのような兵法の奥義書を所持していたのか。

 これについては、文化人類学民俗学小松和彦さんが陰陽師であると同時に、京の武装集団”のボスでもあった」と発言しています。

 当時の京には”童形”の武装集団がいくつもあったのです。

 

 例えば大河ドラマ平清盛でも描かれていた、”禿頭”で”赤い直垂(ひたたれ)”といった姿で清盛配下の”思想警察”として京中を震え上がらせていた六波羅殿の禿(かぶろ)」

 大河ドラマでは子供の集団のように見えましたが、実際は十四~十六といった、大人になっているかならないか、ぐらいの年齢の武装集団でした。

 歴史家・大和岩雄氏などは、京やその周辺地域に割拠していたこのような武装集団「現代の暴走族のようなもの」と言っています。

 

 鬼一法眼陰陽師でありながら、このような武装集団のひとつの首領でもあった のです。

 

 

 では、なぜ義経が鬼一法眼から授けられた、あるいは盗み取った兵法書が『六韜』のうちの『虎韜』、すなわち『虎の巻』でなければならなかったのか

 

 これについても小松和彦氏が、牛若丸義経の幼名)が天狗から兵法を学んだ鞍馬寺毘沙門天を祀る寺院で、 ”寅の日”を重視することと関係があるのではないかと発言しています。

 

 しかしワタシは、これとは少し違った意見を持っています。

 つまり「虎」であることに、非常に重要な意味があるのではないかと。

 義経の幼名は「牛若丸」

 その彼が『虎の巻』を得たことで、いわば武人として完成されたと言えます。

 「牛」と「虎」が合わさって「牛虎=丑寅という完全体になる。

 丑寅すなわち「鬼」です。

 

 「丑寅」の方角、北東は「鬼門」と呼ばれています。

 また「鬼」の絵を見ても、牛の角を頭に生やし、トラ柄のパンツ(?)を履いた丑寅」の存在であることを表しています。

 

 つまり、牛若丸が『虎の巻』を得たとする伝承を伝えた人たちは、義経「鬼」であったことを暗に示そうとした のではないでしょうか。

 

 義経は幼少の頃から「鬼」を統べるリーダー的存在として期待され、認められていた。

 

 だからこそ「鬼」である鬼一法眼弁慶、その他の人物たちから過分と思われるほどの助力を得て、歴史の表舞台の主役として躍り出ることが出来たのではないか。

 

 というのがワタシの、ある意味トンデモ的(笑)ともいえる説です。

 

 

 次回は「鬼」としての弁慶のことなども押さえつつ、「義経=鬼」のハナシをもう少し広げていけたらと思います。