古代史は小説より奇なり

林業家kagenogoriが古代の謎を探求する

義経と黄金 暗躍する「鬼」 ⑤

 ちょっとご報告になります。

 古代よりもさらにさかのぼる、歴史年表でいえば「原始」とされている(実は全然「原始」ではないのですが)縄文期における東北・関東を中心とする東日本、そして北陸の関係について、ワタシの中で一つの発見がありました。

 

 じつにささやかな発見だったのですが、これまでのこのブログでワタシが説明しようとしてきた考えの再構築を促すものでした。

 

 再構築といっても、ワタシの説の大きな枠組みが変わるというわけではなく、むしろ補強することになるものなのですが、今はまだその論説を組み立て直すにあたって、その方向性を探っているような状態です。

 

 繰り返しになりますが、原始~古代にかけての東北(東日本)と北陸の関係についてです。

 

 

 

 ワタシは拙著『影の王』という本の中で、縄文から弥生期あたりにかけて北陸に大きな宗教的国家(というよりは「クニ」)があったことを、論考したことがあるのですが、今回の義経と黄金 暗躍する「鬼」』も、その説に基づいた論考になるはずでした。

 

 

 

 しかしなーまんさんのブログを読ませていただいているうちに、古代の日本における関東、さらには関東を含めた東日本の重要性に気付かされるようになりました。

 

 その辺りについての書物をいろいろ集めてチェックしていると、上記の「原始」と言われた時代の東北と北陸の関係について、一石を投じるであろう一つの「発見」があったのです。

 

 その「発見」はささやか過ぎて、おそらくそれらの書物の著者の方々も含めて、誰もそのことには気づいていないのではないかと思われます。

 

 

 

 そのささやかな「発見」は、いままで4回にわたって書かせていただいてきた義経と黄金 暗躍する「鬼」』の今後の論考にも、大きく関わってくるであろうことが容易に想像できることでもありました。

 

 そして、その発見によるワタシの中の「再構築」が、モロにその辺りの問題にぶち当たっているのです。

 

 なので、当シリーズ義経と黄金 暗躍する「鬼」』における、ここから先のこと義経の逃避行、奥州藤原氏の関係等)を、このブログ上で筋道を立てて説明していく、ということは、一旦、閉じたいと思います。

 

 

 ですが、ここからまた勉強していく過程で気付いたことや面白いと思ったことは、その時その時で徒然なるままに書いていくかもしれません。

 

 本当に申し訳ないのですが、しかし、ワタシの中では、このままこの義経と黄金 暗躍する「鬼」』を続けるわけにも行かなくなってきたのです。

 どうか、ご了承いただければ、と思います。

 

 

 

 一応、ですが、このあとどう展開しようとしていたのか概要だけ、簡単に説明しておきます。

 

 

 

1.義経軍の強さの理由の一つとして、東北の優秀な鉄の刀、東日本の優秀な馬が無かったか、ということ。

 

 

2.義経の逃避行ルートは、当時の東北と畿内の「金属(特に黄金)運搬ルート」に深く関わっていたのではないか、ということ。

 

 

3.義経・弁慶の一行が修験者のいで立ちをしていたのには、当然、修験者集団の協力があったと思われる。修験者集団には熊野修験、白山修験、そして比叡・・・・

 それらすべてを結びつけるネットワークがあったのではないか。

 そして全国の金属民にかかわる日吉神人とその全国ネットワークもそれに関わっていたことは、当然、予測がつく、ということ。  

 

 

4.日吉(天台)信仰の総本山である比叡山には、「金大巌(こがねのおおいわ)」という巨大な磐座(いわくら)が鎮座しており、もともと比叡山はそれを信仰とする「聖なる山」だった。

 恐らく縄文か弥生あたりにまで遡るものではないかと考えられるが、日吉信仰の原型もそこにあるのかもしれない。

 その磐座が「金(こがね)」と名付けられた(恐らく金属文化が入って来た弥生期以降)からには、「金属」とかかわる信仰の山であり、金属民が崇拝の対象としたのではないか。

 つまり金属民と日吉信仰の関係は、相当古くまで遡る可能性があること。

 

 

5.最澄はその「聖なる山」を天台密教の総本山とした。

 それが、どのような山であるかを当然知った上でのことに違いないと思われる。

 

 

奥州藤原氏白山信仰に深く心酔し、また密接に関わりを持っていた。

 それはなぜか。単なる信仰心だけなのか。

 

 

7.実は古代後期あたりから(実はもっと以前から?)日吉(天台)信仰と白山信仰、そして日吉神人と白山神人は深いかかわりをもっていたことが知られている。

 その「深いかかわり」のなかには、「金属」を介しての関わりも大きくあったはずである。

 

 

8.北陸も弥生期には優秀な金属を生み出し、またその加工品の産地であったと考えられる(物量的には少ないかもしれないが)。

 弥生期にこの北陸に他を圧倒する精巧な木工集団が暮らすムラ(都市?)があったことが知られているが、それも優秀な金属製品があってのことであろう。

 北陸に古くから金属民がいたのだとすれば、それが白山信仰・白山修験結びついていったことは容易に想像できる。

当シリーズでは上記のごとく書くつもりだったが、実は私見としてはかなり古い太古(「原始」と言われる時代)から白山(シラヤマ)信仰に関わった一族がいたことを想定しており、彼らが「金属」にも古くから深く関わっていたと考えて、その旨を拙著にてやや詳しく述べた。

 

 

9.をはじめとする金属の力でのし上がろうとした奥州藤原氏が、白山信仰と深く結びつこうとした理由は、以上のことがあったからなのではないか。

  白山神人から日吉神人を介しての金属流通ネットワークはもちろんのこと、金属採鉱・精錬の技術者もできるだけ欲しかったにちがいない。これは東北の技術者だけでは数が足らなかったと仮定しての話しではあるが。

 

 

10.義経をバックアップしていたのは、このような集団だったのだ。

 強いはずだし、頼朝でなくても恐れるだけの力がある。すくなくとも鎌倉にはそう見えていたのではないか。

 

 

11.義経の逃避行ルートにも当然、これらの集団が総がかりで関わっていた、というのが私見

 

 

 

 以上、これらはあくまで私見にすぎませんが、このシリーズの以降の記事において述べようとしていたことの概要です。

 

 

 問題は、奥州藤原氏白山信仰に関りを持ったのが、東北と白山信仰の関係の始まりと捉えていたことです。

 

 

 じつはそれよりもはるかに古くから白山(シラヤマ)信仰が「東北」に関わっていた可能性は、以前から考えており、拙著でもチラッと述べたりはしていたのですが、いかんせん、材料が少な過ぎたこともあって、それ以上は踏み込んでいけませんでした。

 

 しかし冒頭で述べたとおり、古代の東日本に関する書物を読み始めて見ると(ホントにまだ読み始めの段階なのですが)、東北・関東北陸・白山信仰の関係の歴史が、はるかに遡る可能性を示すことがいくつも見えてきたのです。

 まだ読み始めにもかかわらず。

 

 

 まだまだこれから東北・関東の古代の勉強をしていけば、当然自説の再構築や補強・補完が大幅に出てくることが予想される中で、この義経のシリーズをこのまま続けるわけにはいかなくなった(このまま続けても途中で自説そのものが変わる可能性さえ否定できない)、ということをご理解いただければ、と願います。

 

 

 もちろん、勉強を続けていく中で、新たに見つけた面白話などは、これからも続けていきますので、今後ともよろしくお願い出来れば、と思います。  

 

 

 

 

 

義経と黄金 暗躍する「鬼」 ④

 

 さて、前回では義経よりもさらにさかのぼった古代に、「鬼」たちのリーダーと期待された人物がいたのではないかと述べました。

 

 そのことに言及する前に、もう少し義経の周辺について、おさらいもふくめて見てみましょう。  

 

 

 義経の兄、頼朝義経を過剰なまでに追い詰め、その首を見るまでは安心しませんでした。

 

 たしかに朝廷の支配から独立した武家政権を鎌倉に打ち立てようとしていた頼朝にとって、官位を勝手に授かってしまった義経は、あまりに無邪気とは言え許しがたいものがあったでしょう。

 

 しかし実の弟、しかも平家を滅ぼした最大の功労者の凱旋にたいして、鎌倉へ入ることさえ禁じるというのは、やりすぎのようにも思えます。

 

 それならまず対面して義経の言上を聴いてから、叱責するなり罰を与えるなりすればいいのですから。

 

 結果的に、義経の反抗的態度を促したのは頼朝ということになります。

 一応「結果的に」と言っておきますが。

 

 それはともかく、頼朝が義経を恐れていたことは確かなように思えます。

 

 

 では頼朝は義経の何に対して、恐れを抱いたのか。

 

 

 確かに義経の軍事的才能は脅威ですが、自分のまわりには屈強な東国の武士団がいる。

 

 それ以上に脅威だったのが、義経のカリスマ性だったのではないか。

 

 

 前回述べたように、義経日吉(天台)系を中心とした「鬼」を統べるリーダーとして育てられました。

 

 義経を鍛え上げた鞍馬寺の天狗。

 

 これも鬼一法眼とその配下だったと考える専門家もいます。

 

 鞍馬山には鬼一法眼社が祀られていることは周知の事実ですが、実は鞍馬寺は天台系(戦後、独立)です。

 

 また鞍馬山には貴船神社があります。

 

 水の神を祀るものですが、海に注ぐ淀川から遡ってここに来たとの社伝があり、つまりは(山奥に鎮座しながら)海や川を網羅する「水運」にも深く関わる神社と考えていいでしょう。

 

 もともと平家側だった熊野水軍義経が味方にできたのも、そのあたりの「力」が働いたのかもしれません。

 

 

 また鬼一法眼は武装集団を従え、祇園社の賤民集団(犬神人、非人、下級僧など)と深くつながっていたと目されていますが、祇園社自体、10世紀(平安中期)以降、叡山末社(つまり日吉天台系)でした。

 

 鬼一法眼とその配下の武装集団は日吉天台系の中でも、かなり力を持った重要な実働部隊だったと考えられるのです。

 

 義経を育て、またバックアップしていたのは日吉天台系という、当時の裏社会(=「鬼」の世界)の巨大な組織だったと考えられます。

 

 「鬼」の世界は裏社会だけでなく、まつろわぬ山の民・海の民・川の民の集団でもありました。

 

 義経は当時の日本におけるそのような「鬼」の世界のトップとして育てられ、そのカリスマ性をも身に着けつつあった。

 

 義経もその自覚があったからこそ、「関東に恨みある者は私のもとに集まるがいい」などと言い放つことが出来たのだと思われます。

 

  頼朝は鬼集団のカリスマとしての義経をこそ、恐れたのでしょう。

 

 

 「まつろわぬ民の集団」といっても全くつかみどころがなく、隠然たる不気味な存在です。

 

 不気味な存在のままでいれば問題はないのでしょうが、日本中に広がる彼らが、天才的な軍事の才能とカリスマ性を併せ持ったリーダーのもとに一丸となってしまったらどうなるか・・・ 

 

 

 義経がそのカリスマ性を発揮してしまう前に、葬り去らねばならない。

 

 頼朝を頂点とする鎌倉がそう判断するのは、当然のこと。

 

 ワタシはそう推測するのです。

 

 

 

 さて、義経は幼少期から鞍馬山で修業を積み、同じく鞍馬と密接な関係があったと目される鬼一法眼から兵法の奥義書『虎の巻』をかすめ取った(あるいは授かった)とされています。

 

 鞍馬寺と言えば毘沙門天です。

 

 最初に述べたように、義経の時代からずっと遡る古代に「鬼」たちのリーダーと期待された人物がいた可能性があります。

 あくまで「可能性」ではありますが。

 

 

 それは、聖徳太子厩戸皇子です。

 

 物部氏蘇我氏の戦い、丁未の乱において物部守屋の軍の勢いに押されて蘇我氏が劣勢となったとき、崇仏派の蘇我氏の側に付いていた厩戸皇子は、『日本書紀』によれば四天王に戦勝を祈願し、そのおかげで態勢は逆転し、蘇我氏の勝利となった。

 これは良く知られた話です。

 

 しかし奈良県信貴山朝護孫子寺では似て非なる言い伝えを主張しています。

 

 それによれば同様に厩戸皇子が戦勝祈願すると、またたくまに戦いの神である毘沙門天が現れ、「必勝の秘法」を授けたといいます。

 それはまさに「寅年寅の日寅の刻」だったといいます。

 

 これが史実かどうかは別にして、まさしく聖徳太子義経と同じように、毘沙門天から「寅(虎)」に関係すると暗示された『必勝の秘法』(六韜』」の『虎韜』=『虎の巻』?)を授けられた、という言い伝えが残されていたのです。

 

 

 では、古代飛鳥時代の人物である聖徳太子が、後世の「鬼」につながる集団のリーダーと期待され、そのバックアップを受けていたとするならば、その集団とは具体的にはどのような集団だったのか?

 

 それこそが他ならぬ秦氏集団だった、とワタシは考えています。

 

 聖徳太子の側近に秦氏の棟梁・太秦であった秦河勝という人物がいたことは良く知られています。

 

 彼は太子を強力にサポートし、スポンサーでもありました。

 

 秦氏は当時すでに殖産豪族として様々な技術と、それにもとづく異常な財力を誇っており、深草屯倉という軍事拠点まで有していました。

 

 秦氏集団の技術、そして「鬼」との関係については以下を参照してください。

 

kagenogori.hatenablog.jp

kagenogori.hatenablog.jp

kagenogori.hatenablog.jp

kagenogori.hatenablog.jp

kagenogori.hatenablog.jp

 

 これらで述べたように、秦氏は後に「鬼」とされた特殊技術・技能を有した職能民(中世以降は被差別民とされていった人々)と深い関係にありました。

 

 その秦氏の多大なサポートを受けていた聖徳太子

 

 それが後世の義経豊臣秀吉木下藤吉郎の場合と、同じ意味をもっているのかどうか。

 

 その答えは未だ深い霧の中、闇の中です。

 

 そもそも聖徳太子をサポートした秦氏と、義経・秀吉を背後で支えたと推測される「日吉天台系」を、同等に見て良いものかどうか。

 

 ワタシは、微かながら「秦氏」と「日吉天台系」をつなげるリングは存在すると考えています。

 

 それは、祇園社牛頭天王社、そしてスサノオです。

 

 しかしそれを説明し出すとまた長くなりますので、それはまた別の機会に。

 

 

 

 聖徳太子とその一族を陥れ、滅亡させた蘇我氏本宗家は、また中大兄皇子中臣鎌足によって滅ぼされてしまいます。

 

 おそらくその計画立案と重要な段取りは鎌足の手によるものでしょう。

 

 その鎌足は遠い東国、常陸の国からやって来たと伝えられています。

 

 

 古代史に通暁したなーまんさんのブログでは、古代史においては関東からの視点が非常に重要であることを教えてくれます。

 そこでは秦氏と関東の深い関係、そして秦氏中臣鎌足の関係も示唆してくれています。

na-mannoeyelevel.hatenablog.com

 

 ワタシもなーまんさんの影響を受け、古代における秦氏の謎、そして秦氏聖徳太子の関係も、関東を中心にした東国に注目しないと解けないのではないかと考えはじめています。

 

 そういえば、太子の一族である上宮王家(じょうぐうおうけ)が蘇我入鹿の襲撃を受けたとき、一族の長である山背大兄王に対して側近が「一旦、東国へ逃れて再起を期してのち、入鹿を討ちましょう」と提言しましたね。

 

 その東国への逃避ルートの途上にある拠点こそが、秦氏深草屯倉でした。

 

 秦氏は当時、畿内から各地へ通ずる交通拠点を抑えていたとする研究(原島礼二氏)があります。

 それを使って商業交易も行っていたのだとしています。

 

 山背大兄王の側近が秦氏のサポートを期待して提言したことは間違いないでしょう。

 

 問題はなぜ東国へと言ったのかということです。

 

 東国に蘇我氏にも対抗し得る大きな勢力があった、しかもそれは上宮王家にとって味方になることが期待される勢力だった。

 そう考えるしかないように思えます。

 

 それが関東に根付いていた秦氏の集団であった可能性は高いと思われます。

 

 後に蘇我氏を討つことになる中臣鎌足が、この動き、そして関東の秦氏にどう絡んでくるのか、あるいはそもそも無関係なのか。

 

  

 話しが義経から大きく逸れてしまいましたが、とりあえず次回は義経の逃避行とそのルート、そしてその先に待つ奥州藤原氏について考えたいと思います。

 

 

 

 

 

義経と黄金 暗躍する「鬼」 ③

 長らくご無沙汰してしまいましたm(_ _)m

 前回では、義経は「鬼」たちを統べるリーダーとして、幼少のころから期待されていた、と述べました。

 

kagenogori.hatenablog.jp

 

 義経は「鬼」だったのか。

 

 義経のまわりにいた人達を見てみましょう。

 

 鬼一法眼については前回見ましたので、弁慶から。

 

 

 

 弁慶     

         

 弁慶の名は史書吾妻鏡にも記録されており、一応実在していたと考えられますが、その出生から事績については、物語上で語られるのみです。

 そのため彼についてのエピソードがすべて彼自身のものというより、他の人物のことも併せて、物語上では弁慶のものとしている、という説も根強くあります。

 いずれにせよ、そのような人物(あるいは人物群)が義経のまわりにはいたと考えられ、そのことこそが重要ですので、便宜上ここでは弁慶という一人の人物として述べさせていただきます。

 

 弁慶の出生には諸説ありますが、もっとも有力とされているのが、熊野の別当(本宮・新宮・那智の三山からなる聖地・熊野を実質的に支配していた)であろ湛増(たんぞう)あるいは弁しょうの子であるという説です。(これなども「弁慶」が複数人いたということの傍証になるかもしれません。)

 

 母の胎内に十八か月もいた末に、生まれて来れば三歳児ほどの巨躯に長髪、歯も生えそろっていたとあって、父から鬼神の子として殺されそうになるも母の命乞いによって救われ、「鬼若」と名付けられたという、なかば伝説的なエピソードが語られています。

 

 六歳のときに比叡山延暦寺に預けられますが、成長して持ち前の怪力で乱暴狼藉を繰り返したあげく、十八歳の時に追放同然で比叡山を追われました。

 

 この頃に武蔵坊弁慶を名乗るようになります。

 

 その後のことは、まぁ、良く知られた話になるのですが。

 

 

 京で千本の太刀を奪うという願掛けをしていた弁慶はご存知のように、僧兵姿をしていました。

      武蔵坊弁慶の似顔絵イラスト

 

 僧兵といえばまず比叡山延暦寺が思い浮かびますが、弁慶はたしかに比叡山にいたことは先に述べた通りです。

 しかし弁慶が叡山にいたころはまだ僧にはなりきっておらず、僧形・僧兵姿になったのは叡山を出たあとのことです。

 

 実はこの僧兵姿、中世(鎌倉期以降)の京においては、祇園社(現・八坂神社)の「犬神人(いぬじにん・つるめそ)」清水坂非人の長吏(ボス)が武装集団”として”行動”するときの身なりにつながっているという指摘があります。

 

 犬神人非人寺社に属して葬送など死穢に関わる務めを役割とした人たちですが、それだけではなく寺社における最下層の仕事(ケガレに関わる仕事や人々の怨恨を買いそうな仕事などのいわゆるダーティ・ワーク)など任されることも多く、語弊を恐れずに言えば、いわば便利屋のような存在でした。

 

 寺社の自警団の役目も果たし、それが武装集団に発展したりもするのですが、完全に寺社に縛られていたかというと、そうでもなかったようです。

 寺社には最低限の務めだけを果たし、あとは武具や履物の製造・行商なども行うなど、なかば自立していたとも言えます。

 つまり武装集団としても寺社に付かず離れずの集団だったと考えた方が良いかもしれません。

 前回、鬼一法眼のところで京や周辺に割拠する武装集団について言及しましたが、このような武装集団同士の横のつながり(ネットワーク)とも関りがあったと思われます。

 

 祇園社犬神人の文献上における初見は鎌倉中期ごろの1227年で弁慶よりも半世紀ほどあとのことになりますが、弁慶の時代にその原型がすでに見られたとしてもおかしくはありません。

 あくまで「犬神人」という”呼び名”の初見が半世紀後、ということだと思われます。

 そもそも神人という職掌自体、古代末期から存在するものですから。

 

 

 問題は、ここからです。

 弁慶は幼少の頃から比叡山とかかわりを持っていましたが、祇園社も10世紀末以降は叡山の末社でした。

 その武装集団が叡山の僧兵姿と似ていたのも、そのためかもしれません。

 そして比叡山は言うまでも無く天台宗かつ日吉神社の総本山です。

 比叡と日吉どちらも「ひえ」。

 

 日吉神社と言えば、以前言及したように(↓) 

 宇佐八幡系と並ぶ全国規模のネットワークをもった大きな金属民集を従えたところです。

 その金属民集団の中心を担っていたと考えられるのが日吉神人と呼ばれる神人集団でした。

 上記の記事で、その日吉系金属民集の伝説的金属民の一人として挙げたのが、義経と深く関わった金売吉次でした。

 

 また弁慶と同様に比叡山から追放されて野に下った存在に、酒呑童子がいます。

 正真正銘の「鬼」ですが、その風貌・身なりや「山」を根拠地にしたことなどから、やはり日吉系金属民との関係は考えられるべきだと思われます。

 鬼≒金属民。

 とくに鬼と日吉系金属民集団の関りには注目しておきたいところです。

 

 同じく叡山(日吉)を追われた弁慶も、その「七つ道具」の多くを見れば、金属民との深いかかわりは考えるべきで、実際そう指摘する専門家の方もいます。 

 とくに七つ道具の中の「鉞(まさかり)」「鉄棒」「さすまたは、まさに絵に描かれる鬼たちが手にしている道具です。

 

 

 こうしてみると、弁慶という人物には明らかに比叡山日吉社、とくに日吉系金属民との深いかかわりが見られることが分かります。

 

 弁慶も「鬼」の一人だったと考えればいいかと思います。

 

 義経をバックアップしていた日吉系金属民は金売吉次だけでは無かったのです。

 

 弁慶も、いや、日吉神人を含む日吉系金属民集団全体が、義経を自分たちのリーダーとして担ぎ上げ、支援しようとしていた。

 

 そう考えれば、義経の活躍、そして逃避行の謎にも光がさすように思われるのです。

 

 

 豊臣秀吉木下藤吉郎よりさらに400年前にも、同じような日吉系金属民のリーダー・棟梁がいた。

 

 それは同時に「鬼」たちの棟梁でもありました。

 

 それが義経だったと、当ブログでは仮定したいと思います。 

 

 実は義経よりもさらにさかのぼる古代に、同じく「鬼」たち(その当時は「鬼」という概念さえ気迫だったと思われますが)のリーダーと期待されたのではないかと疑われる人物がいました。

 

 そのことも含めて、次回は義経とその周辺についてもう少しみていきたいと思います。

 

 

 

 

義経と黄金 暗躍する「鬼」 ②

 皆様、大変長い期間を開けてしまいましたことを、お詫び申し上げます<m(__)m>

 

 

 

「鬼」

 この日本には古代から中世にかけて、 「鬼」とされてきた(というよりされてしまった)人々が存在していました。

 前回、「~童子と呼ばれることが多いと言いましたが、それは外見上の特徴からも言えます。

 すなわち「鬼」と呼ばれた人々は、外見上は「童形」 、つまり成人しているにもかかわらず、髪型が当時の子供(童、童子)と同じ「禿(かむろ)頭」という特徴があったのです。

 「禿(かむろ・かぶろ)」とは、髪の毛の先を切り揃え、結ばずに垂らしておく”おかっぱ”のような髪型をいいます。

 金太郎の髪型を思い起こしていただけれ分かり易いと思います。

 当時の子供は、数え年で十五歳の「成人」になるまで、この髪型をしていました。

 

 「鬼」がこのような子ども(童・童子)の姿をしていたことには、理由があります。

 それは「童・童子」は「人」ではない ということです。

 どういうことかと言うと、当時は成人してはじめて「”人”になる」のであって、子供は「人」とは認められていなかったのです。

 では子供は何なのかというと、どちらかと言えば「神」に近い存在、と言いますか、 「神」と「人」との中間の存在「あの世」と「この世」の中間に立つ存在だと考えられていたのです。

 つまり「境」の存在

 とくに七歳までの子供は、「七つまでは神の子」とされたように、「神の依りまし」でもありました。

 よく神を奉斎する祭りの行列において、子供を行列の先導役にしたり、神輿に乗せて担いだりするのには、このような理由があるのです。

 

 「鬼」も当然、「人」としては認められなかった。

 しかしそれ以上に、彼ら自身が「人」ではない「鬼(モノ)」 人」以上の霊力・神力を持つ「モノ」であることを誇示する意味でも、彼らは成人後も「禿」であり続けたのです。

 (実は「禿」頭の例として挙げた金太郎は、成人しても禿姿のまま、つまり童子でした。 その姿で源頼光に出会い、頼光の「四天王」として酒呑童子討伐で活躍します。そのことについてはあとでまた言及するかもしれません。)

 

 

 不思議と義経の周りには、幼少の頃から常にこうした「鬼」たちの存在が見え隠れしているように思われるのです。

 まるで義経という存在をガードするかのように、入れ替わり立ち替わり姿を現すのです。

 

 

 

 まず鬼一法眼(きいちほうげん)

 

 京の一条堀川を拠点とした民間陰陽師集団の首領だった人物です。

 名前に”鬼”の字がありますね。

 義経はこの鬼一法眼のもとで剣術や兵法を学んで、奥義書である六韜のうちの『虎の巻』を授けられたとも、あるいは鬼一法眼の娘をだまして盗み取ったともいいます。

 義経に剣術を指南した「鞍馬の天狗」はこの鬼一法眼だった、とも言われています。

 鞍馬鞍馬寺の一角には鬼一法眼社が鎮座しています。

 

 六韜とは、を滅ぼしたの軍師である太公望呂尚(りょしょう)が三略とともに著わした、実在する兵法書です。

 六韜「文・部・龍・虎・豹・犬」の六巻からなり、『虎の巻』はそのうちの一つ『虎韜』のことです。

 

 なぜ民間陰陽師だった鬼一法眼が、そのような兵法の奥義書を所持していたのか。

 これについては、文化人類学民俗学小松和彦さんが陰陽師であると同時に、京の武装集団”のボスでもあった」と発言しています。

 当時の京には”童形”の武装集団がいくつもあったのです。

 

 例えば大河ドラマ平清盛でも描かれていた、”禿頭”で”赤い直垂(ひたたれ)”といった姿で清盛配下の”思想警察”として京中を震え上がらせていた六波羅殿の禿(かぶろ)」

 大河ドラマでは子供の集団のように見えましたが、実際は十四~十六といった、大人になっているかならないか、ぐらいの年齢の武装集団でした。

 歴史家・大和岩雄氏などは、京やその周辺地域に割拠していたこのような武装集団「現代の暴走族のようなもの」と言っています。

 

 鬼一法眼陰陽師でありながら、このような武装集団のひとつの首領でもあった のです。

 

 

 では、なぜ義経が鬼一法眼から授けられた、あるいは盗み取った兵法書が『六韜』のうちの『虎韜』、すなわち『虎の巻』でなければならなかったのか

 

 これについても小松和彦氏が、牛若丸義経の幼名)が天狗から兵法を学んだ鞍馬寺毘沙門天を祀る寺院で、 ”寅の日”を重視することと関係があるのではないかと発言しています。

 

 しかしワタシは、これとは少し違った意見を持っています。

 つまり「虎」であることに、非常に重要な意味があるのではないかと。

 義経の幼名は「牛若丸」

 その彼が『虎の巻』を得たことで、いわば武人として完成されたと言えます。

 「牛」と「虎」が合わさって「牛虎=丑寅という完全体になる。

 丑寅すなわち「鬼」です。

 

 「丑寅」の方角、北東は「鬼門」と呼ばれています。

 また「鬼」の絵を見ても、牛の角を頭に生やし、トラ柄のパンツ(?)を履いた丑寅」の存在であることを表しています。

 

 つまり、牛若丸が『虎の巻』を得たとする伝承を伝えた人たちは、義経「鬼」であったことを暗に示そうとした のではないでしょうか。

 

 義経は幼少の頃から「鬼」を統べるリーダー的存在として期待され、認められていた。

 

 だからこそ「鬼」である鬼一法眼弁慶、その他の人物たちから過分と思われるほどの助力を得て、歴史の表舞台の主役として躍り出ることが出来たのではないか。

 

 というのがワタシの、ある意味トンデモ的(笑)ともいえる説です。

 

 

 次回は「鬼」としての弁慶のことなども押さえつつ、「義経=鬼」のハナシをもう少し広げていけたらと思います。

 

 

 

 

 

義経と黄金 暗躍する「鬼」と「異類異形」①

 「鬼」

 言うまでも無く、古来からの日本人が思い描いてきた、想像上の産物です。

 見た目も醜悪で怖ろしく、残虐・無道・無慈悲で、人間社会の「外部」 (人里離れた山奥、あるいは「この世」ではない所)からやって来ると信じられていました。

 もとより「物の怪」の類であり、人間にとって恐ろしい存在の象徴が「鬼」だったのです。

怖い鬼のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや 

 しかし、この日本には古代から中世にかけて、社会から「鬼」とされてきた(というよりされてしまった)人々が存在していました。

 なかには「鬼の子孫」を自ら名乗る人びとさえいました。

 

 「鬼」は人間社会の「外部」から来ると言いましたが、 「鬼」とされてきた人々とは、まさに当時の一般社会(と言って悪ければ一般民が暮らす村落共同体や都市、あるいは体制)の”外側”に位置していた人たちだったのです。

 

 分かり易く言えば「ジブンたちとは異なる人びと」

 

 古代の蝦夷(エミシ)土蜘蛛などといった、朝廷という”王土”から見た”辺境”「まつろわぬもの」 (朝廷の支配に抵抗する勢力・部族など)と呼ばれた人たちも、これに含まれることはもちろんです。

 

 また海の外からの漂着者や海賊、”王土” や共同体の ”周辺” である山々に棲む先住の民や職能民も、しばしば「鬼」とみなされました。

 (「鬼」についてはこちらもご参照のほど↓)

kagenogori.hatenablog.jp 

kagenogori.hatenablog.jp

 

 さらに特殊な例ですが、京都の八瀬の集落の人々、すなわち天皇天台座主の葬送において柩を担ぐ役目を負う「八瀬童子や、鞍馬山貴船神社の社人を長らく務めた「舌(ぜつ)」家など、体制の「外側」ではなく「内側」に組み込まれた「鬼」もいます。

 これが先述した「自ら鬼の子孫を名乗る人びと」です。

 

 ちなみに八瀬童子のように、 「鬼」はしばしば童子と呼ばれます。

 大江山酒呑童子が有名です。

 

 

 しかし別に”辺境”や”周辺”でなくとも、一般の共同体の「外部」に属する人々は存在しました。

 「異類異形」と呼ばれた人たちです。

 網野善彦流にいえば「遍歴(漂泊)する職能民(芸能民)」

 漂泊するといっても自由気ままにアチコチ移動するというよりは、一定の地域を定期的に往還する場合が多かったようです。

 

 

 「異類異形」特殊な技術を持った人々でした。

 当ブログでたびたび言及している(ワタシ流に言えば)境の場の住人」に属する人々です。

 

(「境の場の住人」に関する記述はコチラ↓)  

kagenogori.hatenablog.jp 

kagenogori.hatenablog.jp

 

 また町中に存在する「境の場」を拠点とする人たちもいました。

 後述する鬼一法眼(きいちほうげん)頭目とする京の一条堀川を拠点とする民間陰陽師集団や、北白川印地打ち集団

 中世後期以降「河原者」と呼ばれた人たちもここに含まれます。

 

 ちなみに「鬼」「異類異形」は、似たような概念であり、微妙に重なる部分もあったりしますが、混同は避けるべきではないかと思われます。

 あくまで個人的意見ですが。

 ワタシがこれまで数多く読んで来た本のなかには、両者を完全に混同したり、「異類異形」をすべて「鬼」の範疇に入れてしまっている例(誰の何という著書かは完全に失念してしまっていますが、まぁ、薄っぺらい(笑)本でした)が見受けられたりしましたが、いかがなものかと思います。

 もちろん当時の人々にしても、ある人から見ればただの遍歴・漂泊芸能民に見えても、ある人から見れば同じ対象でもそれが「鬼」と認識されるといったことはあったでしょうし、そもそも明確に分別することが出来ない場合 「自ら鬼の子孫を名乗る人びと」などはそうかもしれませんもあるのですが、やはり「鬼」「異類異形」は分けて考えたいところです。

 便宜上においても、また当時の実状においても。

 

 話しを戻しましょう。

 彼ら「異類異形」は古代から中世初期にかけては、

神仏から授かったと半ば信じられた、その特殊技術

と、さらには

寺社との深い結びつき」あるいは「天皇家との結びつき(※)

などにより、畏怖され、またそれゆえに忌避される存在でした。

 要するに「権威」を背後にまとって、半ば疎まれる存在でもあったわけです。

(※)その職掌の起源が、貴種流離譚に見られるような天皇家出身の人物によるものだったり、古く天皇家のお墨付きを戴いたと主張するものだったり、また古く天皇家のそばに仕えていた職掌に由来するものだったり。

 

 それが中世の中期以降、早い場合はすでに古代の末期あたりから、背後にあった「権威」失墜するにつれて、彼ら「異類異形」と呼ばれた人々は次第に”賤視”の対象とされ、いわゆる被差別民ともなってゆくのです。*1

(財力を蓄えたり、新たな「権威」に結びついて、それを逃れる人たちももちろんいました。)

 

 それには(中世中期以前には)背後の「権威」を笠に着ていたこともひとつの要因ではあったのですが、それ以上に、彼らの職掌の多くが「穢れ」に関わるもの、もっといえば「ケガレのキヨメ」に関わるものだったということが考えられますが、このことを語り出すとかなりハナシがどんどんズレて行ってしまうので、それはまた別の機会ということにしましょう。

 

 さて、やっとで主役の義経(笑)。

サムネイル画像

 不思議と義経の周りには、幼少の頃から常にこうした「鬼」「異類異形」と呼ばれた人たちの存在が見え隠れしているように思われるのです。

 

 鞍馬山の天狗(烏天狗

 これは、まぁ”伝説”の類ではありますが。

 

 先述した鬼一法眼

 

 武蔵坊弁慶

サムネイル画像

 

 金売吉次

 

 そして奥州藤原氏

 

 これらの人物と義経の関係について、 「鬼」 「異類異形」という視点で検証していきます。

 が、長くなったので今回はここまでにしておきますm(_ _)m

 前置きだけで終わってしまいましたが(笑)。 

 

 次回以降、注目すべき宗教・信仰とのカラミなんかも出てきます。

 これで義経の「謎」が解ける、かな?(^^;)

 

 参考文献:

義経伝説をゆく―京から奥州へ
 

 

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*1:一方、「鬼」とされた人々の中でもとくに「まつろわぬもの」に対しては、当初から差別の対象とされてきた一面があったように思われます。

アフター・コロナの世界 ~ その時、日本の”立ち位置”は?

 アフター・コロナ、つまり世界のコロナ禍が終息したあとのことが、今さかんに言われていますね。

 その時世界の政治・経済の状況や国家間のパワーバランス等はどうなっているのか。

 そしてその時日本はどうなっているのか、どうあるべきなのか。

 ワタシなりに取り急ぎ考えてみました。

 

 なお、ここで注意されたいのは、これはあくまでワタシの想像、よくて推測に過ぎないということです。

 ただ、「アフター・コロナの世界」を考えるにあたって、ある程度”最悪の展開”を予測しておくことは、決して意味の無いことではないと思います。

 最後までお付き合い頂ければ、と思います。

 

 (パンデミック後に歴史が変わる……↓)

kagenogori.hatenablog.jp

 

 

 

 多くの方が懸念されているように、中国が前時代的な「覇権国家」を目指して動くことになると思われます。

 報道を見てもその”動き”はすでに、軍事的にも経済的にも始まっているようです。

 

 

 欧米は当然、それを良しとはしないでしょう。

 というより許さないでしょう。

 

 やはり多くの方が懸念されているように、その時欧米(だけでは無いでしょうが)の政治・経済は大変なことになっていると思われます。

 それなのに、コロナが世界中に広がる原因を造ったはずの中国は、その後いわば”火事場泥棒”的に勢力を増長させている、と欧米の国々が考えてもおかしくはありません。

 

 何よりも自分たちが弱っているときに、中国だけが突出して強大化することに対する危機感は、ワタシたちが想像する以上に大きいはずです。

 まさに欧米諸国はそれを「危機」と捉えることでしょう。

 

 

 欧米を中心とした世界と、

 中国を中心とした世界。

 

 コロナ過がいつまで続くのかにもよると思いますが、それを原因とした”危機”をきっかけとしたこの両者の対立が、”衝突”に発展する可能性は否定できません。

 それは、もう決して「絵空事の世界」ではないと思われます。

 

 その時、日本はどうするのか。

 

 

 

 拙著『影の王』で述べたことですが、ワタシは日本という国は「境界の国」だと考えています。

 

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 「境界」 、つまりは以前当ブログでやや詳しく言及した「境の場」です。

 そこでは「あの世」と「この世」の「境の場」について説明しましたが、日本が”あの世とこの世の境界”というわけでは、もちろんありません。

 (「境の場」については以下をご参照のほど↓)

kagenogori.hatenablog.jp 

kagenogori.hatenablog.jp

 

 

 先ほど「欧米を中心とした世界」「中国を中心とした世界」と言いましたが、要するに西洋的社会と東洋的社会です。(西洋文明と東洋文明、と言ってしまうとちょっと大袈裟な感じになってしまうので、ここではそうしておきましょう。)

 日本という国は、その西洋的社会・東洋的社会どちらにも属さない、あるいは逆に、どちらにも属する、という「境界の国」だと考えるのです。

 

 

 境界(境の場)には、 「物事の意味や価値が転換・逆転する」あるいは「(境界の両側にある)対立する二つの世界を結びつける」という重要な働きがあります。

 (「転換力」については以下をご参照ください↓)

kagenogori.hatenablog.jp

 

 あの世とこの世の境界では、以前述べたようにククリヒメのような巫女的存在がその役目を担っていましたが、「あの世とこの世」も含めたあらゆる「境の場」でその”仕事”を担うと汎世界的にみとめられる存在が、いわゆるトリックスターと呼ばれるものです。

 

 トリックスターは性別を持たない、あるいは両性具有であるという世界共通の特徴があります。

 日本古来の境界の存在である、塞神(サエノカミ)や道祖神、あるいはククリヒメと泉守道者(ヨモツモリミチヒト)のペアは、いずれも「男女一対神」の形をとっていますが、その根底には「トリックスター=両性具有」の思想があることは間違いないと思われます。

 

 世界中の神話・伝説において、このトリックスターはさまざまな奇跡的な事績を行って見せます。

 (しかしトリックスターは意識的にそのような”仕事”をするわけではありません。自分の”慾”に従って”無意識に”ヤリタイように行動しているだけで、 ”結果的に”そうなっている、ということが多いのです。)

 物事(社会の仕組み・秩序なども含めて)の意味や価値を「転換・逆転」させたり、対立する二つの世界の間に立って両者を結び付けたりするなどして、新しい価値(文化や利益)をもたらし、新しい世界を切り開くのです。

 もっと分かり易く砕けた言い方をすれば、「破壊(したあとの)・創造」ということにでもなるでしょうか。

 

 文化人類学的にはエルメス(ヘルメス)神や、さらに一般的存在として「道化」がその典型と考えられています。

 個人的意見ですが、実在の人物としては、坂本龍馬などはその典型ともいえるでしょう。

 

 日本は西洋的社会と東洋的社会の間の「境界の国」ではないかと述べました。

 つまりこの国は、西洋・東洋の間に立つ「トリックスター」なのではないか、というのがワタシの考えです。

 拙著でやや詳しく述べたのですが(長くなるのでここでは避けます)、日本という国の歴史や文化や気質には、トリックスターの性質とされている特徴が、驚くほど当てはまるのです。

 

 先述したように、もし仮に、「欧米を中心とした世界」と「中国を中心とした世界」がはっきりと対立すると仮定した場合、日本はその時どうするのか。

 ここまで述べてきた流れの限りにおいては、日本は両者の間に立ってトリックスターとしての役割を持つのでは、ということになります。

 

 しかし、その時の政治・外交上の判断でどちらかにつく、という可能性はもちろん大きくあります。

 そうなった場合、日本が(新しい世界の構築という点において)何ら意味のある働きを為すことは出来ないと思われます。

 多くの日本人が薄々感じているように、日本の政治家や、外務省をはじめとする「国」に、そのような”力”は無いでしょう。

 せいぜい、軍事面や経済面での多大な”供出”を強要されるだけでしょう。

 

 では、どちらにもつかず、両者の間に立った場合、日本には何ができるのか。できることがあるのか。

 この場合も、国や政治家に期待できることはあまり無いでしょう。

 神話上のトリックスターのように、無意識に行動していたら、いつの間にか最良の結果になっていた、というわけにもいきません。

 実は、対立する二つの世界の間を立ち回って、意味のある”結果”を出すというのは、非常に難しいことで、相当な能力と努力が要求されます。

 意味のある結果どころか、両方からツマハジキにされるか、最悪の場合、スケープゴート(生贄の羊)にされてしまいかねない可能性さえあるのです。(まさに「道化」がその役割を負わされることがあります。)

 「境界」とは、それほど危険な立ち位置でもあるのです。

 

 ではどうすれば。

 ワタシが密かに期待するのは、政治家や国や経済界の大物などではなく、ワタシやアナタも含めた、ごく一般のフツーの日本人です。

 言葉はよくありませんが、いわゆる”その他大勢”に属する、大多数の人たち。

 

 そもそも今、日本が世界中から称賛されたり高い評価を受けたりしているのは、名も無い日本人たちの”行動”にこそあるのだと思われます。

 

 どのような辛く苦しい状況に置かれても節度ある行動を忘れない”意識の高さ”。

 自分よりも周囲を気遣う思いやりの心。

 ひとりひとりの力は弱くても、お互いに心と力をつなぎ合わせることで、存外の”強さ”を発揮することのできる日本人。

 

 それは一朝一夕に築かれたものではなく、非常に古くからの伝統・精神文化に基づくものです。

 

 それがあるいは、世界中のやはり一般のフツーの人たちの心を動かすのかもしれません。

 あるいは、苦しい状況の中でも頑張りぬいた、名も無き日本の技術者たちが、問題の解決に結びつくような”ナニカ”を開発するのかもしれません。

 

 

 

 これから訪れるかもしれない”危機の時代”には、また私たちが「当たり前」と思っている”節度ある行動””思いやりの精神”が発揮されることでしょう。

 それは国家レベルで見れば(国家を人に見立てれば)、まさに(トリックスターと同じ) ”無意識”の行動です。

 

 それが”対立する二つの世界”の衝突を霧消させたり、新しい世界を切り開く、といった淡い期待は抱かないほうがいいのでしょう。

 しかし現代はSNS等で、一瞬で日本中さらには世界中とつながることが出来る時代でもあります。

 日本人一人一人の行動の結果として、「何」が起きる、とは言えないまでも、「何かが起きる」、ということは期待してもいいのではないでしょうか。

 あくまで最初から最後まで推測であることには違いないのですが。

 

 

 以上、ここまでワタシの個人的考えをつらつらと述べさせていただきました。

 取り急ぎ書いたので、非常にザックリした内容にもかかわらず、読みづらい文章になってしまったことをお詫びいたします。

  最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

「麒麟がくる」の時代(2) ~ 秀吉=藤吉郎は本当に農民の出身なのか

 豊臣秀吉の似顔絵イラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

 大河ドラマ麒麟がくるでは、前回ついに藤吉郎 、のちの豊臣秀吉が登場しましたね。

 本当に「」扱いでしたが(笑)。 

サル – ページ 2 – ダ鳥獣戯画

 一般に藤吉郎農民の出身だとされていますが、皆さんはこれを信じてますか?

百姓のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

 ワタシはもちろん(笑)信じておりません。

 

kagenogori.hatenablog.jp

 

 

 秀吉と言えば「黄金」が有名ですね。

 茶室までキンキラキンにしてしまったくらいですから。

 彼は”黄金”を湯水のように使ったように考えられていますが、少なくとも敵も味方も”手なずける”のに、黄金の力を有効に使っていたようです。

 その意味では、 「黄金」は重要な戦略物資だったとも言えるでしょう。

 金塊 金 貴金属 - Pixabayの無料写真

 とは言え、黄金を手に入れるのは実に大変なことで、権力者だからと言って、いながらに手元に入って来るわけではありません。

 黄金は元はといえば主に「山」の中にあります。

Guldklimp- 9 x 5 x 2 mm - 2,65 karat - Catawiki

 どの山に黄金があるのかを探る手段、その後の採掘、精錬、加工、そして運搬まで含めて、当時では大変な特殊技術でした。

 そのための手慣れた人材の確保も大事です。

 だれにでもできるものではなく、それを専門に行う集団がいたのです。

 歴史上のそのような集団を、現在では簡単に「金属民」などと呼んだりもします。

 実力主義だった戦国時代有力武将たちが、ともかくもその金属民集と関係を築こう、あるいは配下に従えようと躍起になったであろうことは、想像に難くありません。

 

 古代から続く有力な金属民集が二つあります。

 ひとつは宇佐八幡系

 地元の宇佐のほど近いところ、銅山として名高い香春岳を実質握っていたこともあり、得意としていたのは「」。

伝統文化

 ここは東大寺とも関係が深く、大仏(金属のカタマリですね)の建立にも関わってきます。

陸奥に金が出たよ😺」 - 考へる足(じゅん日記)

 また例の(笑)秦氏宇佐八幡およびに香春岳に密接に関わっていますが、金属民として有名だった古代氏族和気氏もここと密接に関係してきます。

 そういえば、いわゆる「道鏡事件」において和気清麻呂”託宣”を伺いにいったのも宇佐八幡宇佐神宮でした。

 

 

 もうひとつ、それが日吉系です。

 いうまでも無く、ここは天台宗比叡山延暦寺とも関係が深い、というより一心同体のようなものです。

 日吉大社比叡山の一角にあり、「日吉」はもともと「ひえ」と呼ばれていたことをご存知の方も多いでしょう。

 日吉信仰はまた山王信仰ともいいます。

 日吉社には、系列の日吉神社日枝神社山王神社を介して全国津々浦々にまでネットワークを拡げて活動していた「日吉神人」と呼ばれる経済・渉外担当のような集団がいました。

 とくに列島中を迅速に伝達できる「情報ネットワーク」は重要です。

 それが無ければ、各地を遍歴する金属をはじめとする技術集団は、どこへ誰を派遣するのかさえ判断不能か、よくて判断のミスや遅れに悩まされるはずです(だからこそ日本中に”支店””支社”を有する八幡系日吉系の大きな神社がその仕事”を担っているのだと思われます)。

 おそらく彼ら日吉神人が「金属」に関わっていたのだと思われます。

 

 

 さてここからが本題。

 古来有名な、というか伝説的な金属民というのが幾人か存在しています。

 

 奥州平泉と深くかかわり、義経の逃避行でも重要な役を担った金売吉次

牛若丸(源義経)の似顔絵イラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

 金売吉次の父親との伝説もある東北「炭焼き藤太」

 

 近江三上山大ムカデ(これも金属民の象徴)退治の伝説で有名な「俵藤太」

ムカデ 対策【怖くて眠れない人へ!】効果絶大な駆除方法を紹介 ...

 ワタシの住む金沢地名由来譚において”黄金”を田んぼの鴨に投げつけるほど、ざくざくと産み出していた「芋掘り藤五郎」

One Troy Ounce California Gold Nugget Stock Image - Image of ...

 この「芋掘り」金属民である「鋳物師(いもじ)」隠語だと言われています。

 ちなみに先の「炭焼き藤太」藤五郎とそっくりな伝説を持っています。

 また「俵藤太」はのちに平将門を討った藤原秀郷その人です。

 

 

 この四人のように「吉」「藤」の名を持つ伝説的人物は、じつは日吉系金属民集で、水利土木技能集団だった野猿丸系集団とも深く関わっていたであろうことが指摘されています。

 小野氏の本拠も近江日吉大社のほど近くにあり、やはり彼らも日吉社と深くかかわっていたと考えられます。

 

 ここまで書けばもうお分かりと思いますが、秀吉「藤吉郎」と名乗っていました。

 「藤」「吉」両方(!)をその名に持っています。

 しかも幼名は「日吉丸」

 さらにあだ名は「猿」

 「猿丸」ともからむ名ですが、日吉社において「神猿(まさる)」と呼ばれる神使でもあります。

 日吉社は要するに太陽信仰です。

令和に継ぐ『心に響く言葉』

 そして日の出の太陽を拝むように顔を向ける「猿」太陽神の眷属と考えられたのです。

 ちなみに伊勢サルタヒコ(猿田彦も、アマテラス無料イラスト かわいいフリー素材集: 天照大御神のイラスト以前の原初の太陽神と考えられています。

 

 

 ともあれ秀吉の名にまつわる”伝説”は、いずれも日吉社との深いかかわりを生まれながらに持っていたことを示すものと考えられるのです。

 しかもどうも日吉系金属民・神人さらには野猿丸系との関わりも強く暗示している。

 

 そこで秀吉の出自は日吉神人か、あるいは彼らを束ねる立場のものだったのではないかという疑いが持たれるのです。

 

 そう考えれば、秀吉”黄金”力の秘密も見えてきます。

 また秀吉が戦において得意としていた迅速な水利土木工事(墨俣一夜城、備中高松城の水攻めなど)中国大返し(迅速な情報ネットワーク等)の理由も。

 

 これらのこと(人脈や技術的なことなど)は、いかに秀吉が頭脳明晰でさまざまな才能に恵まれていたとしても、ただの農民出身者には難しいことと思えます。

 ましてや一般庶民にはまともな書物さえ、なかなか手に入れづらかったであろう戦国の世。

 ただの農民が若い頃からあのようなさまざまな”事績”をおこなって見せたのだとしたら、それこそ「ファンタジーだと思えてしまいます。

 

 秀吉農民出身ではあり得ず、おそらくは日吉系の金属民を束ねる棟梁のような存在で、水利土木に長けた小野猿丸系集団との関係も疑われる、というのが、ワタシの考え。というか半ば”受け売り”なんですが(笑)。

 

 

 ただこのハナシはさらに深い問題をはらんでいます。

 先に名前を挙げた義経の問題です。

 秀吉より四百年ほどさかのぼりますが、源義経も同様に、さまざまな伝説戦における”奇跡的な事績” 、さらに逃避行において何故あのルートをたどったのか、といった謎多き武将です。

那須与一のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

 次回はできればこの話題で盛り上がりたい(笑)と思っています。

 予定変更が無ければ(笑)。

 

参考文献: 

 

 

秦氏の研究―日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究

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