古代史は小説より奇なり

林業家kagenogoriが古代の謎を探求する

桃太郎の鬼の正体は?(2)

 前回では桃太郎のすなわち温羅(うら)とは、製鉄によって力を築いた吉備の首長であろうということまでは確認しました。

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 同じく前回ではブラタモリの番組内で言われていた鬼の特徴(吉備津神社に残る古文書による)として、

頭に角のようなものがある

「(鬼は)火を口から吐き、近隣の山々を焼く

というものがあると述べました。

 

 このような特徴を持つ製鉄民

 このブログを読んできた方なら、何となく覚えがあるのではないでしょうか。

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 頭部に「角」があり、口から火を吐き、優れた鉄製品を産み出す鬼神

 これは中国で言えば「蚩尤」、わが国でいえばまさに「アメノヒボコ」の特徴です。

 弥生後期に日本列島を席巻したアメノヒボコが、秦氏の直接の祖先であろうことは、当ブログで繰り返し述べてきたことです。

 

 古事記等の文献に載るアメノヒボコの伝承地播磨、摂津、近江、若狭、但馬などですが、実は吉備のクニも古文献に載りはしないものの、ヒボコに関係が深い土地なのです。

 

 

 ここでちょっとブラタモリの内容に戻りましょう。

 番組内では、吉備の首長である「」が埋葬されたところとして、弥生後期墳丘墓である「楯築遺跡」が紹介されていました。

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 2世紀後半~3世紀前半のものです。

 この墳丘墓は番組内でも磯田先生が言われていましたが、(古墳時代の幕開けとともに大和三輪山に出現した)前方後円墳の原型となるものです。

 

 またこの遺跡にあった岩(以前ここにあった楯築神社に代々受け継がれていたとか)に刻まれた「弧紋円」(番組内では「弧文円」と紹介)と呼ばれる紋様は、大和の「纏向石塚古墳」で出た「弧紋円盤」の原型と考えられています。

 纏向石塚古墳は、やはり三輪山の広大な纏向遺跡の一つで、最も古いタイプの前方後円墳であり、纏向最古の古墳ではないかとされるものです。

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 時期は楯築遺跡よりほんの少し時代が下った3世紀前半

 

 つまり楯築遺跡の墳丘墓の形式と、出土した弧紋円の紋様がともに、三輪山麓の最初期の古墳とその出土物のルーツであるという事実

 このことは吉備最初期の大和王権である三輪王権、そしてアメノヒボコの関係について、非常に重要なことを示唆していますが、このことを説明しだすと非常に長くなるのでここでは述べません。(ブラタモリでは大和側が単にマネをしたと言ってましたが.笑)

 アメノヒボコと三輪王権のただならぬ関係(笑)については、拙著( 『天より降りし者達』剣崎薫名義)、 『影の王』泉雄彦名義) )にてやや詳しく述べていますので、興味があれば是非(笑)。

 

天より降りし者達―古代日本を創成した“神の一族”の謎

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影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)

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 話しを戻しましょう。

 この吉備の楯築遺跡や前回述べた「鬼ノ城」の近くには、「比売語曾(ひめこそ)神社」が鎮座しています。

 「ヒメコソ神社」は西日本各地に鎮座していますが、『古事記』によればもともと当社に祀られていた「アカルヒメ」(のちに何故か「シタテルヒメ」に変更された)は、アメノヒボコの妻です。

 そしてさらに重要なことに、吉備の比売語曾神社の鳥居の横には『秦原郷鉄造之発祥之地』と書かれた柱が立っているのです。

 「秦原郷」とは、そのすぐ近くに岡山県最古の「秦廃寺跡」があることからも、秦氏の集団が居住もしくは支配していた地域と考えて間違いないでしょう。

 そこが「製鉄の発祥地」だというのですから、ただの居住地ではなかったこともまた間違いありません。

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 また一帯の近くには「生石(いくし)神社」も鎮座している。

 「生石」はアメノヒボコの最終鎮座地とされる「出石(いずし)」の転訛とされていますから、やはりこの地域一帯はアメノヒボコの重要な根拠地だった。

 というよりアメノヒボコ(集団)がこの地を、当時における製鉄コンビナートとして開発し、豊かな土地にしたとも考えられるのではないでしょうか。

 

 さらにダメ押しで言うならば、吉備秦氏との密接な関係が指摘されている「和気氏」の根拠地でもあります。

 あの「和気清麻呂」を輩出した氏族です。

 「ワケ」とは岩石(鉱石)から金属を採り「ワケ」ることを意味し、つまり和気氏金属民の出身であると考えられています。

 和気清麻呂東大寺の大仏(金属のカタマリですね)の造営に深く関わった人物ですが、その背景には金属民としての大きな働きがあったであろうことが指摘されています。

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 吉備の東隣の播磨ヒボコの伝承地です。

 『播磨国風土記』によれば、もともとここを支配していたアシハラシコオ出雲オオクニヌシの別名)とアメノヒボコが、播磨の各地で土地争いをしたという伝承が書かれています。

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 このアメノヒボコはおそらく吉備から東遷して、播磨にも手を伸ばそうとしていたのでしょう。

 ヒボコは連戦連勝を重ね、さらに東遷を続けていきます。

 

 

 ともあれこの吉備の地でも、アメノヒボコ秦氏が「製鉄」というキーワードとともにつながっている。

 そして東遷したヒボコのグループとは別に、豊かな吉備に残ったグループもいた。

 そしてのちにやや暴走気味に開発と森林破壊を進めてしまい、「」とされてしまったのが温羅(うら)だったのではないか。

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 ワタシはそう思うのです。

 

参考文献: 

天日槍と渡来人の足跡―古代史写真紀行

天日槍と渡来人の足跡―古代史写真紀行

 

 

続 秦氏の研究 ~日本の産業と信仰に深く関与した渡来集団の研究~

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秦氏の研究―日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究

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秦氏とその民―渡来氏族の実像

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