古代史は小説より奇なり

林業家kagenogoriが古代の謎を探求する

秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(1)

 どうも、北陸は金沢で林業を生業としてますkagenogoriです。

 「Good Old Music、Fantasticな高校野球」というブログをやってます。

 そこでは、主に80's以前の洋楽、邦楽(ジャズ、フュージョン含む)について、大好きな高校野球について、その他日々思ったこと、感じたことなどを書かせていただいてますが、ホント言うと古代史が一番得意なんですね。

 実はamazonさんから泉雄彦ペンネームで『影の王』という著書も出させていただいてます。  

 

影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)

影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)

 

 

 そこでこの度、古代史専門のブログを開設します。

 古代史といっても、日本でいえば縄文~弥生時代、いわゆる有史前も含みます。

 日本人とは何者か?日本(人)の不思議さのルーツは? 、などの疑問を解くには、有史前とくに縄文時代が非常に重要だからです。

 なにはともあれ、みなさんと一緒に古代の謎に取り組んでいきましょう。

 まずは古代の中でも最も大きな謎といっても過言ではない、秦氏について見ていきましょう。意外と縄文時代のことも関係してきます。

 

 秦氏といえば、真っ先に思いつくのが秦河勝でしょう。

Hatano Kawakatsu.jpg『前賢故実』より

 6世紀後半~7世紀前半ごろにかけての人物で、聖徳太子の側近として活躍したのは、ご存じの通り。用明天皇崇峻天皇推古天皇の御世のことです(生まれは欽明天皇の頃)。

聖徳太子の似顔絵イラスト

 また太子の死後、皇極天皇の御世に駿河で起こった常世という新興宗教を、老体にムチ打って遠路はるばる征伐し、民衆に大いに称えられました。

 河勝より少し前、6世紀前半ごろに活躍したのが秦大津父です。元々は富裕な商人でしたが、欽明天皇に見いだされ朝廷の大蔵の司に任命されました。

 河勝と大津父共通の先祖が、秦酒公酒君)です。雄略天皇の御世といいますから、5世紀後半ごろの人物と考えられます。

 秦氏一族の族長を、特別に「太秦うずまさ)」といいますが、おそらく最初の「太秦」となったのがこの酒公です。

 

 秦氏の一番の特長といえば、その莫大な財力に尽きるでしょう。

 酒公、大津父、河勝の三者が、中央政権(大和朝廷)に接近してある程度の影響力を持つに至ったのも、その大きな財力が背景にあったと考えられます。

 それもそのはず。

 秦氏殖産豪族として知られていますが、日本の古代において、彼らほど広範な地域に展開し、また幾多の産業において名を成した一族はいません。

 

 大げさではなく、当時の日本全国津々浦々にまで展開し、彼らの根拠地だったと考えられている地域だけでもかなりの数になります。

 

 また秦氏が中心的役割あるいは得意とした産業も、絹織物業(養蚕~機織)金属業(採鉱~精錬・加工)水利土木水運・陸運(交通拠点の掌握も)商業(交易)

 また、8世紀ごろの秦伊呂具伏見稲荷大社の創建にまつわる説話(言い伝え)から、稲作を中心とした田畑も手広く営んでいたと思われます。

伏見稲荷大社, 京都, 日本, 寺, ランドマーク, 有名な, 旅行, ゲート, 赤, アジア

 これらは当時の重要な基幹産業ばかりであり、また、どの産業も互いに固く結びついていました。

 

 例えば水利土木、農業には、金属産業による、土木器具や農具がモノを言いました。

 また水利土木は当然、水運・陸運と、そしてその水運・陸運は商業交易と、商業交易は絹織物業と、それぞれ密接に関係していたことは説明の要を待たないでしょう。

 さらに当時の絹織物は、いまの貨幣の役割を持っていましたから、それを握っていることがどれだけの財力を生むか、想像に難くありません。

 また、交通網の拠点を抑えていたことは、財力以上の「力」が秦氏にあったことを示しています。事実、当時の畿内から各地域への交通の大きな拠点であった深草伏見~宇治にかけては、秦氏の大きな根拠地の一つで、そこに「深草屯倉」という軍事拠点まで持っていました。

 以上のことを考え合わせると、当時の日本において秦氏が異常ともいえる巨大な「力」を持っていたことがお分かりになるでしょう。

 

 ここである疑問が起こります。

 秦氏は定説では応神天皇の5世紀初頭ごろかその前後に、弓月君という伝説的人物に引き連れられ、朝鮮半島から一族が大挙渡来したとされています。

 しかし、ちょっとおかしいと思いませんか?

 文献上、最初にその大きな財力で名を成した秦酒公は、5世紀後半ごろの人物でした。とすると、最初の一族渡来からたったの数十年、多く見積もっても百年弱で、日本列島各地に根付き、巨大な財力を持ったことになります。

 実際、伝承では酒君弓月君の孫(つまり数十年後)であり、各地に広がりすぎて弱体化した「秦の民」を、天皇の助力で再び自らのもとに結集させて、大きな力となったことが語られています。

 しかし、「秦の民」とは秦氏のいわば使用人集団のようなもので、彼らが渡来後、各地に展開したところで、のちに秦氏が列島各地に根拠地を築き、大きな財力を得たという事実には、何らつながるものではないと思えます。

 つまりこの伝承は、ウソとは言いませんが、語られていないことが大きすぎると思われます。この伝承には語られていない秦氏の歴史があったはずです。

 したがってまた疑問に戻りますが、秦氏が(定説で渡来したとされる5世紀初頭ごろから)列島各地に展開し、多くの根拠地を築き各種産業を興し異常な財力その他の力を築き上げるのが、速過ぎるのではないでしょうか?

 

 秦氏が「最初に」渡来してきたのは、本当に5世紀初頭前後なのでしょうか。

 もし、5世紀初頭ではない、つまりそれよりもっと以前のことだとすると、朝鮮半島から渡来した(のが最初)ということも、再検討が必要です。

 

 ここで、カギを握る人物がいます。

 というかこれも「伝承的」人物(あるいは神)である、その名も「アメノヒボコ」といいます。天之日矛、あるいは 天日槍と書きます。

 この人物というか神が、秦氏の渡来時期、故地(どこから来たか)、さらに秦氏の特性までも解き明かすための、カギをいくつかもっているのです。

 この続きは次回で。