義経と黄金 暗躍する「鬼」 ③
長らくご無沙汰してしまいましたm(_ _)m
前回では、義経は「鬼」たちを統べるリーダーとして、幼少のころから期待されていた、と述べました。
義経は「鬼」だったのか。
義経のまわりにいた人達を見てみましょう。
鬼一法眼については前回見ましたので、弁慶から。
弁慶
弁慶の名は史書『吾妻鏡』にも記録されており、一応実在していたと考えられますが、その出生から事績については、物語上で語られるのみです。
そのため彼についてのエピソードがすべて彼自身のものというより、他の人物のことも併せて、物語上では弁慶のものとしている、という説も根強くあります。
いずれにせよ、そのような人物(あるいは人物群)が義経のまわりにはいたと考えられ、そのことこそが重要ですので、便宜上ここでは弁慶という一人の人物として述べさせていただきます。
弁慶の出生には諸説ありますが、もっとも有力とされているのが、熊野の別当(本宮・新宮・那智の三山からなる聖地・熊野を実質的に支配していた)であろ湛増(たんぞう)あるいは弁しょうの子であるという説です。(これなども「弁慶」が複数人いたということの傍証になるかもしれません。)
母の胎内に十八か月もいた末に、生まれて来れば三歳児ほどの巨躯に長髪、歯も生えそろっていたとあって、父から鬼神の子として殺されそうになるも母の命乞いによって救われ、「鬼若」と名付けられたという、なかば伝説的なエピソードが語られています。
六歳のときに比叡山延暦寺に預けられますが、成長して持ち前の怪力で乱暴狼藉を繰り返したあげく、十八歳の時に追放同然で比叡山を追われました。
この頃に「武蔵坊弁慶」を名乗るようになります。
その後のことは、まぁ、良く知られた話になるのですが。
京で千本の太刀を奪うという願掛けをしていた弁慶はご存知のように、僧兵姿をしていました。
僧兵といえばまず比叡山延暦寺が思い浮かびますが、弁慶はたしかに比叡山にいたことは先に述べた通りです。
しかし弁慶が叡山にいたころはまだ僧にはなりきっておらず、僧形・僧兵姿になったのは叡山を出たあとのことです。
実はこの僧兵姿、中世(鎌倉期以降)の京においては、祇園社(現・八坂神社)の「犬神人(いぬじにん・つるめそ)」や清水坂の非人の長吏(ボス)が”武装集団”として”行動”するときの身なりにつながっているという指摘があります。
犬神人も非人も寺社に属して葬送など死穢に関わる務めを役割とした人たちですが、それだけではなく寺社における最下層の仕事(ケガレに関わる仕事や人々の怨恨を買いそうな仕事などのいわゆるダーティ・ワーク)など任されることも多く、語弊を恐れずに言えば、いわば便利屋のような存在でした。
寺社の自警団の役目も果たし、それが武装集団に発展したりもするのですが、完全に寺社に縛られていたかというと、そうでもなかったようです。
寺社には最低限の務めだけを果たし、あとは武具や履物の製造・行商なども行うなど、なかば自立していたとも言えます。
つまり武装集団としても寺社に付かず離れずの集団だったと考えた方が良いかもしれません。
前回、鬼一法眼のところで京や周辺に割拠する武装集団について言及しましたが、このような武装集団同士の横のつながり(ネットワーク)とも関りがあったと思われます。
祇園社犬神人の文献上における初見は鎌倉中期ごろの1227年で弁慶よりも半世紀ほどあとのことになりますが、弁慶の時代にその原型がすでに見られたとしてもおかしくはありません。
あくまで「犬神人」という”呼び名”の初見が半世紀後、ということだと思われます。
そもそも神人という職掌自体、古代末期から存在するものですから。
問題は、ここからです。
弁慶は幼少の頃から比叡山とかかわりを持っていましたが、祇園社も10世紀末以降は叡山の末社でした。
その武装集団が叡山の僧兵姿と似ていたのも、そのためかもしれません。
そして比叡山は言うまでも無く天台宗かつ日吉神社の総本山です。
比叡と日吉どちらも「ひえ」。
日吉神社と言えば、以前言及したように(↓)
宇佐八幡系と並ぶ全国規模のネットワークをもった大きな金属民集団を従えたところです。
その金属民集団の中心を担っていたと考えられるのが日吉神人と呼ばれる神人集団でした。
上記の記事で、その日吉系金属民集団の伝説的金属民の一人として挙げたのが、義経と深く関わった「金売吉次」でした。
また弁慶と同様に比叡山から追放されて野に下った存在に、酒呑童子がいます。
正真正銘の「鬼」ですが、その風貌・身なりや「山」を根拠地にしたことなどから、やはり日吉系金属民との関係は考えられるべきだと思われます。
鬼≒金属民。
とくに鬼と日吉系金属民集団の関りには注目しておきたいところです。
同じく叡山(日吉)を追われた弁慶も、その「七つ道具」の多くを見れば、金属民との深いかかわりは考えるべきで、実際そう指摘する専門家の方もいます。
とくに七つ道具の中の「鉞(まさかり)」「鉄棒」「さすまた」は、まさに絵に描かれる鬼たちが手にしている道具です。
こうしてみると、弁慶という人物には明らかに比叡山・日吉社、とくに日吉系金属民との深いかかわりが見られることが分かります。
弁慶も「鬼」の一人だったと考えればいいかと思います。
義経をバックアップしていた日吉系金属民は金売吉次だけでは無かったのです。
弁慶も、いや、日吉神人を含む日吉系金属民集団全体が、義経を自分たちのリーダーとして担ぎ上げ、支援しようとしていた。
そう考えれば、義経の活躍、そして逃避行の謎にも光がさすように思われるのです。
豊臣秀吉(木下藤吉郎)よりさらに400年前にも、同じような日吉系金属民のリーダー・棟梁がいた。
それは同時に「鬼」たちの棟梁でもありました。
それが義経だったと、当ブログでは仮定したいと思います。
実は義経よりもさらにさかのぼる古代に、同じく「鬼」たち(その当時は「鬼」という概念さえ気迫だったと思われますが)のリーダーと期待されたのではないかと疑われる人物がいました。
そのことも含めて、次回は義経とその周辺についてもう少しみていきたいと思います。