「麒麟がくる」の時代(2) ~ 秀吉=藤吉郎は本当に農民の出身なのか
大河ドラマ『麒麟がくる』では、前回ついに「藤吉郎」 、のちの豊臣秀吉が登場しましたね。
本当に「猿」扱いでしたが(笑)。
一般に藤吉郎は農民の出身だとされていますが、皆さんはこれを信じてますか?
ワタシはもちろん(笑)信じておりません。
秀吉と言えば「黄金」が有名ですね。
茶室までキンキラキンにしてしまったくらいですから。
彼は”黄金”を湯水のように使ったように考えられていますが、少なくとも敵も味方も”手なずける”のに、黄金の力を有効に使っていたようです。
その意味では、 「黄金」は重要な戦略物資だったとも言えるでしょう。
とは言え、黄金を手に入れるのは実に大変なことで、権力者だからと言って、いながらに手元に入って来るわけではありません。
黄金は元はといえば主に「山」の中にあります。
どの山に黄金があるのかを探る手段、その後の採掘、精錬、加工、そして運搬まで含めて、当時では大変な特殊技術でした。
そのための手慣れた人材の確保も大事です。
だれにでもできるものではなく、それを専門に行う集団がいたのです。
歴史上のそのような集団を、現在では簡単に「金属民」などと呼んだりもします。
実力主義だった戦国時代の有力武将たちが、ともかくもその金属民集団と関係を築こう、あるいは配下に従えようと躍起になったであろうことは、想像に難くありません。
古代から続く有力な金属民集団が二つあります。
ひとつは宇佐八幡系。
地元の宇佐のほど近いところ、銅山として名高い香春岳を実質握っていたこともあり、得意としていたのは「銅」。
ここは東大寺とも関係が深く、大仏(金属のカタマリですね)の建立にも関わってきます。
また例の(笑)秦氏が宇佐八幡およびに香春岳に密接に関わっていますが、金属民として有名だった古代氏族和気氏もここと密接に関係してきます。
そういえば、いわゆる「道鏡事件」において和気清麻呂が”託宣”を伺いにいったのも宇佐八幡(宇佐神宮)でした。
もうひとつ、それが日吉系です。
いうまでも無く、ここは天台宗比叡山延暦寺とも関係が深い、というより一心同体のようなものです。
日吉大社は比叡山の一角にあり、「日吉」はもともと「ひえ」と呼ばれていたことをご存知の方も多いでしょう。
日吉信仰はまた山王信仰ともいいます。
日吉社には、系列の日吉神社、日枝神社、山王神社を介して全国津々浦々にまでネットワークを拡げて活動していた「日吉神人」と呼ばれる経済・渉外担当のような集団がいました。
とくに列島中を迅速に伝達できる「情報ネットワーク」は重要です。
それが無ければ、各地を遍歴する金属をはじめとする技術集団は、どこへ誰を派遣するのかさえ判断不能か、よくて判断のミスや遅れに悩まされるはずです(だからこそ日本中に”支店”や”支社”を有する八幡系や日吉系の大きな神社がその仕事”を担っているのだと思われます)。
おそらく彼ら日吉神人が「金属」に関わっていたのだと思われます。
さてここからが本題。
古来有名な、というか伝説的な金属民というのが幾人か存在しています。
奥州平泉と深くかかわり、義経の逃避行でも重要な役を担った「金売吉次」 。
金売吉次の父親との伝説もある東北の「炭焼き藤太」 。
近江三上山の大ムカデ(これも金属民の象徴)退治の伝説で有名な「俵藤太」 。
ワタシの住む金沢の地名由来譚において”黄金”を田んぼの鴨に投げつけるほど、ざくざくと産み出していた「芋掘り藤五郎」 。
この「芋掘り」は金属民である「鋳物師(いもじ)」の隠語だと言われています。
ちなみに先の「炭焼き藤太」も藤五郎とそっくりな伝説を持っています。
この四人のように「吉」「藤」の名を持つ伝説的人物は、じつは日吉系の金属民集団で、水利土木技能集団だった小野猿丸系集団とも深く関わっていたであろうことが指摘されています。
小野氏の本拠も近江日吉大社のほど近くにあり、やはり彼らも日吉社と深くかかわっていたと考えられます。
ここまで書けばもうお分かりと思いますが、秀吉は「藤吉郎」と名乗っていました。
「藤」と「吉」両方(!)をその名に持っています。
しかも幼名は「日吉丸」 。
さらにあだ名は「猿」 。
「猿丸」ともからむ名ですが、猿は日吉社において「神猿(まさる)」と呼ばれる神使でもあります。
日吉社は要するに太陽信仰です。
そして日の出の太陽を拝むように顔を向ける「猿」も太陽神の眷属と考えられたのです。
ちなみに伊勢のサルタヒコ(猿田彦)も、アマテラス以前の原初の太陽神と考えられています。
ともあれ秀吉の名にまつわる”伝説”は、いずれも日吉社との深いかかわりを生まれながらに持っていたことを示すものと考えられるのです。
しかもどうも日吉系金属民・神人さらには小野猿丸系との関わりも強く暗示している。
そこで秀吉の出自は日吉神人か、あるいは彼らを束ねる立場のものだったのではないかという疑いが持たれるのです。
そう考えれば、秀吉の”黄金”力の秘密も見えてきます。
また秀吉が戦において得意としていた迅速な水利土木工事(墨俣一夜城、備中高松城の水攻めなど)や「中国大返し」(迅速な情報ネットワーク等)の理由も。
これらのこと(人脈や技術的なことなど)は、いかに秀吉が頭脳明晰でさまざまな才能に恵まれていたとしても、ただの農民出身者には難しいことと思えます。
ましてや一般庶民にはまともな書物さえ、なかなか手に入れづらかったであろう戦国の世。
ただの農民が若い頃からあのようなさまざまな”事績”をおこなって見せたのだとしたら、それこそ「ファンタジー」だと思えてしまいます。
秀吉は農民出身ではあり得ず、おそらくは日吉系の金属民を束ねる棟梁のような存在で、水利土木に長けた小野猿丸系集団との関係も疑われる、というのが、ワタシの考え。というか半ば”受け売り”なんですが(笑)。
ただこのハナシはさらに深い問題をはらんでいます。
先に名前を挙げた「義経」の問題です。
秀吉より四百年ほどさかのぼりますが、源義経も同様に、さまざまな伝説や戦における”奇跡的な事績” 、さらに逃避行において何故あのルートをたどったのか、といった謎多き武将です。
次回はできればこの話題で盛り上がりたい(笑)と思っています。
予定変更が無ければ(笑)。
参考文献: