忍者の起源 またまたブラタモリからのネタですが
ブラタモリで伊賀の忍者についてやってましたね。
次回の放送では甲賀をやるそうで。
伊賀の忍者はもともと地元の農民だったと番組では言っていましたが、さて?
もっとも古い忍者は、記録によれば聖徳太子が使っていた「志能備(忍び)」です。
もちろんアカデミズムでは一顧だにされていませんが(笑)。
その史料が「正史」ではない、荒唐無稽だ、とか理由で(笑)。
その「正史」である『日本書紀』では、聖徳太子より半世紀後の大海人皇子(おおあまのみこ) 、のちの天武天皇が「天文遁甲」を能くした、つまり自在に使いこなしていたと書かれています。
「天文遁甲」のうち、 「遁甲」とはつまり今風に言うと「忍術」のようなものです。
天武天皇はワタシが歴史上で最も好きな人物の一人で、大変興味深い側面・裏面を持っています。
そのうち採り上げてみたいと思いますが、今回は聖徳太子の方に焦点を当ててみましょう。
聖徳太子が使っていた「志能備」が最初の忍者であることを記していたのは、じつはブラタモリの中でも紹介されていた忍術書『萬川集海』です。
その志能備の名は大伴細人という人物とされてますが実在した人物かどうかは不明です。謎の人物です。
じつはそれ以外にも太子の周辺には、実在したことは事実なのに謎が多くその人物像がはっきりしない人が2人います。
側近中の側近・秦河勝と、太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后です。
秦河勝といえば、当時の秦氏の族長・太秦(ウズマサ)だった人です。
秦氏というのは、以前当ブログで言ったと思いますが、日本中の「境界」を支配して非常に大きな力を有していた一族です(以前のブログでは「境界」という言葉は使っていなかったかもしれませんが)。
境界すなわち「境の場」というのは、
- 交通に関わる「(陸上の)道、(水上の道である)河川や海辺・湖畔、坂、辻、河原、橋、山、etc.」など本来誰のものでも無いはずの場所
- そしてそこに立つ「市(市場)」
などです。
じつはそれら「境の場」を活動場所とし、往き来していた「大道芸人・木地師・鉱山にかかわる金属民・鍛冶師・鋳物師・白拍子・白太夫・遊女・白比丘尼・修験者(山伏)・神人(ジニン)・坂の者・河原者・渡し守・etc.」といった古代から中世にかけての漂泊芸能民、漂泊宗教民等は、秦河勝をその祖としている人たちが多かったのです。
ブラタモリでは忍者の原型として、全国の山々を行きかい、情報収集にも長けていた修験者(山伏)に言及していましたが、彼らなどはここで挙げた通り、(ワタシ流にいえば) 「境の場の住人」の典型です。
伊賀忍者といえば服部氏が有名ですが、彼らの起源も古く、もともと古代では”服織部(ハタオリベ)”だったのが省略されて”服部(ハットリ)”となったものです。
彼らも元々は秦(ハタ)氏の一族だったと考えられています。
養蚕で得られた絹を機織り(ハタオリ)して作った絹織物が、秦氏の大きな財源の一つだったことは言うまでもありません。
秦河勝といえば、太子に命じられてその前で”六十六番のものまね”を披露したことが有名ですが、これなど不思議に感じられた方も多いのではないでしょうか。
これが後の申楽=猿楽(さるがく)のルーツになったと、やはり秦河勝の子孫であることを主張した世阿弥の『風姿花伝』に書かれていますが、このような能力(多彩なものまね)も「忍び」の能力と重なります。
そのような能力を活かした大道芸人などの漂泊芸能民や、修験者などの漂泊宗教民を日常の姿として、全国津々浦々を走破したのが「忍び」だったのです。
伊賀に関して言えば、確かに”食う”ために農業もしていたでしょうが、ただの農民ではなかった、ということです。
そもそも伊賀の地は番組でも言っていたように「交通の要衝」であり、大きな「境の場」としてさまざまな漂泊芸能民や漂泊宗教民が常に行き交う土地だったのでしょう。
すぐ隣には、日本中の山々を往く木地師の中心であった「甲賀」もありましたし。
ともあれ、このように大伴細人は実在したかどうかわかりませんが、確実に太子の側近として実在した秦河勝は、 「忍び(志能備)」と大いに関り、あるいは「境の場の住人」の長として、志能備を配下にする立場の人物だった可能性が考えられるのです。
さらに問題なのは、太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后です。
「穴穂部」の名についても非常に大きな問題をはらんでいるのですが*1、ここでは「間人(ハシヒト)」だけにフォーカスを当てましょう。
「間人(ハシヒト)」はつまり「間の人」。
何と何の間かといえば、それは「神と人」の間。
さらには「あの世とこの世」の間。
要するに「間人(ハシヒト)」というのは、「あの世」の存在である霊魂や精霊さらには神と、「この世」の存在である人との「間=境の場」に立って、両者を結びつける、くくりつける存在。
つまり間人皇后の場合、神の意思を人間社会に伝える存在、「託宣する巫女」だったと考えられます。
それも国家最高位クラスの。
じつは「間人」の「ハシ」という語には、 「相対する二つの存在の間にあって両者をつなげるもの」という意味があります。
橋渡しの「橋」は川辺のアッチとコッチをつなげるもの。
「箸」は食べ物と自分をつなげる、もっと言えば、 ”神人供食”という考え方において、神にささげた食べ物を自分も「箸」で頂くことによって、神と一つになる、神と自分の間をつなげる、という古え(いにしえ)の考え方から来ています。
間人皇后と同じような存在として、崇神天皇のおばだった「ヤマトトトヒモモソヒメ」がいます。
この人物は”神”である「蛇」を飼って託宣する「蛇巫女」だったと考えられています。
そういえば秦氏も竜蛇神を信仰する「蛇」氏だったことも、以前このブログで述べました。
それはともかくこの「間人」 、前々回と前前々回で述べたシラヤマ信仰のククリヒメにそっくりですよね。
ククリヒメもあの世とこの世の「境の場」に立って、あの世の存在の言葉を伝える=託宣する(だけではありませんでしたが)巫女でした。
つまりハシヒトとはあの世とこの世をくくるククリヒメであり、逆にククリヒメはあの世とこの世を橋渡しするハシヒトなのです。
両者は「境の場の住人」の典型と言えます。
問題は聖徳太子が「間人(ハシヒト)」である母の血を、色濃く受け継いでいる、ということです。
正史『日本書紀』には聖徳太子が「兼ねて未然を知ろしめす」と書かれ、先のことを予見できたことが書かれています。
また『未然記』『未来記』なるものを残していたともいわれます。
これなどもアカデミックな世界では話題にすら上りませんが、太子がハシヒトであった母の能力を受け継いでいた、さらにその「技術」を学んでいたとしたら、それが”真実”であった可能性は俄然高くなります。
むしろそのような能力は持っていて当然、という見方さえ出来るのです。
さらに重要なのは、聖徳太子自身が「境の場に立つ住人」だった可能性があることです。
だとすれば、 「境の場の住人」の長である太秦・秦河勝が、なぜ側近として太子の傍に常に寄り添っていたのか、という理由も見えてきます。
彼らがさまざまな能力・特技をもつ「境の場の住人」たちを、諜報活動のための「志能備」として活用していた可能性は大いにある。
ワタシはそう思います。