義経と黄金 暗躍する「鬼」 ②
皆様、大変長い期間を開けてしまいましたことを、お詫び申し上げます<m(__)m>
「鬼」 。
この日本には古代から中世にかけて、 「鬼」とされてきた(というよりされてしまった)人々が存在していました。
前回、鬼は「~童子」と呼ばれることが多いと言いましたが、それは外見上の特徴からも言えます。
すなわち「鬼」と呼ばれた人々は、外見上は「童形」 、つまり成人しているにもかかわらず、髪型が当時の子供(童、童子)と同じ「禿(かむろ)頭」という特徴があったのです。
「禿(かむろ・かぶろ)」とは、髪の毛の先を切り揃え、結ばずに垂らしておく”おかっぱ”のような髪型をいいます。
金太郎の髪型を思い起こしていただけれ分かり易いと思います。
当時の子供は、数え年で十五歳の「成人」になるまで、この髪型をしていました。
「鬼」がこのような子ども(童・童子)の姿をしていたことには、理由があります。
それは「童・童子」は「人」ではない ということです。
どういうことかと言うと、当時は成人してはじめて「”人”になる」のであって、子供は「人」とは認められていなかったのです。
では子供は何なのかというと、どちらかと言えば「神」に近い存在、と言いますか、 「神」と「人」との中間の存在 、 「あの世」と「この世」の中間に立つ存在だと考えられていたのです。
つまり「境」の存在。
とくに七歳までの子供は、「七つまでは神の子」とされたように、「神の依りまし」でもありました。
よく神を奉斎する祭りの行列において、子供を行列の先導役にしたり、神輿に乗せて担いだりするのには、このような理由があるのです。
「鬼」も当然、「人」としては認められなかった。
しかしそれ以上に、彼ら自身が「人」ではない「鬼(モノ)」 、「人」以上の霊力・神力を持つ「モノ」であることを誇示する意味でも、彼らは成人後も「禿」であり続けたのです。
(実は「禿」頭の例として挙げた金太郎は、成人しても禿姿のまま、つまり「童子」でした。 その姿で源頼光に出会い、頼光の「四天王」として酒呑童子討伐で活躍します。そのことについてはあとでまた言及するかもしれません。)
不思議と義経の周りには、幼少の頃から常にこうした「鬼」たちの存在が見え隠れしているように思われるのです。
まるで義経という存在をガードするかのように、入れ替わり立ち替わり姿を現すのです。
まず鬼一法眼(きいちほうげん)。
京の一条堀川を拠点とした民間陰陽師集団の首領だった人物です。
名前に”鬼”の字がありますね。
義経はこの鬼一法眼のもとで剣術や兵法を学んで、奥義書である『六韜』のうちの『虎の巻』を授けられたとも、あるいは鬼一法眼の娘をだまして盗み取ったともいいます。
義経に剣術を指南した「鞍馬の天狗」はこの鬼一法眼だった、とも言われています。
鞍馬の鞍馬寺の一角には鬼一法眼社が鎮座しています。
『六韜』とは、殷を滅ぼした周の軍師である太公望呂尚(りょしょう)が『三略』とともに著わした、実在する兵法書です。
『六韜』は「文・部・龍・虎・豹・犬」の六巻からなり、『虎の巻』はそのうちの一つ『虎韜』のことです。
なぜ民間陰陽師だった鬼一法眼が、そのような兵法の奥義書を所持していたのか。
これについては、文化人類学・民俗学の小松和彦さんが「陰陽師であると同時に、京の”武装集団”のボスでもあった」と発言しています。
当時の京には”童形”の武装集団がいくつもあったのです。
例えば大河ドラマ『平清盛』でも描かれていた、”禿頭”で”赤い直垂(ひたたれ)”といった姿で清盛配下の”思想警察”として京中を震え上がらせていた「六波羅殿の禿(かぶろ)」 。
大河ドラマでは子供の集団のように見えましたが、実際は十四~十六といった、大人になっているかならないか、ぐらいの年齢の武装集団でした。
歴史家・大和岩雄氏などは、京やその周辺地域に割拠していたこのような武装集団を「現代の暴走族のようなもの」と言っています。
鬼一法眼は陰陽師でありながら、このような武装集団のひとつの首領でもあった のです。
では、なぜ義経が鬼一法眼から授けられた、あるいは盗み取った兵法書が『六韜』のうちの『虎韜』、すなわち『虎の巻』でなければならなかったのか。
これについても小松和彦氏が、牛若丸(義経の幼名)が天狗から兵法を学んだ鞍馬寺が毘沙門天を祀る寺院で、 ”寅の日”を重視することと関係があるのではないかと発言しています。
しかしワタシは、これとは少し違った意見を持っています。
つまり「虎」であることに、非常に重要な意味があるのではないかと。
義経の幼名は「牛若丸」 。
その彼が『虎の巻』を得たことで、いわば武人として完成されたと言えます。
「牛」と「虎」が合わさって「牛虎=丑寅」という完全体になる。
「丑寅」すなわち「鬼」です。
「丑寅」の方角、北東は「鬼門」と呼ばれています。
また「鬼」の絵を見ても、牛の角を頭に生やし、トラ柄のパンツ(?)を履いた「丑寅」の存在であることを表しています。
つまり、牛若丸が『虎の巻』を得たとする伝承を伝えた人たちは、義経が「鬼」であったことを暗に示そうとした のではないでしょうか。
義経は幼少の頃から「鬼」を統べるリーダー的存在として期待され、認められていた。
だからこそ「鬼」である鬼一法眼や弁慶、その他の人物たちから過分と思われるほどの助力を得て、歴史の表舞台の主役として躍り出ることが出来たのではないか。
というのがワタシの、ある意味トンデモ的(笑)ともいえる説です。
次回は「鬼」としての弁慶のことなども押さえつつ、「義経=鬼」のハナシをもう少し広げていけたらと思います。