古代史は小説より奇なり

林業家kagenogoriが古代の謎を探求する

史上最悪のパンデミック ~ 中世ヨーロッパのペスト禍の場合

 桜が見事に満開です。

 なのに花見に行くことも出来ない。

 行く気もしない。

 

 いま世界中が大変なことになっている。

 そして日本も。

 

 大好きだった志村けんが死んでしまった。

 梨田さんがおそらく無意識の中、必死で闘っている。頑張っている。

 お二人とも顔を思い出そうとすれば、優しそうな笑顔しか浮かばないような人たち。

 どうしてこんなことに。

 ひと月ほど前までまだ他人事のように感じていた自分が恥ずかしい。

 

 世界中がコロナと闘っている。

 日本の政治家や自治体、企業などは未だに状況を少し甘く見てはいないだろうか?

 この”闘い”はまだまだ続く。

 みな薄々そう思っている。

 まだ始まったばかりかもしれないのだ。

 

 

 世界中を襲っているコロナ禍。

 いわゆるパンデミック(疫病の世界的大流行)状態となっている。

 この日本でも東京を筆頭として感染者の数がじわじわと増え続け、ここにきて加速度がついてきたようにも見える。

 医学がこれだけ発達した現代でも、なかなか終息が見えない怖さ。

 

 パンデミック自体は歴史の中で何度も発生している。

 医学も発達していない過去の時代におけるパンデミックにおいて、人類は何を経験したのか。

 

 

 恐らくもっとも有名なのは、中世ヨーロッパの「ペスト大流行」でしょう。

 発生地の広がりかたにおいても、”被害者”の数においても、そしてその凄惨さにおいても、他のパンデミックとは次元の違う規模でヨーロッパ中を恐怖と狂気に陥れた、それが14世紀のペスト禍です。

 このペスト禍をきっかけの一つとして、比較的静かでのどかだったヨーロッパの「中世」は、”終わり”に向けて大きく動き出すのです。

 つまり”歴史を変えた”のです。

 

 始まりはアジア地域との境界に近い、クリミア半島の南岸でした。

 1346年のことです。

 この時点でのペストは「腺ペスト」でした。

 首・脇下・ももの付け根などのリンパ腺にペスト菌が取りつくのが腺ペスト。

 症状は突然高熱に襲われ、二~三日後には激痛と共にリンパ腺がまたたくまに腫れ上がり、全身の皮膚に膿疱を生じて、意識不明のうちに死にいたるというもの。

 死の直前に皮膚が黒っぽく変色することから黒死病と呼ばれることになります。

 腺ペストを媒介するのはネズミに付くノミですが、人から人へは接触感染」だけです。

 この時の場合は人同士の接触感染以外は、商船や港に巣食うネズミのノミが感染源となったので、致死率は非常に高いものの、感染者はおもに地中海の商人や運輸業などにかぎられていました。

 

 二年後の1348年、じわじわと活動範囲を拡げていたペストが、アルプスを越えてヨーロッパ内部にまで達した時には、腺ペストに加えて「肺ペスト」がいつしか優勢となっていました。

 これがペストの爆発的大流行(パンデミック)の直接的原因となったのです。

 

 「肺ペスト」ペスト菌が肺に取りつくもので、高熱を発して呼吸困難を引き起こし、急速に心臓が衰弱して、早いときは二十四時間以内に死亡するというものです。

 問題なのは肺ペストが、空気感染(飛沫感染するということです。

 つまりインフルエンザや今回のコロナと同じです。

 咳(せき)やくしゃみの飛沫を介して周囲の多数の人にいくらでも伝染するのです。

 その伝染力はとうてい腺ペストの比ではありません。

 インフルエンザやコロナと同じ伝染力を持ち、しかもほぼ100%の死亡率があるのです。

 あっという間にヨーロッパ全域がその猛威にさらされ、王侯貴族だろうが、金持ちだろうが、関係なく、みなバタバタと倒れていきました。

 

 フランスのある村では三か月のうちに人口が半分にまで減ってしまうといったことが起こりましたが、それ以上に、特に城壁に囲まれている都市や、修道院のような、”閉ざされた空間”は目も当てられない状況に陥りました。

 そのうちマルセイユのフランチェスコ派の修道士は全滅してしまったといいます。

 

 夥しい数の人々が毎日死んでいって墓地だけでは埋葬しきれなくなり、ばかでかい濠を掘って、何百という新しく到着した死体を入れ、それを幾段にも重ねて一段ごとに薄く土をかぶせていくのですが、その濠もすぐに一杯になってしまう‥‥ということがヨーロッパ中のあちこちでおこりました。

 

 このペスト禍は十四世紀中何波かヨーロッパを襲い、全ヨーロッパ人口の三分の一以上、一説では三分の二二千五百万から三千万人近い死者が出たといいます。

 またイタリア全土では全人口の半分、一説には70%以上が十四世紀だけで死亡。

 同じくイングランドでは、一説では全人口の9割が死亡したともいいます。

 それが本当なら10人のうち生き残るのは一人だけ、ということになります。

 

 当時は実はイギリスフランス百年戦争(1337~1453)の真っ最中でしたが、さしもの百年戦争もペストが猛威を振るっている時期は、しばらく中断せざるを得ませんでした。

 

 科学的精神も発達した医学も無かった当時の人々の、ペストに対する恐怖は相当なもので、一種の集団狂気の状態にもしばしば陥りました。

 

 これを神が与えた罰と考えたキリスト教徒の一部は、贖罪のために裸の身体を鞭うつ苦行者の列となって、血を流しながら聖歌を歌い行進するさまがヨーロッパ中で見られました。

 

 またユダヤが井戸や泉に毒を投げ入れたのが原因だという、すべてをユダヤ人のせいにしてしまうデマも広められ、ヨーロッパ中(とくにライン川流域や南フランス)で多数のユダヤ人が”虐殺”されました。

 

kagenogori.hatenablog.jp  

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 ともあれ、現代では想像もつかないほどの人命が失われました。

 このことはペスト禍が終息したあとにも、問題を残しました。

 なかでも大きかったのが、大幅な人口減による「労働力の極端な不足」 です。

 

 農民も多数死んだため、あちこちに主のいなくなった耕作地が広がっていました。

 その中には豊かな生産の見込める農地もあれば、そうでないところもある。

 紆余曲折はあったものの、生き残った農民たちは徐々により条件の良い農地を求めて自由に移動を始めることになりました。

 そこの領主(封建領主)が農民にとって”いい領主”かどうかも重要な条件の一つでした。

 一方、労働力の極端な不足という現実に困窮した封建領主にすれば、とにかく多くの農民たちに住み着いてもらわなければならない。

 好むと好まざるとにかかわらず、ある程度農民への譲歩が必要でした。

 それまで農産物の収穫高に比例して取り立てられた”税”が、生産高にかかわらず”定額”の貨幣を支払えば済む ことになっていきました。

 領主の収入は減り、逆に生産高が上がればその分農民たちの取り分は増えるのです。

 

 同じく労働力が不足した手工業に携わる人たちも、より良い条件を求めて自由な移動を始め、手工業者全体の賃金が大きく引き上げられる ことになっていきました。

 

 このように農民や手工業者といった生産者の地位はどんどん恵まれたものになってゆき、逆に封建領主たちは恒常的な財政難に悩まされることになります。

 

 さらにイギリスフランス間における百年戦争や、その後イギリスで始まった30年にもおよぶ「バラ戦争」(1455~1485)において封建領主たちの受けた直接的被害(多くの戦死とそれによる一家断絶)が追い打ちをかけ、とくにイギリス・フランスにおいて封建領主の地位と権力は大きく低下してゆくことになります。

 変わって大きく権力を増大させたのが各国の国王です。

 

 ヨーロッパ中世の国王封建領主の一般的な関係は「ほぼ対等」で、多分に契約的な関係でした。

 封建領主が”主君”である国王との関係が気に入らなければ、その関係を破棄して他の主君に乗りかえることも自由ならば、複数の主君(!)と契約を結ぶことも半ば当たり前でした。

 外国の国王と臣従関係を結ぶことも珍しくなかったのです。

 なぜなら当時のヨーロッパの封建領主のみならず、一般の庶民でさえ、 「ヨーロッパ意識」はあっても、 「国家意識」というのは非常に希薄だったからです。

 そもそも中世当初の国王は封建領主たちによる選挙で選ばれるものだったのです。

 

 しかしペスト禍による人口激減と大きな戦争による、まず地位の上がった庶民の社会意識と社会構造の大きな変化、そして封建領主の相対的地盤沈下*1

 これによりとくにイギリスフランスの国王は封建領主を気にすることなく、手工業者や商人といった都市市民や農民を”直接に”押さえることが可能になり各種の税や貿易関税を独占できるようになったのです。

 両国王の権威と権力は増大する一方でした。

 このことは他のヨーロッパ諸国にも影響を与え、特に三百もの領主国家に分立していたドイツは危機感を覚え、何とか連邦国家の形でまとまろうという機運が強まりました。(成功はしませんでしたが)。

 

 それまで漠然とした「ヨーロッパ意識」ぐらいしかなかったヨーロッパの人々に、それぞれの「国家意識」というものが強烈に表面に意識化され出しました。

 

 一般庶民をはじめとして全体が豊かになり、強力な王を戴き、強烈な「国家意識」を持ち出したヨーロッパ諸国の人々。

 

 彼らがその高まったエネルギーと志向を向けた先が海外でした。

 新興のスペイン・ポルトガルをはじめとして「国家意識」に支えられたヨーロッパ諸国は先を争って海外進出に乗り出しました。

 後々まで続く植民地支配のはじまりであり、 「中世」は完全に終わりを告げた のです。

 

 ただイタリアだけはカヤの外でした。

 中世の「ヨーロッパ意識」の中心だったローマ法皇の存在があだとなり、イタリアの「国家意識」の形成を妨げたのです。

 あいかわらず都市国家間で争い続け、混乱が絶えませんでした。

 そこにつけ込んだのが、フランスをはじめとする「国家意識」を持った外国勢力。

 遠征を繰り返しては、イタリア国内に土足でズカズカと乗り込んで来たのです。

 

 このような状況のなかで、イタリア人の意識も高まりました。

 ただその”手法”が他国とは一味違っていた。

 「イタリアにしかないもの」を過去に求めようとしたのです。

 イタリアの人々はキリスト教以前からあるローマ時代の遺産を、キリスト教とは全く違う角度から文化遺産として見直し、そこから新しいものの見方や文化を造り出そうとし始めたのです。

 ルネッサンスの始まりです。

 

 このように14世紀のペスト禍は、 ヨーロッパの「中世」に幕を引き、「近世」の幕開けを告げる、大きな原因の一つとなりました。

 疫病、そしてパンデミックが「歴史」を動かし、「歴史」を変えたのです。

 もちろん、中世の当時と現代社会とでは、医学も含めた科学技術も、社会構造も、経済規模も、人々の意識(社会意識、宗教意識等)も、まったく異なります。

 同じ「パンデミック」と言っても、同じ経過をたどることは100%ありません。

 

 しかし今回のコロナ過がこのまましばらく続いたとしたら、何らかの「歴史的」変化が起きる可能性はゼロではありません。

  経済恐慌が起きやしないか。

  経済構造の変化が起こるのでは。

  政治構造の変化は?

  国際関係のパワーバランスが崩れるのでは。

  それらをきっかけに戦争が起きないか。

 心配してもキリがありませんが、このような不安を抱く人も多いのではと思います。

 なによりワタシたちが好きな有名人の人たち、ワタシたちの愛する周囲の人々が悲惨な状況に陥るのはもう見たくないし、我慢もできない。

 やはり早急な対策と、それに向かう覚悟が必要なのではないでしょうか。

 国家レベルでも、個人レベルでも。

 

参考文献: 

 

 

ユダヤ人 (講談社現代新書)

ユダヤ人 (講談社現代新書)

  • 作者:上田 和夫
  • 発売日: 1986/11/20
  • メディア: 新書
 

 

*1:封建領主たちはその後、国王のもとで貴族化してゆくことになります