すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(3)シラヤマ信仰と「境の場」
「シラ」の”転換力”が発現する「場」。
それと密接にかかわる白山(シラヤマ)信仰の本質とは。
白山(シラヤマ)信仰。
その総本宮が石川県の加賀地方にあります。
現在は白山市の一部となっている鶴来(ツルギ)町に鎮座する「白山比咩神社」(シラヤマヒメジンジャ)です。
その主祭神は「ククリヒメ」。
菊理媛と書きますが、まあこれは当て字と思っていいでしょう。
神社の名前が”シラヤマヒメ”(白山姫)ですから、「ククリヒメ」こそが”シラヤマヒメ=白山の女神”だとされているわけです。
このククリヒメ、実はほとんどどういう神なのかわかっていない、という”謎の女神”でもあるのです。
なにしろ古代文献に出てくるのは『日本書紀』の「神代巻」のなかでもただの一か所、 「一書(あるふみ)にいわく」として書かれている所だけ。
ここでは「国生み」で有名なイザナギが、死んでしまった妻イザナミに会いたいと思って黄泉の国に行く場面を描いています。
そこで妻との約束を破ってイザナミの醜い腐乱死体を見てしまったイザナギは、怒り狂うイザナミの追っ手から命からがら、”黄泉と現世の境界”である「泉平坂(ヨモツヒラサカ)」(「黄泉平坂」とも)まで逃げおおせます。
この黄泉と現世の「境界」を挟んでかつての夫婦神が対決(というか言い合い)するわけですが、ここでまず「泉守道者(ヨモツモリミチヒト)」という神が出てきます。
この神はイザナギに、黄泉の存在となってしまったイザナミからの伝言を伝えます。
『あなたと共にここを去ることは出来ない。わたしは黄泉にとどまります。』と。
ここでククリヒメが登場するのですが、その「行動」がじつに謎めいているのです。
”菊理媛、また申す事あり”( ”申す事”は原文では「白事」(「白す事」)と書かれています。)
ククリヒメはここでイザナギに対し”何か”を申し上げ、それを聞いたイザナギは”ほめた”といいます。
ククリヒメがした事といえばこれだけ。
登場シーンもこれだけなのです。
ククリヒメが何を申し上げたのかについては諸説ありますが、この後イザナギが川で「禊ぎ(ミソギ)」をして黄泉の国でついた”穢れ(ケガレ)”をキヨメたことから、”禊ぎをすることを勧めた”とするのが一般的です。
このようなつかみどころのない”謎の女神”を、何故シラヤマ信仰では主神としているのか。
それこそがシラヤマ信仰の本質にかかわる重大な問題なのです。
シラヤマ信仰の主神は「ククリヒメ」ですが、崇拝というか信仰の対象となっているのは、その名の通り白い雪を頂いた「白山」です。
白山の色である「白」は、前回述べたように「清浄なるものの象徴」であり、 「死の象徴」であり、それを目にしたときは「自分が死ぬとき、あるいは(死から)再生するとき」であるという、古代の人々にとっては非常に重要な色であり、また恐ろしい色でもありました。
白山の白い雪からは清冽な「水」が生まれ、その地域を潤し、また清めます。
シラヤマ信仰は「水」の信仰でもあります。
その清冽な水は すべての生き物を潤し、育み、豊饒をもたらします。
その清冽な水は、またすべての「ケガレ」をキヨメる力をもっています。
さらにその清冽な水は、 「越(コシ)の変若水(ヲチミズ)」と呼ばれるほど、すべてのものを蘇らせる(黄泉返らせる)、つまり「再生」させる力を持つと信じられていました。
このような力を持つ白山の「水」 。
まさに前回述べた「シラ」そのものです。
白山(シラヤマ)は文字通り「シラの山」なのです。
実際、シラヤマ信仰とは「死と再生」(=「シラ」)の信仰であると考えられています。
一方のククリヒメ。
イザナギに「川で禊ぎをすること」を申し上げた。
この「申し上げた」が実際は「白事」だったことは先述の通りですが、これは「シラコト」とも訓みます。
つまり「シラ」に関する事、すなわち「禊ぎ」を申し上げた。
多少の私見も混じりますが、 「シラ」を司る神として、同じく「シラ」の霊力を持つ白山の神にされたのだと考えられます。
白山比咩神社の片隅に「川濯尊」という神がひっそりと祀られています。
起源がよく分からない神ですが、地元では古くから「カワスソンサマ」として親しまれている神様です。
その名から「禊ぎ」に関わる神であることは容易に推測がつきますが、 「川で濯ぐ(すすぐ)=禊ぎ」という名は、イザナギの川での禊ぎを思い起こさせます。
ククリヒメの「ククリ」も水で禊ぎを行う際の「潜り(クグリ)」だとも考えられています。
このように白山比咩神社とククリヒメは、 「水」を媒体にした「シラ」を介して結びついていますが、さらに重要なことがあります。
それはククリヒメがどこにいたかということです。
ククリヒメは泉守道者とともに、黄泉(あの世)と現世(この世)の「境界」であるヨモツヒラサカにいました。
そもそもイザナギが妻に会いに行っただけとはいえ、黄泉(あの世)=「死の世界」に行ったということは、現世=「生の世界」から見れば一旦死んだと言う事にほかなりません。
そこから死と生の「境界」=「境の場」に戻って来た。
そして禊ぎを行ってようやく落ち着き、生気を取り戻した。
これは「死」から「再生」した、蘇ったということです。
それを手助けしたのが、その「境の場」にいたククリヒメ。
つまり川で禊ぎをして「穢れた身を浄化(キヨメ)」し、「死からの再生」を実現するという、 「シラの転換力」が働いたということです。
そしてその”力”の発動に深くかかわったのは、まぎれもなく「あの世とこの世の境の場」にいたククリヒメ。そして泉守道者。
ククリヒメ、そして泉守道者の男女一対神は、 「シラ」とその「転換力」の発動に深く関わる神だったのです。
そしてその”力”が発動したのは、ヨモツヒラサカという黄泉と現世の「境の場」であり、禊ぎをした「川」でした。
歴史学・民俗学・文化人類学などでは、 「坂」や「川(河原)」は橋・浜辺・村境・道・墓地・辻・神社・寺等々と同様に、神仏やあの世の存在が支配する「境界」の地と考えられています。
境界、「境の場」こそが「シラの転換力」が発動する場だった。
なぜか。
「浄化(キヨメ)」にせよ「再生」にせよ、 ”穢れからの浄化” 、 ”死からの再生” 、つまり全く正反対、対照的な状態への劇的な変化です。
このような変化=転換は、例えば「死からの再生」ならば、「死の世界」の只中では困難であり、また完全な「生の世界」でも難しい。
どちらの状態にでも変化がたやすい「両者の境の世界」だからこそ、「負から正」への劇的な転換が可能なのです。
ただし「境の場」にただ漫然といるだけではだめで、転換する技術を持った存在、いわば転換のための触媒となる存在がいないと、「シラの転換力」は発動しないのです。
その存在こそがククリヒメなのです。
じつはククリヒメの「ククリ」には「(水を)潜る」以外にさらにもう一つ、 「正反対の世界をくくる」「あの世とこの世をくくる」という重要な意味があったのです。
これは逆に、「あの世とこの世の境」にいないと不可能な能力です。
この「ククリ」はあの世(アッチの世界)の存在、すなわち神霊や死者の霊魂とのコミュニケーション(交信)も可能にします。
泉守道者が黄泉の住人となったイザナミの伝言を、「生の世界」に戻ったイザナギに伝えることが出来たのも、まさにこの能力によるものと考えられます。
ククリヒメと泉守道者の能力は、ひとことで言えば「正反対の世界(や正反対の存在)の間に立ってその関係をとりもつ」能力です。
それが「神霊や霊魂との交信」を可能にし、また「死から生への転換」をも可能にするのです。
ククリヒメは「シラの神」なのです。
白山もまた「シラ(死と再生)の山」であり、 「シラの神」であるククリヒメが白山の女神と考えられたのも当然と言えるかもしれません。
ククリヒメを主祭神とする白山比咩神社は、じつは「縁結び」の神社としてむしろ有名です。
これもククリヒメの「正反対の存在の間に立ってその関係をとりもつ」能力の得意とするところであることは、言うまでもありません。
「良縁」を求めている善男善女の方々、金沢観光の折には是非白山比咩神社にまで足を延ばしてみてはいかがでしょうか(笑)。
ククリヒメは優しい神様ですヨ。
それはともかく(笑)、そのようなククリヒメの能力は「境の場」でないと発揮できないはずですが、この女神が祀られる白山比咩神社の鎮座する「場」はどうなのか。
神社だからある程度の「境の場」であることは間違いないのですが、そのぐらいのことでククリヒメの特別な能力が発揮されるものでしょうか。
じつはこの神社が鎮座するのは、大げさに言えば「大いなる境の場」 (やっぱり大げさデスネ.笑)とも言うべき場所だったのです。
次回はそのあたりを。
参考文献:
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(2)「シラ」の謎
白山はもともと「ハクサン」ではなく、「シラヤマ」といいました。
「シラ」の山です。
この「シラ」には、「(雪を頂いて)白い」という意味以上に、日本人の民俗・宗教・文化の根源にかかわる深い意味があるのです。
そもそも太古からの日本列島の人々にとって、「白」色とはどのような意味を持っていたのでしょうか。
前田速夫氏の『白の民俗学へ』によれば「白」とは、
- 清浄なるものの象徴であると同時に、魔と死の象徴であり、
- それは色であって色ではなく、(まばゆい)「光」そのものである。
- 人がそれを目にするときは、自分が死ぬとき、あるいは「(死から)再生」するとき
だといいます。(『白の民俗学へ』p269より)
この「白」色の持つ本質的な意味が、実は「シラ」の本質とも密接に関わっているのです。
だからこそ太古の人びとは「白」色を、「シロ」「シラ」と呼んだのだと考えられます。
その「シラ」の概念・信仰は、沖縄の島々から対馬暖流に乗って太古に伝わって来た、と前回では述べました。
沖縄。
まさに沖縄を含む南西諸島には、古くからの「シラ」という言葉が近代にまで残っていたのです。
沖縄の「シラ」に最初に注目したのが、柳田国男です。
詳細は省きますが、柳田国男は沖縄に残る「シラ」を、「産屋」そして「稲積・稲霊」のことだと考えました。
「産屋」は昔、妊娠した女性が出産するときに籠もった小屋。
「稲積」は収穫した稲束を積んで保存したもの、「稲霊(イナダマ)」は稲のモミに宿る穀霊、つまり稲の魂・精霊のようなもので穀物としての稲の成長を促すもの。
この場合「稲積」は「稲霊」を育むための「産屋」だと考えられます。
また柳田は「原初のシラヤマ信仰」=「シラの信仰」を残すと考えられる、三河の「花祭」における「シラヤマ」にも注目しました。
この「シラヤマ」は、祭りの中で「ウマレキヨマリ」の場として機能しているもの。
これら沖縄と三河の「シラ・シラヤマ」の根底に共通する概念、すなわち「誕生・再生」こそが「シラ」の原義だと、柳田国男は考えたわけです。
柳田が示した「シラ」に対するこの解釈は現在においても概ね受け継がれ、とりわけ「再生」という概念は、日本の古層の文化・信仰儀礼を論じる上での最重要キーワードの一つと考えられています。
「再生」というのは「死後の再生」です。
「シラ」=「死後の再生」の”力”は新たな命の「誕生」につながり、さらに蛇や昆虫が「脱皮」するように生きている間の「生命力の更新」にもつながります。
太古の人びとは、すべての生き物(人間・動物・植物)には魂(=霊)が宿っており、それが生命力の源にもなっていると考えました。
その魂(霊)は生き物に宿っている間でも決して不変の状態でいられるわけではなく、たとえ年齢が若くても時がたつにつれて老朽化して弱っていきます。
例えば「稲霊」の場合は、秋の収穫を終えたときがそれ。
そのまま放っておけば来年の実りはおぼつかないものとなる。
老朽化し弱ってしまった「稲霊」を、また力強いものに蘇らせなければならない。
そこで人間の女性が身ごもった時に「産屋」に籠もるのと同じように、次代に引き継がれる魂(稲霊)を「再生」(誕生)させなけれればならない。
「稲積」はそのための「産屋」、すなわち「シラ」だったのです。
このように「再生」の概念は、人間の誕生、さらには作物や狩猟採集物の「豊饒」にも直結するため、非常に古くから信仰儀礼の対象とされてきました。
人間の場合は誕生の時だけではなく、(蛇や昆虫が何度も「脱皮」するように)何年かに一度定期的に、「魂=霊力=生命力」の更新(すなわち再生)をはかる必要がありました。(その場合、多くは一度儀礼的に「疑似的な死」を通過したあとで「再生」という形をとります。)
そのように、豊饒や人間の誕生、生命力の更新を可能にするのが「シラ」の不思議な”力”だと考えられたのです。
こうしてみると、「シラ」は「産屋・稲積・稲霊」であり、そのもともとの意味は「誕生・再生」だと最初に書きましたが、それさえも元々の本来の「シラ」から派生したものであり、「誕生・再生」も「シラ」の持つ”力”のひとつの側面だと考えた方が良さそうに思えます。
このような偉大な力を持つ「シラ」とは何なのか。
何故そのような”力”を持つのか。
中沢新一氏は、「シラ」とは強力な浄化力で人にウマレキヨマリ(=生命力の更新)をもたらすことのできる自然の威力(=マナ)と密接に関わると指摘しました。
また前出の前田氏なども、「シラ」は自然のあらゆる力であり、あらゆる生命に宿り、それを支えている「大自然の大いなる精霊」であるとしています。
そしてこの「シラ」は「白」に象徴される「まばゆい光」や、あるいは嵐・雪・雨・海などの「大自然の猛威」として顕現することがあるといいます。
このように、どうやら「シラ」というのは「大自然の大いなる力・精霊」だと分かってきました。
これがなぜ再生・ウマレキヨマリ(生命力の更新)を実現することができるのか。
中沢氏はこれを「シラ」の持つ強力な浄化力だと言っていましたが、実は「シラ」にはその浄化力の根源ともなるある特長的な力がそなわっていたのです。
それは「転換力」です。
「シラ」には空間を「転換」させる力・エネルギーが秘められている。
この「転換力」こそが、不浄なものの状態を浄める(キヨメル)浄化力のもととなり、また、(「死」の状態から転換して)誕生・再生を実現し、(弱った状態を転換して)生命力の更新を実現するおおもとの力なのです。
つまり「白」に象徴される「まばゆい光」や大自然の猛威として顕現する「大自然の大いなる力・精霊」であり、その特有の力である「転換力」を以てものを浄化(キヨメ)し、誕生・再生さらに生命力の更新を実現し、農作物や狩猟採集物の豊饒をも約束する。
それが「シラ」なのです。
ところが、です。
この重要な力である「転換力」は、たとえ「シラ」といえども「ある場所」でしか発現できません。
場所というより「場」と言った方がより正確かもしれません。
その「場」は、 「シラ」と深くかかわる、というより「シラ」の信仰ともいえる「白山(シラヤマ)信仰」の本質とも密接に関連しているものです。
次回は「シラ」の転換力が発現する「場」とは何か、それと密接にかかわる「シラヤマ信仰」の本質とはなにか、について見ていきます。
「麒麟がくる」の時代 ~ 本能寺の変の黒幕は?
ナカナカ期待を抱かせてくれる初回でした。
というわけで今回は「すべては沖縄から始まった」はお休みにします。
コッチの話題を早めに言っておきたいので(笑)。
とは言え仮定に仮定を重ねたハナシですので、歴史のオモシロ話として眉にツバしながら(笑)読んでいただければと思いマス。
ほぼ丸腰に近い織田信長を大軍で襲って自害させた犯人とされてます。
本能寺の変といえば「信長の遺体が見つかっていない」などツッコムべき謎も多く、昔から諸説紛々なわけですが、今回はその事件の「黒幕」について一言。
以前からワタシがギモンに思っていたのが、その直前のある事件。
光秀が主君信長から安土城での徳川家康の饗応役を命ぜられ、そこで腐った魚を出してしまって信長の激怒を買い、その役を降ろされてしまった、というアレです。
信長から罵倒され、足蹴にされる「あわれな光秀」がよくドラマなどで描写されてますね。
ここでフツーに疑問に思うのは、
本当にそのような場で「腐った魚」を料理に出してしまったのだろうか、そんなことあり得るのだろうか。
ということです。
信長といえば当時の誰もが認めざるを得ない「KING OF JAPAN」。
当時の庶民レベルでも「腐った魚」が食卓に上るということは無かったでしょう。
ましてや安土城は「日本の王」の居城であり、選りすぐられた最高の食材が集められていたはずです。
しかもそこで饗応されるのはその同盟者であり実力ナンバー2の家康。
その役を仰せつかったのは、任された仕事は誰よりも緻密に、抜け目なくキッチリとこなし、いつも期待以上の成果を上げてきた光秀。
そんな光秀がよりによって大事な席で徳川家康に「腐った魚」を出してしまう?
普通に考えればあり得ないことです。
では何故?
そこでワタシが思いだすのは、数十年前(多分中学生だった頃)に読んだ、信長に関する「ある説」です。
それは武田信玄、そして上杉謙信の死は信長の命を受けた者による「毒殺」だった、という説です。
ウロ憶えもいいところで、誰の説だったかも全く憶えていない(笑)のですが、そう考えれば信玄と謙信の「タイミングの良すぎる死」も納得がいきます。
なぜならその直前に信長の軍は、両者それぞれの軍に文字通り「蹴散らされる」ように手痛い敗北を喫して、その脅威にさらされていたからです。*1
「織田信長は毒殺を得意とする特殊工作員を配下に従えていた。」
そう仮定することが出来れば、信玄・謙信の突然の「死」の真相、そして「腐った魚」事件の真相も見えてくるのではないでしょうか。
つまり信長は饗応する名目で家康を誘い出し、毒殺しようとした。
実質的な「王」となった信長にとって、勇猛かつ強固な結束を誇る家臣団を従える家康は、同盟者とはいえすでに目障りな存在になっていたであろうことは容易に想像がつきます。
もしそうだと仮定すれば、この場合光秀はその企みを知っていたのかどうか。
要するに毒殺自体を命じられていたのか、あるいは協力するように命じられていたか。
それとも全くあずかり知らなかったのか。
どちらにせよ家康はこの企みに気付いてしまったのでしょう。あるいは以前から、非情な信長に対しては警戒を怠ってはいなかったのかもしれません。
家康といえばオタクと言えるほど「薬」への執着は強く、自ら調合するほどだったといいます。
薬草や鉱物に対する知識は専門家並みにあったと思われ、当然「薬」とは紙一重の「毒」に関する知識も豊富だったことでしょう。
出された魚料理に家康は、その匂いなのか、色(変色の仕方?)なのか、あるいは毒を混入させた際の「定番のゴマカシ方」なのか、何かの異変にいち早く気付いたのだと思われます。
そしてその料理には全く手を付けようともしなかった。
あるいは露骨に表情に出したのか。
少なくとも自分に対する「信長の殺意」の存在は、仮定レベルから確信へと変わったことでしょう。
そして信長との同盟関係はすでに「絵に描いた餅」になってしまっていることも、また確信したはずです。
信長は一度やると決めたことは必ずやる。
七年にも及ぶ美濃攻めをはじめとして、比叡山焼き討ち、そして本願寺一向門徒や伊賀に対する執拗なまでの攻撃と殲滅。
その恐ろしさを十二分に知悉していた家康は、自分への殺意も決して止むことはないと悟ったことでしょう。
ではどうするのか。
一方の信長もまた、「気付かれてしまった」ことを素早く悟ったのでしょう。
そしてその場をごまかすためか、あるいは気付かれてしまったことに対する怒りなども相まって、必要以上の叱咤、罵倒を周りに見せつけることになったのだと思われます。
激しい叱責を受ける光秀を見て、家康はどう思ったか、どう考えたか。
この理不尽な仕打ちにおさまらないのは光秀。
このままでは、という思いが募っていったことでしょう。
そこへ同じく事態を劇的に打開しなければ未来はないと考えている家康からの密使が。
その後、利害の一致した両者の間で「信長殺害」のシナリオが描かれていった……というのがワタシの拙い説です。
そのように考えれば、本能寺の変のあと、堺にいた家康が奇跡的な脱出行(伊賀越え)を成し遂げられたのも、じつはヤラセだったのでは、などと思えてきます。
問題は、こちらも奇跡の「中国大返し」を成し遂げた秀吉の役回りです。
ワタシの考えは「なんらかの方法で信長殺害計画の情報は得ていたが、そのままワザと見過ごした」です。
そう考えれば、その後の情勢がすんなり理解できるからです。
まずその計画を知った秀吉の頭の中には、天下取りまでの青写真が素早く描かれたのだと思います。
まず、信長を殺させておいて、その後自分がトップに立つために素早く畿内に引き返して「主君殺し」光秀を討つ。
あらかじめ準備が出来ていたからこその「中国大返し」だったのだと思います。
そして清須会議~賤ケ岳の戦いで事実上トップに立った秀吉は、小牧長久手の戦いで徳川家康・織田信雄連合軍と激突~講和。
問題はそのあと。
なぜ家康は秀吉に従ってその配下に入ることを選んだのか。
しかもその時期といえば、関西の秀吉政権が天正の大地震で大打撃を受けた直後です。
秀吉はあくまで実力(=戦)で家康を破るつもりだったと言われます。
しかしその希望も大地震によってもろくも崩れ去ってしまった。
ではどうするか。
ここで秀吉が持ち出したカード(切り札)が、本能寺の変の黒幕が家康だったという「事実」だったのではないか。
それが暴露されてしまえば、家康に対する信頼と求心力は崩壊してしまう。
家康はこの条件を呑まざるを得なかった。
これがワタシのオモシロ説(笑)の結論です。
10人いれば10の説が生まれるであろう、謎だらけの本能寺の変。
『麒麟がくる』ではどのように描かれるのか、今から楽しみです。
そのクライマックスまで気長に待つことにしましょう。
すべては沖縄から始まった~有史前の日本列島に何が起こったか(1)シラヤマ信仰
沖縄(琉球)が太古の日本列島の文化にいかに関わっていたのか、というのがこのシリーズを始めるにあたって前回掲げた命題でした。
太古、とかなりあいまいに言いましたが、とりあえずワタシが問題にしたいのは縄文時代。
少なくとも5000年は遡ります。
まずは沖縄とあまり関係なさそうな「白山信仰」の話から始めましょう。
白山信仰。
日本三霊山のひとつ、「加賀の白山」を信仰対象にした山岳信仰だと言われています。
ところで恐らくアナタは、これを「ハクサンシンコウ」と読んだと思います。
白山=ハクサン。
もちろんそれで正しいのですが、このブログでは少し呼び方にしたいと思いマス。
そもそも「白山」を「ハクサン」と訓むようになったのは近世、江戸時代以降のことだといいます。
ではそれ以前はどう呼んでいたのかといいますと、言うまでも無くそれは「シラヤマ」でした。
平安時代の多くの文人・歌人も「越の白山(こしのしらやま)」について触れています。( 「越(こし)」とは北陸地方の古い呼び方)
白山はもともと「シラヤマ」と呼ばれ、白山信仰はもともと「シラヤマ信仰」といいました。
全国の白山神社の総本宮である白山比咩神社も、「シラヤマヒメ」神社です。
テレビの全国放送などでは「ハクサンヒメ」神社と誤って紹介されることがタマにありますが、ワタシの地元加賀地方ではそのように呼ぶ不届き者(笑)は一人もイマセン。
ここ加賀地方では白山比咩神社のことを、親しみを込めて「しらやまさん」と呼んだりします。
さて、このシラヤマ信仰ですがそのルーツはどこにあるのか。
現在の多くの専門家、識者、歴史家のほぼ一致した意見は、朝鮮半島にルーツを求める、というものです。
たしかに朝鮮半島には、白山(シラヤマ)信仰とよく似た要素がチラホラ見受けられるように思います。
そこでの信仰が白山信仰のモトである、よく似ているではないか、と彼ら専門家、識者、歴史家の方々は主張するのです。
もちろんワタシは朝鮮半島との交流や影響があったことは認めますが、そこが(真の)ルーツなのかという点に関してはギモンを感じずにはいられないのです。
もっとも大きな問題は、朝鮮半島では「白」は「ペク」や「ベク」なのに、なぜ日本列島では「シラ」なのか、ということです。
専門家の方々はこの最も単純で最も重大なギモン=問題に、コチラが満足できる答えをなかなか出してはくれません。
問題は「シラ」なのです。
日本では古来「シラギ」と呼びならわしてきましたが、本来は「シㇽラ」です。
発音的には「シラ」に近いものです。
これが専門家や識者の方々の根拠のひとつにもなっているようですが、ワタシに言わせれば朝鮮半島では「白(ペク・ベク)」と「シラ」は全く乖離してしまっています。
朝鮮半島と日本列島は玄界灘や日本海を挟んで、非常に近い地理的関係にあります。
ワタシが注目するのはその間に流れる「対馬暖流」です。
つまり対馬暖流に乗って朝鮮半島と日本列島に、「シラ」の概念なり信仰が伝わったのではないか。
日本列島では「シラ」という”言葉”と”概念”がそのまま受け入れられ、一方、朝鮮半島では「シラ」の概念的なものは一部受け入れられたが、「白」を意味する「ペク・ベク」の言葉はそのまま残ったのではないか、と。
対馬暖流に乗って伝わってきたのなら、その暖流を遡った先に「シラ」の源流があるはずです。
対馬暖流を遡った先。
そこには沖縄本島を含む沖縄諸島、宮古・石垣・西表を含む先島諸島があります。
そこに「シラヤマ」の「シラ」の源流があるのか。
しかし白山は雪を頂く白い山だからこそ「シラヤマ」と呼ばれたのではないか。
そう疑問を抱かれるはずです。
実は「シラ」には「白」という色の意味以上に、とてつもなく深い意味が隠されていたのです。ちょっとオオゲサですが(笑)。
そしてその「シラ」の隠された意味にこそ、沖縄とのつながりが見えてくるのです。
次回は「シラ」の謎について見ていくことにしましょう。
参考文献:
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
すべては沖縄から始まった~有史前の日本列島で何が起こったか エピソード0
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
さて、昨日一月一日(水)のNHK『ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 新春「沖縄」スペシャル』をご覧になった方も多いと思います。
ワタシにとってはある意味衝撃でした。
何故なら近々このブログでやろうとしていたことをやられてしまったから(笑)。
実はこの『すべては沖縄から始まった~有史前の日本列島で何が起こったか』のシリーズは、もう少し先、ひと月後ぐらいから始めようとノンビリ構えていたのですが。
しかしこの番組の内容からは、とても偶然とは思えない運命(笑)を感じてしまいました。
沖縄の神様から「早くやれ」と言われているようで…(笑)。
というわけで急遽、予定を大幅に繰り上げて今回から始めていきたいと思います。
番組内のブラタモリのテーマは「沖縄の神髄は日の出にあり」。
まずモノレールに乗って「浦添ようどれ」という13世紀の「英祖王」の陵墓へ。
英祖王は「てだこ(てぃだこ)」つまり「太陽の子」と呼ばれ、それは”母親のお腹に「太陽」が入って生まれた”という伝説によると番組内で説明されてました。
つまり「太陽神の子」であると。
この伝説はアメノヒボコの「日光感精説話」と全く同じ*1です。
浦添ようどれでは「暗い門」を通って、「冬至の太陽を拝む場所」に出ます。
そこから冬至の方向に、神の島・久高島が見えます。
つまり冬至の朝、そこで久高島から昇る日の出の太陽を拝むという儀式が行われていた。
そしてその太陽は、夜の間、地下深くの暗いトンネルを通って、朝、久高島から出ると信じられていたのです。
これぞまさに「死と再生」の信仰における「太陽信仰」。
以前当ブログの『秦氏の謎 いつ、どこから来たのか (4) 太陽信仰と長江文明 』でやや詳しく述べた長江文明における太陽信仰と、その「死と再生」の循環の信仰と同じものです。
タモリさん一行はさらに船に乗って久高島へ。
ここではかつて神女たちによって12年に一度おこなわれていた祭り「イザイホー」の行われていた場所を訪れています。
イザイホーという祭りも非常に興味深い点が多々あるのですが、これについての詳しい検証はまたいずれしたいと思います。
番組ではそのイザイホーの祭場に佇む小屋でイラブー(ウミヘビ)の燻製を作っていたことを紹介していました。
イラブーは以前は「ノロ」と呼ばれる高位の巫女しか獲ることが許されていなかった神聖な生き物。
そういえば、遠く離れた出雲でも、初冬の頃浜辺に打ち上げられたウミヘビを「竜宮の使い」として崇め、各神社では「竜蛇さま」と呼んで神前に奉納していたといいます。
出雲大社や佐田神社の「神在祭(かみありまつり)」も、この「竜蛇さま」を神前に奉納してはじめて行われます。*2
なかなか興味深い事実です。
イロイロと面白い事実が昨日の番組では紹介されていましたが、今回は特に検証は行わずこれで終わらせていただきます。
エピソード0なので(笑)。
今後、このシリーズでは太古の沖縄(琉球)が日本列島にいかに関わっていたか、いかに日本列島全体の文化・信仰に影響を与えていたか、についてゆっくりと(笑)述べていきたいと思っておりマス。
秦氏と匹敵する(と個人的には思ってます)謎の古代氏族なんかも登場させる予定でおりマス。
どうぞお見知りおきのほど、よろしくお願いいたします。
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
*1:当ブログ『秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(5) 秦氏と太陽信仰』をご参照下さい
中国ベマ族~長江文明、日本との関係 さらにはユダヤとも?
12月28日(土)にNHKのBSプレミアムで放送された、満島真之介さんをナビゲーターとした『中国秘境 謎の民 ~哀歌 山の民・山の神~』は、また色んな発見をさせてくれた番組でした。
番組の主役は中国の西部、西安(昔の長安)よりもさらに西の甘粛省と四川省の両省にまたがって散在する少数民族「ベマ族」。
自分たちは別の地からこの地に逃れてやって来たという言い伝えを持っています。
番組では四世紀の五胡十六国時代に前秦を建国して中国を統一しようともくろんだ氐族の末裔としていましたが、氐族自体は春秋戦国から漢の時代、三国時代などにもたびたび西方に出現しては、中原を脅かす存在でした。
氐族は一般にはチベット系の民族ではないかと言われる一方、出自のはっきりしない謎の多い民族でもあります。
ベマ族が氐族の末裔なのか、そしてその氐族がチベット系なのかどうかはともかく、ワタシとしては当番組内で紹介されていたベマ族の習俗・文化について、気になる点がいくつもありました。
①山の神が宿る「ツォゲ」と呼ばれる仮面(マージョー)の多くは、目が飛び出ている。
②この仮面を造る職人は、仮面が完成すると「鏡」で「太陽光」を仮面に当てるという行為を儀式的に行う。
③この仮面は祭儀において、災厄退散の目的で複数人が被って行列のように練り歩く。この行列には仮面を被らずに顔面を真っ黒に塗った男たちも参加する。またこの祭りで叩かれる太鼓には太陽の紋様が描かれている。
④ベマ族は男女ともに白い羽を立てて飾った帽子を被る。とくに「ベンブー」と呼ばれるシャーマン(祈祷者)も同じく白い羽を飾った特別仕様の帽子を被る。
⑤この白い羽は、彼らが聖鳥としてシンボル的に大事にする「ニワトリ」にあやかったものである。
⑥「ベンブー」が祈祷を行う際に使われる白い紙で作られた御幣のような造り物は、高知県物部村に残る古神道のひとつ「いざなぎ流」のものと酷似している。
⑦またその祈祷の儀式においては、なんと聖鳥でもある「ニワトリ」を殺し、その「血」で家々の戸口に魔除けの特別な文字を描く。
⑧ベマ族は「イモ」を杵と臼で撞いて「餅」を作る。
⑨ベマ族は自らを「受難の民」だとする言い伝えを持ち、それを歌にして代々伝えてきた。
まず、
①祭儀に使われる目が飛び出た仮面
②その仮面に”鏡”で”太陽光”を当てる
③祭りの太古に太陽の紋様
④白い羽を立てた帽子
⑤白い鳥への信仰
は明らかに以前当ブログで採り上げた長江文明とその太陽信仰における信仰習俗と同じものだと思われます。
とくに④の「羽を立てた帽子」については、それを描いた壁画など(専門家の間で「羽人」と呼ばれる)が長江文明の遺跡や弥生~古墳期の日本の遺跡でも見つかっており、それが現代にまで実際に残されたものではないかと疑われます。
また③についてはユネスコ無形文化遺産にも登録された秋田のナマハゲや能登のアマメハギ、宮古島のパーントゥなど「仮面・仮装の来訪神」の習俗にそっくりです。
「仮面・仮装の来訪神」については、以前当ブログで述べさせていただいた通り(→「ナマハゲ・アマメハギ~来訪神はどこから」)ワタシは「オーストロネシア語族」そしてそのルーツと考えられる「越族」に起源を持ち、それが(恐らく縄文期に)日本列島に伝わったと考えますが、要するに長江文明に由来すると考えられます。
それは⑧にも言えます。
現在のベマ族はジャガイモで餅を作っていましたが、ジャガイモはそもそも海外から伝わったもののはずで、ベマ族が冷涼で乾燥している現在の地に移動してから使うようになったものと思われます。
想像するに、もともとは粘りのある「サトイモ」系のイモで餅をつくっていたのではないでしょうか。
日本でも月見団子のような古い習俗で供えられていたのは、もともと「サトイモ」だったといいます。
現在でもサトイモを月見のときに供えている地方があるとか。
ひょっとすると日本列島でも、もともとサトイモを杵や臼で撞いて「餅」のようにして、月見だけではなく正月などの祝い事の供え物にしていたのかも知れません。
それも稲作が伝わって普及する前から。
サトイモ、そして同じ系列のタロイモ、ヤムイモなどは、古来、(越族をルーツとすると考えられる)オーストロネシア語族の大事な主食でした。
拙著『影の王』でもやや詳しく述べたことですが、ワタシは縄文期にはすでにサトイモ農耕が日本列島に、越族(長江文明)由来の他の文化習俗とともに伝わっていたのではないかと考えています。
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
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つまり縄文にさかのぼる日本列島人とベマ族、そして越族には、非常に古い時代にまで遡る関係性が疑われるのです。
それは⑥(=祈祷にいざなぎ流に酷似する点がある)からも同じことが言えるかもしれません。
さて問題は⑦です。
祈祷の儀式で殺したニワトリの「血」で家々の戸口に魔除けの文字を書く。
これで恐らく誰もが思い浮かべるのが、ユダヤ教の「過越祭」のルーツとなった、モーセの「出エジプト」の際の出来事でしょう。
すなわち『旧約聖書』「出エジプト記」に書かれるのは、神がエジプト中の人や家畜の初子を全て殺すと伝えたとき、神の忠告に従って「家の戸口に子羊の血を塗った」イスラエルの民の家は(神が「過越し」たため)難を逃れた、というものです。
細かい相違点はあるものの、ベマ族の習俗とこれほど似ていると、同じルーツに起源を発するものなのではないかと考えたくなります。
同様の習俗は日本の「蘇民将来」の言い伝えとそれを起源とする魔除けの習俗にも見られます。
ベマ族 - 長江文明(越族) - 日本。
ベマ族 - ユダヤ - 日本。
果たして関係があるのか、無いのか。
それらの共通点、酷似する点などは偶然なのか、否か。
そうなると、最後の⑨が非常に意味深というか、重要なカギを握っているようにも思われます。
ベマ族に代々伝えられてきた歌がこれです。
われらは受難の民
異なる時代に 異なる場所から逃れてきた
この地にめぐり合えたのは 山の神のご加護
東西から集まった兄弟たちよ
山の神に祈りを捧げ
ここに安住の地を築こう
「受難の民」とはいかにもユダヤの民を思わせる言葉ですが、さて?
彼らが逃れてきた「異なる場所」とは中原の地なのか、長江流域なのか、チベットなのか*1、それとも……?
最近ちょっと気になってるノストラダムスの大予言
ずっと気になってた香港情勢ですが、先日(と言っても既にひと月以上経ってますが)の選挙では民主派が雪崩的大勝利。
ヤッタヤッタ、ヨカッタヨカッタと胸をなでおろしたのも束の間。
香港政府はこの結果を「重く受け止める」と(一応)理性的な態度を示したのに対し、親分(?)の北京政府は案の定というか、やはりこの結果をほぼ無視、スルーという大人げない態度。
民主派の”暴徒”が選挙を妨害したとかいうコメントを見るにつけ、寂しいとか哀しいとかいう以前に、自由を求めているだけの民主派の人々の前に立ちはだかっている”巨大な壁・巨大な闇”に不気味な恐ろしさを感じてしまいます。
選挙結果が出た直後に、香港との境界を包囲するかのように中国本土側から多数の機動隊(鎮圧部隊?)が終結したというのも、ただの脅しではないような怖さがあります。
ワタシのようなオッサンがこのような情勢を見て思い起こすのは、天安門事件。
ソ連の縛りから解放された東欧諸国が続々と民主化を果たして世界中が沸き立っていたその年に、中国では民主化を求める若い学生たちが戦車で文字通り”潰されて”いたという「負の歴史」があった。
香港で”自由”を求めて立ち上がった若い人たち。
それに対する北京政府の、不気味な”静かさ”を伴った対応。
なんだか「あの時」に似ているような気がしないでもありません。
香港の人たち、大丈夫でしょうか?
小学生のときから五島勉さんの『ノストラダムスの大予言』の愛読者(笑)だったワタシが、このような香港情勢を見るにつけ、思い出される予言があります。
逃げよ逃げよ すべてのジュネーブから逃げ出せ
黄金のサチュルヌは鉄に変わるだろう
巨大な光の反対のものがすべてを絶滅する
その前に大いなる天はシーニュ(前兆・サイン)を示すだろうけれども
いまだにこの詩をソラで言えてしまう自分(笑)に驚愕しているワタシですが(笑)、それだけ印象が強く謎も深かった予言です。
香港情勢に対する心配と、この詩の不気味さ、怖ろしさがワタシの中で、なにやら妙に結びつこうとしているのでデス。
もっともフランス語に詳しい人たちからは、五島さんの訳に問題があることも指摘されたりしてますが、そのあたりも踏まえてこの予言について見ていきたいと思いマス。
まず1行目。
「すべてのジュネーブ」というのは誤訳で「ジュネーブからみんな(逃げよ)」が正しいという指摘があります。
ただ問題はこの「ジュネーブ」。
スイスのジュネーブに限らず「(ジュネーブのような)水辺の美しい大都市」を象徴する言葉として「ジュネーブ」と書いたのではないかと五島さんは言っていたと思います。
ノストラダムスはこのように実際の固有名詞を、やや暗号的に”象徴的な言葉”にすり替えて用いる、という手法をよくとっていたといいます。
水辺の美しい大都市。
不謹慎ではありますが、ワタシなどはやはり香港を思い浮かべてしまいます。
何故かという理由は二行目。
サチュルヌ。
この言葉を五島さんの本では「農業神」であり「土星」の意味もあると書いてありました。
ここまでは他の人から見ても間違いは無いようです。
ただ五島さんはこの「サチュルヌ」にはもう一つの意味があると書いていました。
中国です。
五島さんによればノストラダムスは詩の中で”国”を表すのに、国名をそのまま書くのではなく、やはり”象徴”で暗に示していたと言います。
例えば日本は「太陽」。
「月」は欧米。
「ライオン」でイギリス。
「金星」もしくは「鷲」でアメリカ、というように。
同様にノストラダムスは「サチュルヌ(=土星)」で「中国」を表したというのです。
現在の中国は前世紀後半までの「農業」国的な色を捨て、アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国として、世界中にその強力な影響力を及ぼしつつあります。
中国の大都市はその繁栄ぶりを誇るかのように超高層ビルを林立させ、不夜城と化しています。
昔のマドンナの名曲に「マテリアル・ガール」というのがありましたが、いまの中国はまさに「モノ(マテリアル)」に溢れ、あくなき欲望でさらなる「モノ」を求める「マテリアル・ランド」と言えるでしょう。
まさに「黄金のサチュルヌ」。
それが「鉄」に変わる。
五島さんは、これは暗く冷たいイメージの軍事大国化、あるいはそれによる軍事制圧のことではないかと言っていたと思います。
まさに現在の中国(サチュルヌ)は「黄金」から「鉄」へ移行する直前なのではないか、などといらぬ心配をしてしまいます。
それはさておき、三行目が五島さんの見解を後押ししているように思います。
「巨大な光の反対のものがすべてを絶滅する」
原文で「巨大な光」に相当するのが「RAYPOZ」。
五島さんはこれを「RAY・POZ」と解釈し、「巨大な光」と訳したようですが、これには批判が多いのも事実のようです。
多くの研究者はこれをアナグラム(字謎)と考え、何らかの人名なり兵器なりを表していると考えているようですが、アナグラムならば「RAY・POZ」でも全然いいのではないかとワタシなどは思うのですが。
POZがポジ(写真のネガ=陰画を再反転させた普通の陽画)を意味するのか、ポジティブ(真っ直ぐ、直線的)を意味するのなら、そのような光線(RAY)の「反対のもの」とは何なのか。
正直分かりません。
ただ何だか非常に不気味な怖ろしさを持つものであることは間違いないように思えます。
そのような意味にせよ、何らかの固有名詞であるにせよ、それが「すべてを絶滅する」のです。
「絶滅」。
五島さんによれば、ノストラダムスは数ある詩の中でもこのような激烈な表現を使うことはめったに無いそうです。
だからこそ彼は一行目で、やはりめったに使わない「逃げよ逃げよ」という表現を使ったのだと思われます。
そして四行目でノストラダムスは、そうなる前に「大いなる天」(空?宇宙?)には何らかの「前兆・サイン」が現れるだろうと教えてくれます。
どうでしょうか?
これを書いているうちにますます香港の人々のこと、そして中国のことが心配になってきました。
もっとも自他ともに認める心配屋(笑)のワタシのこと。
このネガティブな心配が杞憂に終わる可能性は99%ほどでしょう(笑)。
しかしゼロではありません。
そしてもし香港に、そして中国に何かあった場合は、隣国のわたしたちもけっして他人事では済まないことは間違いないのではないでしょうか。
また心配し過ぎ(笑)。