「麒麟がくる」の時代 ~ 本能寺の変の黒幕は?
ナカナカ期待を抱かせてくれる初回でした。
というわけで今回は「すべては沖縄から始まった」はお休みにします。
コッチの話題を早めに言っておきたいので(笑)。
とは言え仮定に仮定を重ねたハナシですので、歴史のオモシロ話として眉にツバしながら(笑)読んでいただければと思いマス。
ほぼ丸腰に近い織田信長を大軍で襲って自害させた犯人とされてます。
本能寺の変といえば「信長の遺体が見つかっていない」などツッコムべき謎も多く、昔から諸説紛々なわけですが、今回はその事件の「黒幕」について一言。
以前からワタシがギモンに思っていたのが、その直前のある事件。
光秀が主君信長から安土城での徳川家康の饗応役を命ぜられ、そこで腐った魚を出してしまって信長の激怒を買い、その役を降ろされてしまった、というアレです。
信長から罵倒され、足蹴にされる「あわれな光秀」がよくドラマなどで描写されてますね。
ここでフツーに疑問に思うのは、
本当にそのような場で「腐った魚」を料理に出してしまったのだろうか、そんなことあり得るのだろうか。
ということです。
信長といえば当時の誰もが認めざるを得ない「KING OF JAPAN」。
当時の庶民レベルでも「腐った魚」が食卓に上るということは無かったでしょう。
ましてや安土城は「日本の王」の居城であり、選りすぐられた最高の食材が集められていたはずです。
しかもそこで饗応されるのはその同盟者であり実力ナンバー2の家康。
その役を仰せつかったのは、任された仕事は誰よりも緻密に、抜け目なくキッチリとこなし、いつも期待以上の成果を上げてきた光秀。
そんな光秀がよりによって大事な席で徳川家康に「腐った魚」を出してしまう?
普通に考えればあり得ないことです。
では何故?
そこでワタシが思いだすのは、数十年前(多分中学生だった頃)に読んだ、信長に関する「ある説」です。
それは武田信玄、そして上杉謙信の死は信長の命を受けた者による「毒殺」だった、という説です。
ウロ憶えもいいところで、誰の説だったかも全く憶えていない(笑)のですが、そう考えれば信玄と謙信の「タイミングの良すぎる死」も納得がいきます。
なぜならその直前に信長の軍は、両者それぞれの軍に文字通り「蹴散らされる」ように手痛い敗北を喫して、その脅威にさらされていたからです。*1
「織田信長は毒殺を得意とする特殊工作員を配下に従えていた。」
そう仮定することが出来れば、信玄・謙信の突然の「死」の真相、そして「腐った魚」事件の真相も見えてくるのではないでしょうか。
つまり信長は饗応する名目で家康を誘い出し、毒殺しようとした。
実質的な「王」となった信長にとって、勇猛かつ強固な結束を誇る家臣団を従える家康は、同盟者とはいえすでに目障りな存在になっていたであろうことは容易に想像がつきます。
もしそうだと仮定すれば、この場合光秀はその企みを知っていたのかどうか。
要するに毒殺自体を命じられていたのか、あるいは協力するように命じられていたか。
それとも全くあずかり知らなかったのか。
どちらにせよ家康はこの企みに気付いてしまったのでしょう。あるいは以前から、非情な信長に対しては警戒を怠ってはいなかったのかもしれません。
家康といえばオタクと言えるほど「薬」への執着は強く、自ら調合するほどだったといいます。
薬草や鉱物に対する知識は専門家並みにあったと思われ、当然「薬」とは紙一重の「毒」に関する知識も豊富だったことでしょう。
出された魚料理に家康は、その匂いなのか、色(変色の仕方?)なのか、あるいは毒を混入させた際の「定番のゴマカシ方」なのか、何かの異変にいち早く気付いたのだと思われます。
そしてその料理には全く手を付けようともしなかった。
あるいは露骨に表情に出したのか。
少なくとも自分に対する「信長の殺意」の存在は、仮定レベルから確信へと変わったことでしょう。
そして信長との同盟関係はすでに「絵に描いた餅」になってしまっていることも、また確信したはずです。
信長は一度やると決めたことは必ずやる。
七年にも及ぶ美濃攻めをはじめとして、比叡山焼き討ち、そして本願寺一向門徒や伊賀に対する執拗なまでの攻撃と殲滅。
その恐ろしさを十二分に知悉していた家康は、自分への殺意も決して止むことはないと悟ったことでしょう。
ではどうするのか。
一方の信長もまた、「気付かれてしまった」ことを素早く悟ったのでしょう。
そしてその場をごまかすためか、あるいは気付かれてしまったことに対する怒りなども相まって、必要以上の叱咤、罵倒を周りに見せつけることになったのだと思われます。
激しい叱責を受ける光秀を見て、家康はどう思ったか、どう考えたか。
この理不尽な仕打ちにおさまらないのは光秀。
このままでは、という思いが募っていったことでしょう。
そこへ同じく事態を劇的に打開しなければ未来はないと考えている家康からの密使が。
その後、利害の一致した両者の間で「信長殺害」のシナリオが描かれていった……というのがワタシの拙い説です。
そのように考えれば、本能寺の変のあと、堺にいた家康が奇跡的な脱出行(伊賀越え)を成し遂げられたのも、じつはヤラセだったのでは、などと思えてきます。
問題は、こちらも奇跡の「中国大返し」を成し遂げた秀吉の役回りです。
ワタシの考えは「なんらかの方法で信長殺害計画の情報は得ていたが、そのままワザと見過ごした」です。
そう考えれば、その後の情勢がすんなり理解できるからです。
まずその計画を知った秀吉の頭の中には、天下取りまでの青写真が素早く描かれたのだと思います。
まず、信長を殺させておいて、その後自分がトップに立つために素早く畿内に引き返して「主君殺し」光秀を討つ。
あらかじめ準備が出来ていたからこその「中国大返し」だったのだと思います。
そして清須会議~賤ケ岳の戦いで事実上トップに立った秀吉は、小牧長久手の戦いで徳川家康・織田信雄連合軍と激突~講和。
問題はそのあと。
なぜ家康は秀吉に従ってその配下に入ることを選んだのか。
しかもその時期といえば、関西の秀吉政権が天正の大地震で大打撃を受けた直後です。
秀吉はあくまで実力(=戦)で家康を破るつもりだったと言われます。
しかしその希望も大地震によってもろくも崩れ去ってしまった。
ではどうするか。
ここで秀吉が持ち出したカード(切り札)が、本能寺の変の黒幕が家康だったという「事実」だったのではないか。
それが暴露されてしまえば、家康に対する信頼と求心力は崩壊してしまう。
家康はこの条件を呑まざるを得なかった。
これがワタシのオモシロ説(笑)の結論です。
10人いれば10の説が生まれるであろう、謎だらけの本能寺の変。
『麒麟がくる』ではどのように描かれるのか、今から楽しみです。
そのクライマックスまで気長に待つことにしましょう。