秦氏の謎 いつ、どこから来たのか (4) 太陽信仰と長江文明
前回、ヒボコと長江文明(越人)の共通する特徴として、「海洋民(航海民)」「太陽信仰」「須恵器とその前身と言われる印紋硬陶」「優れた砂鉄精錬の技術」「水利土木の技術」の5つを上げました。
これらの特長を秦氏について見てみると「海洋民」「水利土木」については、前回までにおおまかに説明しましたが…
- 「須恵器」5世紀初頭ごろ伝わり、当初和泉国の陶邑(すえむら)で生産されたとみられる。三輪山伝説で有名な大田田根子はこの出身で須恵器にも関わったと考えられるが、その一族(大氏、多氏)は秦氏の支族。
- 「砂鉄精錬」水利土木の技術の背景に、優れた「鉄」があったことは前回述べたが、砂鉄精錬技術との実際のかかわりについては大和岩雄氏の『秦氏の研究』『続・秦氏の研究』に詳細に述べられている。(ここでは説明がかなり長くなるので割愛)
と、やはり密接に関わっていると考えられます。
残るひとつ、従来あまり秦氏と結びつけられている印象がない「太陽信仰」についてはどうでしょうか。
まずヒボコについては、現代にまで丹後の籠神社に伝えられている奥津鏡・辺津鏡をもたらしています。
御存知のように(ヒボコがもたらした)当時の「鏡」というのは太陽信仰のシンボルであり、最も重要な祭器であったとされています。
さらに「日矛」「日槍」と書くことからも、アメノヒボコという渡来集団が太陽信仰の民であったことは間違いありません。
太陽信仰を持つ海洋民だったヒボコのルーツは中国大陸でした。
では古代中国において太陽信仰を持っていたのはどこかといえば、それは南方、つまり長江文明をルーツに持つ江南地方の人々でした。
中国はその長い歴史が始まって以来ずっと、黄河を中心とした「北」の畑作牧畜文化と、長江流域以南の「南」の稲作漁撈文化という全く異質の文化が並立するかたちで存在してきました。
諏訪春雄氏や安田喜憲氏によれば、「北」の広大な乾燥地帯(黄土地帯や砂漠地帯)では昼間の太陽は強すぎて生命を奪う危険すらあることから、「北」の文化は太陽を信仰の対象とはせず、乾燥地帯特有の明るく輝く夜空の星に救いを求めて信仰対象とする「天の信仰」でした。
特に北極星は「天の最高神」「天帝」とされ*1、王(皇帝)はその天命により即位し、その王朝が徳を失えば、新たな天命を受けた氏族(姓)により交替する*2という、高度に理論化された政治イデオロギーを含むのが、北の「天の信仰」でした。
逆に「南」とはいっても常に湿度が非常に高く、霧や雲に日光を遮られることの多い長江流域以南では、太陽は温和な存在であり、すべての生命を育む恵みの源泉と考え、信仰の対象としました。
この南の稲作漁撈民の「太陽信仰」では、太陽は天に輝く存在ではなく、「地上の存在」と考えました。
この太陽信仰では太陽は朝、地上で生まれ、「鳥」によって地上から大空へと運び上げられると考えました。そこで彼らは鳥も信仰の対象としました。太陽の中に神鳥としての三本足のカラスがいるというのは長江文明のこの信仰に基づいており、日本のヤタガラスもそのバリエーションです。
鳥によって運ばれた太陽は、その温かい輝きで地上にさまざまな恵みをもたらし、夕方、また地上に降りて「死」を迎えるのです。
夜の間、地下の暗いトンネルのなかを死んだ太陽とともに過ごすのは、そこの住人でもある「蛇」であり、蛇もまた信仰の対象とされました。
翌朝になれば太陽は再び地上に誕生(復活)し、また夕方に死ぬ、という「死と再生」の循環を毎日、永遠に繰り返すのです。
この「死と再生」の永遠に繰り返す循環こそ、稲作漁撈文化の太陽信仰の大きな特徴です。
長江文明由来のこの文化において、太陽信仰とそこから派生した鳥信仰、蛇信仰、そして「死と再生」の信仰は、一つのセットとして考えられるのです。
さて秦氏ですが、この長江文明由来の太陽信仰セット(鳥信仰・蛇信仰・「死と再生」の信仰)とどう関係するのか、それともしないのか。
次回はそのことについて検証したいと思います。
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