12月9日は「山祭り」
今日12月9日、ワタシたち林業関係者は「山祭り」でお休みです。
「山祭り」って何?
正直ワタシも詳しく知っているワケではないのですが(笑)、山の神様に一年間の感謝を捧げ、これ以降春になるまで山に入って仕事はしませんと(神様に)報告するお祭りだと理解しておりマス、おぼろげながら(笑)。
昔は本当にこの日以降、冬の間は山に入っての仕事はしなかったそうです。
そして「春」のはじまりである3月9日にまたお祭りをとり行い、それ以降また冬(12月9日)になるまで山仕事をする、というサイクルだったそうです。
ワタシがまだ新米だった頃の、老師匠に聞いたハナシです。
この「山祭り」という風習(?)が全国的にあるものなのか、それともこの地方特有のものなのかは、よく分かりません。
またいつの頃からの風習なのかも、全く分かりません。
興味深いテーマではあります。
いつか詳細に調べてみたいものデス。
それはともかく、現在では「山祭り以降冬のあいだは山仕事をしない」といったことは全くなく、この日だけ山仕事を休み、翌日からまたフツーに山に入って仕事をします。
何といっても樹木の「伐り旬(きりしゅん)」*1は冬ですので。
それにワタシは、山仕事では冬が一番スキです。
山の中を深い雪をかき分けながらする仕事は、
多分に危険も伴い、また体力もいつも以上に消耗したりもします。
が、やはり冬の山、冬の森は美しい!
それに空気も冷たいけど澄み切っててオイシイし、蚊やブト(ワタシたちの地方ではブヨのことを”ブト”と呼びます)などのイヤな虫もいませんので。
たしかに早春の芽吹く頃から新緑にかけてや、
晩秋の紅葉から落ち葉の時期も美しく楽しいものです。
しかし真冬の一面真っ白の銀世界となった雑木林
で、快晴となった日に葉がすっかり落ちた枝越しに見上げる真っ青な空。
これほど美しいものはないこともまた確かなのデス。
*1:野菜などの作物にもそれぞれの「旬」があるように、木材となる樹木にも”収穫”に適した「旬」があります。一般に、木が水を吸い上げない冬が、樹幹に余分な樹液やヤニが少ない「旬」の時期と言われておりマス。
桃太郎の鬼の正体は?(2)
前回では桃太郎の鬼すなわち温羅(うら)とは、製鉄によって力を築いた吉備の首長であろうということまでは確認しました。
同じく前回ではブラタモリの番組内で言われていた鬼の特徴(吉備津神社に残る古文書による)として、
「頭に角のようなものがある」
「(鬼は)火を口から吐き、近隣の山々を焼く」
というものがあると述べました。
このような特徴を持つ製鉄民。
このブログを読んできた方なら、何となく覚えがあるのではないでしょうか。
頭部に「角」があり、口から火を吐き、優れた鉄製品を産み出す鬼神。
これは中国で言えば「蚩尤」、わが国でいえばまさに「アメノヒボコ」の特徴です。
弥生後期に日本列島を席巻したアメノヒボコが、秦氏の直接の祖先であろうことは、当ブログで繰り返し述べてきたことです。
古事記等の文献に載るアメノヒボコの伝承地は播磨、摂津、近江、若狭、但馬などですが、実は吉備のクニも古文献に載りはしないものの、ヒボコに関係が深い土地なのです。
ここでちょっとブラタモリの内容に戻りましょう。
番組内では、吉備の首長である「鬼」が埋葬されたところとして、弥生後期の墳丘墓である「楯築遺跡」が紹介されていました。
2世紀後半~3世紀前半のものです。
この墳丘墓は番組内でも磯田先生が言われていましたが、(古墳時代の幕開けとともに大和の三輪山麓に出現した)前方後円墳の原型となるものです。
またこの遺跡にあった岩(以前ここにあった楯築神社に代々受け継がれていたとか)に刻まれた「弧紋円」(番組内では「弧文円」と紹介)と呼ばれる紋様は、大和の「纏向石塚古墳」で出た「弧紋円盤」の原型と考えられています。
纏向石塚古墳は、やはり三輪山麓の広大な纏向遺跡群の一つで、最も古いタイプの前方後円墳であり、纏向最古の古墳ではないかとされるものです。
時期は楯築遺跡よりほんの少し時代が下った3世紀前半。
つまり楯築遺跡の墳丘墓の形式と、出土した弧紋円の紋様がともに、三輪山麓の最初期の古墳とその出土物のルーツであるという事実。
このことは吉備と最初期の大和王権である三輪王権、そしてアメノヒボコの関係について、非常に重要なことを示唆していますが、このことを説明しだすと非常に長くなるのでここでは述べません。(ブラタモリでは大和側が単にマネをしたと言ってましたが.笑)
アメノヒボコと三輪王権のただならぬ関係(笑)については、拙著( 『天より降りし者達』(剣崎薫名義)、 『影の王』 (泉雄彦名義) )にてやや詳しく述べていますので、興味があれば是非(笑)。
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話しを戻しましょう。
この吉備の楯築遺跡や前回述べた「鬼ノ城」の近くには、「比売語曾(ひめこそ)神社」が鎮座しています。
「ヒメコソ神社」は西日本各地に鎮座していますが、『古事記』によればもともと当社に祀られていた「アカルヒメ」(のちに何故か「シタテルヒメ」に変更された)は、アメノヒボコの妻です。
そしてさらに重要なことに、吉備の比売語曾神社の鳥居の横には『秦原郷鉄造之発祥之地』と書かれた柱が立っているのです。
「秦原郷」とは、そのすぐ近くに岡山県最古の「秦廃寺跡」があることからも、秦氏の集団が居住もしくは支配していた地域と考えて間違いないでしょう。
そこが「製鉄の発祥地」だというのですから、ただの居住地ではなかったこともまた間違いありません。
また一帯の近くには「生石(いくし)神社」も鎮座している。
「生石」はアメノヒボコの最終鎮座地とされる「出石(いずし)」の転訛とされていますから、やはりこの地域一帯はアメノヒボコの重要な根拠地だった。
というよりアメノヒボコ(集団)がこの地を、当時における製鉄コンビナートとして開発し、豊かな土地にしたとも考えられるのではないでしょうか。
さらにダメ押しで言うならば、吉備は秦氏との密接な関係が指摘されている「和気氏」の根拠地でもあります。
あの「和気清麻呂」を輩出した氏族です。
「ワケ」とは岩石(鉱石)から金属を採り「ワケ」ることを意味し、つまり和気氏も金属民の出身であると考えられています。
和気清麻呂も東大寺の大仏(金属のカタマリですね)の造営に深く関わった人物ですが、その背景には金属民としての大きな働きがあったであろうことが指摘されています。
吉備の東隣の播磨もヒボコの伝承地です。
『播磨国風土記』によれば、もともとここを支配していたアシハラシコオ(出雲のオオクニヌシの別名)とアメノヒボコが、播磨の各地で土地争いをしたという伝承が書かれています。
このアメノヒボコはおそらく吉備から東遷して、播磨にも手を伸ばそうとしていたのでしょう。
ヒボコは連戦連勝を重ね、さらに東遷を続けていきます。
ともあれこの吉備の地でも、アメノヒボコと秦氏が「製鉄」というキーワードとともにつながっている。
そして東遷したヒボコのグループとは別に、豊かな吉備に残ったグループもいた。
そしてのちにやや暴走気味に開発と森林破壊を進めてしまい、「鬼」とされてしまったのが温羅(うら)だったのではないか。
ワタシはそう思うのです。
参考文献:
桃太郎の鬼の正体は?(1)
またしてもブラタモリからのネタ(笑)。
昨日11月30日のブラタモリの舞台は岡山。
ワタシの尊敬する磯田道史先生(ワタシより5歳も年下なんですが.笑)をゲストに迎えて、桃太郎と鬼の正体に迫るというものでした。
番組の結論(的なもの)は、鬼は当時(弥生末期~古墳初期?)の吉備地方を支配していた(おそらく)クニの首長で、朝廷に従わなかったために桃太郎、すなわち大和朝廷から派遣された天皇の子息:吉備津彦に征伐されたのだろうと、まあおおよそこんな話だったと思います。
番組内では具体名は出てこなかったように思いますが、鬼の名前は「温羅(ウラ)」と言います。
番組では鬼(=温羅)が立てこもった「鬼が島」のモデルと考えられてきた山城「鬼ノ城(きのじょう)」も紹介されていました。
この温羅、といいますか温羅の一族が実は、ワタシの大好きな(笑)秦氏に大いに関係しているのではないか、というのが今回のオハナシです。
番組内では吉備津彦を祀る吉備津神社の古文書に書かれている吉備津彦と鬼のハナシを、磯田先生が読み解いていました。
そこで書かれる鬼の特徴として、
「頭に角のようなものがある」
「(鬼は)火を口から吐き、近隣の山々を焼く」
というものがありました。
「角」はともかくとして(後述)、「口から火を吐いて山々を焼く」という伝承については、古代に詳しい方ならピンとくるものがあるかもしれません。
ワタシはこれは間違いなく、「製鉄民」のことを悪玉に仕立て上げる場合に使われる表現だと思います。
製鉄、当時は「たたら製鉄」だと思われますが、それにはとにかく大量の「火」と高温が必要です。
鉄の精錬に十分な高温を得るためには「たたら」と呼ばれる「鞴(ふいご)」で新鮮な空気を常に送り込み、どんどん熱を上げていく必要があります。
「ふいご」で吹かれるたびに、炉から吐き出される炎と火の粉。
まさに「口から火を吐く」ように見えます。
実際、当時の人は(たたら製鉄の様子について)そのような表現をしていたのかも知れません。
そして「焼かれる山々」。
当然ですが鉄の精錬(製鉄)には、大量の木炭、そしてその原料となる大量の木が必要です。
その地で恒常的に製鉄が行われていたとすれば、周辺の山々の森の木々は焼かれるために伐採され、次第にハゲ山になっていったと思われます。
それが「近隣の山々を焼く」という表現になったのかもしれません。
また想像を膨らませれば、ハゲ山の麓で夜通し「たたら」による製鉄を行っていれば、まさに山が燃えるように赤く染まったことでしょう。
それがこの表現につながったのかも知れません。
その地域(クニ)は生産される鉄で豊かになっていったと思われます。
鉄製の農具や土木器具による「農業革命」により生産力も飛躍的に上がったことと思われます。
しかしその負の面も次第に明らかになっていったはずです。
ハゲ山が広がればその麓や下流域の人々は、たびたび襲う水不足や土砂災害に悩まされることは容易に想像がつきます。
また鉄で生産されるのは農具や土木器具のような「平和利用」されるモノだけではありません。
クニの支配者が鉄の生産を握ったとき、必ず作られるのが「鉄製の武器」です。
少なくともヤマトの政権から見れば、非常に危険な存在に映ったことは間違いないでしょう。
ヤマトは温羅の一族を「悪者」に仕立て上げて討伐し、その鉄の生産と豊かな農産を手に入れた、というのが吉備における「桃太郎の鬼退治」の真相だったと考えられます。
ではこの吉備の製鉄民がどう秦氏と結びつくのか。それは次回で。
ナマハゲ・アマメハギ~来訪神はどこから
大変勉強になりました。
ただひとつ気になる点が。
ナマハゲの起源に関する有力な説として、海から男鹿半島に漂着した外国人に土地の人々が遭遇して……といったことを番組では述べていました。
それは良いのですが、番組内の紹介の仕方だと、北方の海、とくにロシア方面から来た外国人という説明になっていたようです。
少なくともそのような印象を与えてしまうような説明でした。
もし本当に番組のスタッフや出演していた地元の専門家の方がそのように考えておられるのだとしたら、「チョット待った」をかけたい。
御存知のようにナマハゲは、能登のアマメハギや甑島のトシドンなどの他の9地域も合わせた10地域の「来訪神」行事として、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。
注目すべきは10地域のうち太平洋側は岩手と宮城の2地域のみで、8地域は沖縄~九州西岸~日本海側、つまり対馬暖流に洗われる地域であることです。
さらに10のうちの半分、5地域が九州・沖縄地方。
これら10地域の来訪神行事は、いずれも共通点が多く、またナマハゲとアマメハギの語源がまったく同じ*1ことなどから、これらの客人神(マロウドガミ)=来訪神は、元々ひとつか近縁の習俗行事を持った人々が、南西諸島から対馬暖流にのって日本海側を北上したことで伝わった可能性が高いと考えられるのです。
もちろん北からの漂着や互いの交流があったことは否定できません。
たとえば歴史家の網野善彦氏は、鎌倉時代の絵に描かれた山賊の一人が「金髪で鼻の高い」人物であることを挙げて、北方世界との交流があったであろうことを指摘しています。
しかしブラタモリの説の紹介の仕方では、単独でどこか(北方)から漂着した印象を与えてしまいかねず、少なくともナマハゲと他の来訪神行事との類縁性等が、まったく無視されてしまっています。
しかし同様の客人神(マロウドガミ)=来訪神行事は、文化遺産登録されたもの以外にもいくつかありますが、いずれも南西諸島(沖縄県)のものです。
つまりこれらが南方から来た類縁性の高いものであることは、ほぼ間違いないと思われます。
ナマハゲをはじめとする仮面の意匠もいかにも南方的で、実際太平洋南方の島嶼部には似たような仮面習俗が散在しています。
太平洋側の2地域も本州最北端の岩手・宮城であることから、太平洋側を北上してきたのではなく、秋田まで北上してきた習俗(人々)が津軽海峡を通って両地域に定着したと考えるほうが自然です。
もし九州から太平洋岸を北上したのなら、中途にある四国・紀伊半島・東海・関東などにも同様の習俗が色濃く残っているはずですから。
また別の面からも、同じような習俗を持った人々(部族・集団)が南方から日本海側を北上した痕跡が認められる、とワタシは考えています。
同じく昨晩のブラタモリでは、魚と味噌を入れた汁に熱した岩石を放り込む地元の豪快な漁師メシをタモリさんが賞味するという一幕がありました。
タモリさんは一口すすって「味噌が甘口ですね」と言い、それが九州人にとっては美味い味だとも言ってました。
つまり、九州の味噌にかなり近いと。
じつは醤油も鹿児島や福岡、そして日本海側の石川県や東北地方などが、甘口であることが知られています。
さらには秋田では魚醤である「しょっつる」が有名ですが、能登にも「いしる・いしり」などと呼ばれる魚醤があります。
魚醤というのも実は南方、すなわち中国江南地方から東南アジアにかけての食文化です。
ワタシが考えているのは、このような来訪神行事を行う文化習俗を持っていた集団と、甘口の味噌・醤油、そして魚醤といった食文化を持っていた集団は全く同じ文化に属する集団(民族・部族)か同系統の集団ではなかったか、ということです。
そしてその集団の対馬暖流に乗っての移動~定着は、(仮面を使った儀礼の太平洋各地における広がりとその古さから)かなり古い時代に始まり、長い時間をかけて何波にも分けて行われたと考えられます。
ちなみにワタシはその最も古い一波は、縄文時代にまで遡ると考えています。
能登半島の先端近く、環状木柱列遺構(ウッドサークル)やイルカの骨の大量出土で知られる真脇遺跡では、縄文後期、おそらく四〇〇〇~三千数百年前の仮面が出土しています。
ヒモ穴があることから実際に顔に被って、マツリや何らかの儀礼を行ったのだろうと目されています。
その表情は「怒り」の表現に満ちています。
縄文の仮面は他にも数例知られていますが、「怒り」の表現は能登・真脇遺跡のこの仮面だけです。
同じく「怒り」の表現に満ちたナマハゲや地元能登のアマメハギのルーツではないか、などと想像してみたくなります。
以上のような食文化も含めた文化習俗を持って対馬暖流に乗って海上を移動し、縄文時代の九州から日本海側にかけて定着した人々。
それこそが、当ブログでたびたび言及しているオーストロネシア語族、そしてそのルーツと考えられる「越族」なのではないか。
それがワタシの考えなのです。
参考文献:
秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(9)接触の可能性Ⅲ 海上ルート②
前回は、「海洋交易民であった秦氏の前身集団が紀元前1500~紀元前500年の間までに、インド洋への入り口となるマラッカ海峡やスンダ海峡にまで達していた可能性がある」ことを確認しました。
つまり紀元前1500年以降にユダヤ人がインド洋を越えてマラッカ海峡のあたりにまで達していれば、秦氏の前身集団との接触が可能となるわけです。
まず問題となるのは、紀元前1500年の時点で紅海やペルシャ湾からアラビア海を経て東南アジアに至る航海ルートが存在したのかどうか、という点です。
航海ルートが無くても東南アジアにまで達する可能性はゼロではないでしょうが、確立した航海路があれば、そこに到達する可能性は非常に高くなることは言うまでもありません。
紀元前3000年ごろ、つまりメソポタミアのシュメール文明が興隆していた時代に、すでにメソポタミアとペルシャ湾岸、イラン高原、さらにその先の中央アジアまでを結ぶ広大な交易路が確立されていたことが分かっています。
シュメールに始まるメソポタミア文明は世界最初の文明ですが、実はその特産物はと言えばせいぜい農産物ぐらいしかないため単独では成立し得ず、遠隔地との交易なくしては成り立たない文明でした。
そのメソポタミアと遠隔地との交易をほぼ全面的に請け負っていたのが、イラン高原に存在した「原エラム文明」です。シュメールとはまったく別の民族だったようです。
原エラム文明は前2600年ごろ、「トランス・エラム文明」へと成長し、さらに交易範囲をアラビア海の東端であるインドにまで広げ、インダス川流域に「インダス文明」、そしてペルシャ湾のアラビア半島側に「ウンム・ン=ナール文明」を建設します。*1
これまでインダス文明は、突然計画的な都市が現れたことで、長い間謎とされてきました。
食糧事情をメソポタミアに握られていたトランス・エラム文明が、豊かな先史農耕文化が広がっていたインダス流域に目を付け、自らの穀倉地帯としてそこに交易都市群を建設したのがインダス文明だったのです。
当然、インダス文明の役割はそれだけにとどまらず、メソポタミアとの交易も盛んにおこなわれます。
またエジプトの王墓から出土するおびただしいラピスラズリ(アフガニスタン産)も、陸路だけでなくインダスから海路でも運ばれていたと考えられています。
この3つの文明は、巨大文明であったメソポタミアに対する東方の物資補給システムを構築して金属や宝石・貴金属、東方の珍しい物資などをもたらした、いわば「交易文明」だったのです。
ちなみにイラン高原の「トランス・エラム文明」、ペルシャ湾岸の「ウンム・ン・=ナール文明」、そして「インダス文明」は、メソポタミアではそれぞれ「アラッタ(国)」、「マガン(国)」、「メルッハ(国)」と呼ばれていました。
それはともかく、このような古い時代から既にメソポタミア(ペルシャ湾)とインドを結ぶ海洋交易路が存在していたのです。
あくまで私見ですが、このような海上交易路は陸上の交易路に比べても、戦争や自然災害の影響が少なく後世にまで残りやすいと思われます。
交易拠点が破壊されたり廃れたりしても、同じ海洋上の別の拠点(港)を利用するか新たに建設すればよいのです。
時代は下って紀元前1300年ごろ、地中海を中心に海上交易をおこなったフェニキア人は、さらに東はアラビア海を越えてインド、南は紅海からエチオピア、北は黒海沿岸にまでその交易範囲を拡げていました。
古代イスラエル王国のソロモン王(前950年の前後)は紅海のアカバ湾に海港を建設し、インドまで往復する海洋交易をおこなったといいます。
しかしソロモンの貿易船団はインドにとどまらず、さらに先のマラッカ海峡にまで達していた可能性があります。
それを示すのがマレー半島に残る伝説です。
日本の出雲神話における「因幡の白兎」説話にそっくりだということで、日ユ同祖論者にもたびたび取り上げられる伝説ですが、マレー半島の伝説では川(あるいは海峡)の向こう岸にまで渡るのにワニを一列に並べて歩いて行こうと考えた鹿が、「”ソロモン王”の命令でお前たちの数を調べなければいけないので、向こう岸まで一列に並びなさい」といってワニたちを並ばせたというものです。
実在の人物の名が伝説として語れられるのは、その人物の名がよほどのインパクトをもってその地に影響をもたらしたか、あるいは高名な人物にあやかりたいと考えた場合だと思われます。
いずれにせよ、(ソロモン自身はこの地にまで来なくても)ソロモン王の名を冠した集団がこの地にやってきて、大きなインパクトをもたらしたのだと考えられます。
しかも出雲神話という日本のなかでも最も古いと思われる神話のなかの説話の原型になったと考えられることから、マレー半島のこの説話の起源が相当に古いことが推測されます。
このようにソロモンの船団がマラッカ海峡のあたりにまで達していた可能性が高いと思われますが、そのことはすでにその航路が存在していたか、ソロモンの命でその航路が新たに開かれて実際に利用されていたことを示しています。
どちらにせよマラッカまでの航路は、ソロモンの時代にはすでに開かれていたと推測できます。
この東西を結ぶ海上交易路はその後も(紆余曲折はあったでしょうが)引き継がれ、ローマ時代にはさらに発展。
(『文明の十字路=中央アジアの歴史』岩村忍(講談社学術文庫)より)
また前回述べるのを忘れていましたが、紀元前2世紀の漢の武帝の時代には中国からもインドまでの航路があり、使節が派遣されたといいます。
以上ここまで述べてきたのはいずれも”公的な”航路です。
海を生活の場とする人々による”私的”な航路は、さらに複雑に綿密に、連綿と存在したものと思われます。
ソロモン王の船団、消えた十部族、そしてローマ時代のディアスポラ(民族離散)の民たち。
いずれの時代も、少なくともマラッカ海峡のあたりまで海路辿り着くには、十分なルートが確立していたものと考えられます。
しかも船(船団)なら部族単位の大人数の人々や大量の荷物を運ぶのも容易です。
他のルート(草原ルート、オアシスルート)の利用もあったにはちがいないと思われますが、大量の荷物を伴った部族単位の集団の移動、そして秦氏の前身集団の特徴をも考え合わせれば、この「海上ルート」こそが、ユダヤ人と秦氏の前身集団が接触するのに、もっとも可能性が高いルートだと思われます。
以上、ここまで3つのルート(草原・オアシス・海上)についてユダヤ人と、長江文明の末裔で交易集団である「秦氏の前身集団」との接触の可能性について検討してきました。
結論としては、
ということになります。
彼らが接触した後、どのような関係になったのか、血縁関係になったのか、それともユダヤ人自身を日本列島にまで連れて来たのか、などの疑問が残るとは思いますが、それはまた別の問題。
久保有政氏をはじめとする研究者の方々の著作にふれて、いろいろ想像を巡らせるのも、また楽しいかと思います。
ワタシの秦氏とユダヤ人の関係についての考察は、とりあえずこれで終了です。
次回からはまた違った”古代史のオモシロ話”をつれづれなるままに語っていきたいと思います。
参考文献:
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秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(8)接触の可能性Ⅲ 海上ルート①
古代ユダヤ人が秦氏(の前身集団)と接触した可能性において、「海上ルート」が最も可能性が高いとワタシが考える理由は何か。
まず何よりも秦氏の前身集団が、優れた航海民であり海洋交易民であったこと。
オリエント世界から東アジアへ移動するには、ルートさえ確立されていれば海路の方が陸路より安全で速い移動が可能であったこと。
海路での移動すなわち航海においては、太平洋や大西洋のような大海原を横断するのならともかく、陸から付かず離れずの「沿岸航海」が可能なインド洋の航海は、当時の陸路での移動よりはよほど安全で速かったと考えられます。
さらに船による移動は、大量の人員、貨物の運搬が可能なこと。
以上おおまかに三つの理由でワタシは、古代においては海上ルートにおける接触の可能性が最も高かったと考えます。
今回はまず秦氏の側、つまり東アジア側からのアプローチの可能性を見てみましょう。
秦氏の前身である交易集団は長江文明において、はるか西域の崑崙山脈で採れる「玉」の交易を担っていたが、同時に優れた航海民であった彼らは「東アジア地中海」を主な活動の場とする「海洋交易民」でもあった、と以前に述べました。
約4200~4000年前、大寒冷期のあおりを受けて長江文明は崩壊します。
長江文明の民・越人の多くはこの時、大量のボートピープルとなって長江河口域から、主に南方に向かって逃れていったと考えられます。
ちょうどその時期あたりから南シナ海やフィリピンの太平洋岸、さらにニューギニアの北の海域の辺り(要するに東南アジア島嶼部海域)に「海のモンゴロイド」、オーストロネシア語族の祖先の集団が色濃く現れるようになります。
この「海のモンゴロイド」=オーストロネシア語族の祖先の集団は、じつはもともとその北の方、台湾や中国江南地方にいた民族集団であったことが、言語学的に推測されています。
この集団の分布範囲は、さらには日本列島(!)にも広がっていました。
4000年前よりも以前に、台湾や江南地方にいた海洋民とは、つまり越人です。長江文明の民です。
同じく日本列島にいたのは縄文人。ワタシ流に言わせてもらえば、航海民越人が日本列島にいわば植民して根付き、縄文人となった人々、ということになります。
彼らが、大寒冷期のあおりを受けて東南アジア島嶼部海域にまで進出した、ということです。
この時期、日本列島は縄文後期に入っていましたが、この縄文後期というのは人口が大幅に減少した時期でもあります。
ひょっとしたら縄文人のなかでも、大陸の越人と連携して南洋へと逃れた集団がいたのかもしれません。
それはともかく「海のモンゴロイド」の一部は、さらにその後メラネシア、ミクロネシアへと進出。
そして”遅くとも”3600年前、ニューギニアあたりの近海に”突然”現れたのが、のちのポリネシア人の祖先となる「ラピタ人」です。
彼らはさらに長い時間をかけてポリネシア各地へと分散し、最終的にハワイ諸島にまで到達します。
また東南アジア島嶼部海域の「海のモンゴロイド」の一部は、やはり長い時間をかけて、紀元前1500年~紀元前500年の間にマラッカ海峡(マレー半島とスマトラ島の間)やスンダ海峡(スマトラ島とジャワ島の間)などを越えてインド洋に進出。
最終的にはマダガスカルに到達し、そこの原住民族となります。
秦氏の前身である交易集団も長江文明崩壊後、勝手知ったる海へ逃れたと思われますが、そこは交易集団。
「東アジア地中海」を中心に、その南方およびに北方の海、さらには中国大陸内陸部まで広がる交易ネットワークを徐々に築いていったであろうことは以前に述べた通りです。
さて彼らの同胞は紀元前1500年~紀元前500年の間にマラッカ・スンダ海峡などを越えてインド洋にまで達していました。
このとき、交易集団だった秦氏の前身集団もかつての同胞たちと同じようにそのあたりにまで活動範囲を拡げていたことは、十分に予測されます。
インド洋にまで行ったかどうかはまた別ですが、交易民としての性格を考えれば、彼らがマラッカ海峡やスンダ海峡のあたりまで手をひろげていてもおかしくはないと考えられます。
秦氏の前身集団は、交易民としてインド洋への入り口であるマラッカ海峡やスンダ海峡のあたりまで活動範囲として拡げていた可能性がある。
今回はこのことをアタマに留めつつ、次回、ユダヤ側からの海路におけるアプローチの可能性について探ってみましょう。
参考文献:
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秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(7)接触の可能性 番外編 アルタイ山脈の金とユダヤ人
今回は「接触の可能性Ⅲ 海上ルート」の予定でしたが、急遽変更して(笑)前回の内容に追記する形とさせていただきます。
理由は先日NHKで放送された「中国秘境 謎の民 木馬 氷上を馳せる」を見たから(笑)。
ご覧になった方も多いと思いますが、実はワタシは録画した一時間半の番組のうち、1時間ほどしかまだ見ていません。
途中でカミサンにチャンネルを変えられてしまったので(笑)。
その時点で分かっている部分だけ(笑)、取り急ぎ報告したいと思います。
番組の舞台はアルタイ山脈南側の中国領。
主役はそこに暮らす突厥(トュルク系)の子孫だという遊牧騎馬民族トゥバ族。
前回の記事ではこのアルタイ山脈を、起源がわからない非常に古くからの金鉱で、紀元前10世紀のソロモン王の黄金もそこから得ていたのではないかと推測しました。
番組では”アルタイ”を「金とともにある」という意味だと紹介し、トゥバ族が古くから黄金の東西交易に関わっていたのではないかとしていました。
現在でも川底に多数の砂金がキラキラと煌めいている映像は衝撃的でもありました。
トゥバ族は中国の古い史書にも「木馬で氷上を馳せる」と記述されていますが、”木馬”とはなんと松材で作ったスキーのこと。
彼らは冬には現在でも、中国の歴史書の記述通りの方法で、雪に覆われた草原を手作りのスキーで駆け抜けます。
広大な白銀の平原を集団で颯爽と滑走する映像は、実に壮観でした。
付近の洞窟で発見された壁画には、スキーを履いた人々がしっかりと描かれています。
なんと一万年前の壁画です。
アルタイ山脈の金鉱の起源は定かではありませんが、現在でさえ川底にはっきりと煌めく砂金が見えるのであれば、当初はそれこそ山麓に流れる川は「黄金の川」だったに違いありません。
しかもそこには一万年も前から、冬でもスキーを履いて活動する人々がいた。
その人々が川底の大量の砂金に気付かなかったとは思えません。
金鉱としての起源もひょっとしたらその辺りまで遡れるのかもしれません。
前回述べた通り、アッシリアが「中央アジア北部の金」(アルタイはまさに中央アジアの東北の端)を得るために「黄金の道」を整備していたように、知恵者で知られるソロモン王もその情報は手にしていたに違いありません。
ユダヤ人が中央アジアに進出したのは、まさにソロモン王の時代が最初だったのではないかとワタシは考えています。
オリエント世界から中央アジア北部のアルタイ山脈を目指す中途に「キルギス」があります。
以前紹介した久保有政氏によれば、キルギス族には「自分たちの祖先は古代イスラエル人だ」という伝説があるそうです。
彼らには古くから『マナス叙事詩』というものが伝わっており、そこに書かれるキルギス族の由来譚は旧約聖書の記述と酷似する内容があるとか。
「マナス」も”失われた十部族”のうちの「マナセ族」のことだと久保氏は主張しています。
だとすれば、遅くとも十部族が消えた頃、紀元前8~7世紀のころには既に、ユダヤ人たちは中央アジアに根付いていたことになります。
そういえばと思って地図を確認しますと、現在のキルギス共和国とアルタイ山脈のあいだにあるジュンガル盆地には「マナス川」と「マナス」の街があります。
ちなみに、さらにそのジュンガル盆地とキルギスのあいだ、天山北路にある「イーニン(伊寧)」は「クルジャ」ともいい、唐の史書に書かれる「弓月城」ではないかと推測されています。
秦氏=ユダヤ人説の論者はこの「弓月城」を、秦氏の祖と『日本書紀』が書く「弓月君」と関連づけていますが、ワタシはこれにはかなり懐疑的です。
それよりもワタシが気になっているのは「エフタル」です。
5~6世紀にかけて中央アジア~インドに帝国を築いた部族です。
時代的にみれば秦氏とは直接の関係はないように思えますが、5~6世紀というのはこの部族が強勢を誇った時期であり、それ以前から中央アジアに割拠していたことは間違いないでしょう。
『文明の十字路=中央アジアの歴史』岩村忍(講談社学術文庫)より
問題は、中国の史書がこのエフタルを「嚈噠」と記述していることです。
日本語では「えんたつ」「ようたつ」と訓むようですが、中国語では「yanda」と訓むようです。
この「嚈噠」と古代中国人に書かせた、もともとの発音はなんだったのか。
ユダヤ人あるいはユダ族を「イェフダ」といい、秦氏=ユダヤ人論者はそれが秦氏の「ハタ・ハダ」になったのだと主張しているようですが、それはともかく、ワタシは「嚈噠」も「イェフダ」だった可能性もあるのではないかと(半信半疑ながらも)考えています。
エフタルの起源は中国の史書では「金山(アルタイ山脈)から南下してきた」とされ、他方、西方の史料ではバダクシャン(「バダフシャン」ともいい、パミールとヒンズークシの間の地方)としており、双方で異なっています。
しかし「金山(アルタイ山脈)」とかかわりがあると認識されていたからこそ、中国でそのように書かれた可能性もあり、だとすればアルタイの黄金と関わっていたユダヤ人(イェフダ)の交易民の末裔だったのではないかと、ワタシは想像の翼をかなり拡げて(笑)考えています。
12世紀に広く東方を旅行したユダヤ教の僧(ラビ)「トゥデーラのベンジャミン」の紀行によれば、その頃の中央アジアには多くのユダヤ商人が活躍しており、サマルカンドやブハラといった大都市にもユダヤ人社会があったといいます。
その起源は定かではありませんが、もしかしたらソロモン王の時代以来、アルタイの黄金とそれを介してトゥバ族やキルギス族に関わったユダヤ人たちの末裔なのかもしれませんね。
少なくとも非常に古く(紀元前)から、ユダヤ人が中央アジアに関わっていたことは間違いないように思えます。
参考文献:
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