秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(9)接触の可能性Ⅲ 海上ルート②
前回は、「海洋交易民であった秦氏の前身集団が紀元前1500~紀元前500年の間までに、インド洋への入り口となるマラッカ海峡やスンダ海峡にまで達していた可能性がある」ことを確認しました。
つまり紀元前1500年以降にユダヤ人がインド洋を越えてマラッカ海峡のあたりにまで達していれば、秦氏の前身集団との接触が可能となるわけです。
まず問題となるのは、紀元前1500年の時点で紅海やペルシャ湾からアラビア海を経て東南アジアに至る航海ルートが存在したのかどうか、という点です。
航海ルートが無くても東南アジアにまで達する可能性はゼロではないでしょうが、確立した航海路があれば、そこに到達する可能性は非常に高くなることは言うまでもありません。
紀元前3000年ごろ、つまりメソポタミアのシュメール文明が興隆していた時代に、すでにメソポタミアとペルシャ湾岸、イラン高原、さらにその先の中央アジアまでを結ぶ広大な交易路が確立されていたことが分かっています。
シュメールに始まるメソポタミア文明は世界最初の文明ですが、実はその特産物はと言えばせいぜい農産物ぐらいしかないため単独では成立し得ず、遠隔地との交易なくしては成り立たない文明でした。
そのメソポタミアと遠隔地との交易をほぼ全面的に請け負っていたのが、イラン高原に存在した「原エラム文明」です。シュメールとはまったく別の民族だったようです。
原エラム文明は前2600年ごろ、「トランス・エラム文明」へと成長し、さらに交易範囲をアラビア海の東端であるインドにまで広げ、インダス川流域に「インダス文明」、そしてペルシャ湾のアラビア半島側に「ウンム・ン=ナール文明」を建設します。*1
これまでインダス文明は、突然計画的な都市が現れたことで、長い間謎とされてきました。
食糧事情をメソポタミアに握られていたトランス・エラム文明が、豊かな先史農耕文化が広がっていたインダス流域に目を付け、自らの穀倉地帯としてそこに交易都市群を建設したのがインダス文明だったのです。
当然、インダス文明の役割はそれだけにとどまらず、メソポタミアとの交易も盛んにおこなわれます。
またエジプトの王墓から出土するおびただしいラピスラズリ(アフガニスタン産)も、陸路だけでなくインダスから海路でも運ばれていたと考えられています。
この3つの文明は、巨大文明であったメソポタミアに対する東方の物資補給システムを構築して金属や宝石・貴金属、東方の珍しい物資などをもたらした、いわば「交易文明」だったのです。
ちなみにイラン高原の「トランス・エラム文明」、ペルシャ湾岸の「ウンム・ン・=ナール文明」、そして「インダス文明」は、メソポタミアではそれぞれ「アラッタ(国)」、「マガン(国)」、「メルッハ(国)」と呼ばれていました。
それはともかく、このような古い時代から既にメソポタミア(ペルシャ湾)とインドを結ぶ海洋交易路が存在していたのです。
あくまで私見ですが、このような海上交易路は陸上の交易路に比べても、戦争や自然災害の影響が少なく後世にまで残りやすいと思われます。
交易拠点が破壊されたり廃れたりしても、同じ海洋上の別の拠点(港)を利用するか新たに建設すればよいのです。
時代は下って紀元前1300年ごろ、地中海を中心に海上交易をおこなったフェニキア人は、さらに東はアラビア海を越えてインド、南は紅海からエチオピア、北は黒海沿岸にまでその交易範囲を拡げていました。
古代イスラエル王国のソロモン王(前950年の前後)は紅海のアカバ湾に海港を建設し、インドまで往復する海洋交易をおこなったといいます。
しかしソロモンの貿易船団はインドにとどまらず、さらに先のマラッカ海峡にまで達していた可能性があります。
それを示すのがマレー半島に残る伝説です。
日本の出雲神話における「因幡の白兎」説話にそっくりだということで、日ユ同祖論者にもたびたび取り上げられる伝説ですが、マレー半島の伝説では川(あるいは海峡)の向こう岸にまで渡るのにワニを一列に並べて歩いて行こうと考えた鹿が、「”ソロモン王”の命令でお前たちの数を調べなければいけないので、向こう岸まで一列に並びなさい」といってワニたちを並ばせたというものです。
実在の人物の名が伝説として語れられるのは、その人物の名がよほどのインパクトをもってその地に影響をもたらしたか、あるいは高名な人物にあやかりたいと考えた場合だと思われます。
いずれにせよ、(ソロモン自身はこの地にまで来なくても)ソロモン王の名を冠した集団がこの地にやってきて、大きなインパクトをもたらしたのだと考えられます。
しかも出雲神話という日本のなかでも最も古いと思われる神話のなかの説話の原型になったと考えられることから、マレー半島のこの説話の起源が相当に古いことが推測されます。
このようにソロモンの船団がマラッカ海峡のあたりにまで達していた可能性が高いと思われますが、そのことはすでにその航路が存在していたか、ソロモンの命でその航路が新たに開かれて実際に利用されていたことを示しています。
どちらにせよマラッカまでの航路は、ソロモンの時代にはすでに開かれていたと推測できます。
この東西を結ぶ海上交易路はその後も(紆余曲折はあったでしょうが)引き継がれ、ローマ時代にはさらに発展。
(『文明の十字路=中央アジアの歴史』岩村忍(講談社学術文庫)より)
また前回述べるのを忘れていましたが、紀元前2世紀の漢の武帝の時代には中国からもインドまでの航路があり、使節が派遣されたといいます。
以上ここまで述べてきたのはいずれも”公的な”航路です。
海を生活の場とする人々による”私的”な航路は、さらに複雑に綿密に、連綿と存在したものと思われます。
ソロモン王の船団、消えた十部族、そしてローマ時代のディアスポラ(民族離散)の民たち。
いずれの時代も、少なくともマラッカ海峡のあたりまで海路辿り着くには、十分なルートが確立していたものと考えられます。
しかも船(船団)なら部族単位の大人数の人々や大量の荷物を運ぶのも容易です。
他のルート(草原ルート、オアシスルート)の利用もあったにはちがいないと思われますが、大量の荷物を伴った部族単位の集団の移動、そして秦氏の前身集団の特徴をも考え合わせれば、この「海上ルート」こそが、ユダヤ人と秦氏の前身集団が接触するのに、もっとも可能性が高いルートだと思われます。
以上、ここまで3つのルート(草原・オアシス・海上)についてユダヤ人と、長江文明の末裔で交易集団である「秦氏の前身集団」との接触の可能性について検討してきました。
結論としては、
ということになります。
彼らが接触した後、どのような関係になったのか、血縁関係になったのか、それともユダヤ人自身を日本列島にまで連れて来たのか、などの疑問が残るとは思いますが、それはまた別の問題。
久保有政氏をはじめとする研究者の方々の著作にふれて、いろいろ想像を巡らせるのも、また楽しいかと思います。
ワタシの秦氏とユダヤ人の関係についての考察は、とりあえずこれで終了です。
次回からはまた違った”古代史のオモシロ話”をつれづれなるままに語っていきたいと思います。
参考文献:
メソポタミアとインダスのあいだ ──知られざる海洋の古代文明 (筑摩選書)
- 作者: 後藤健
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2016/05/27
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る