秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(7) 長江文明と西域
長江文明が西域と関わっていたのかどうか。
長江文明を研究する安田喜憲氏によれば、長江文明の大きな特徴のひとつとして、玉(ぎょく)を愛し、玉にこだわった「玉器文明」であることが挙げられるといいます。
ヒッタイト文明は鉄の文明。
従来から知られる世界の古代文明は、このように金属の利用に特長が見られる、華やかで、かつ、強い文明です。
これらはまた、畑作牧畜民の文明でもあります。
つまり古くから知られるこれら畑作牧畜民による古代文明は、きらびやかな金属の装飾品を「財宝」とし、強力な金属の武器で争い合うことを好む「男性原理」の文明です。*1
これらの文明は、それぞれの文明の内外で互いに征服を繰り返し(それが後世に残りやすい「歴史」を作ることにもなる)、華やかな金属の工芸品や武器はその文明の特長や歴史を分かり易いものにします。
一方、稲作漁撈民による長江文明が重要視したのは、おもに祭器として加工された「玉」だったのです。
長江文明にも金属が無かったわけではありませんが、当初は文明を特徴づけるほど発達しなかったようで金属の武器も無かったと思われます。
このシリーズの当初でアメノヒボコの特長とともに、長江文明の特長として、「優れた鉄製品」ということを挙げましたが、実はこれは独立した文明としての長江文明が崩壊した四〇〇〇年前以降のことなのです。
つまり長江文明の特長というよりはその後裔民族・越人の特長といったほうがいいかもしれません。
先述のように長江文明は異常な寒冷期となった四ニ〇〇~四〇〇〇年前に崩壊します。
その直接の原因は寒冷化による食糧不足のため、北の黄河流域から金属の武器を携えた畑作牧畜民(これが黄河文明の民となる)が侵攻してきたことによります。
それまで長江の中・下流域で比較的(あくまで「比較的」ですが)平和で穏やかな文明を築いてきた長江文明の民は、おそらく東西に分かれて流亡したと考えられます。
西に逃れた人々は、長江上流域で後続的な文明を維持しますが、それはもう玉器よりも金属への強い志向を持った文明でした。
四川省の三星堆遺跡(3700-2900年前)や、その後発展した雲南省の滇文化の遺跡からは玉器よりも青銅器や金器が大量に出土するようになります。
優れた鉄製品はさらに下って春秋戦国時代の楚や呉越のことになります。
話が少しそれてしまいましたが、長江文明は玉を愛した「玉器文明」でした。
ではなぜ長江文明はそれほどまでに「玉」にこだわったのか。
前出の安田氏によれば、それは「玉」が山で産出するものだからで、つまり「玉」は「山」の象徴なのだといいます。
氏によれば稲作漁撈民にとって「天と地の交流と結合」が、豊穣性をもたらす最も大切な事柄で、高くそびえる山はまさに「天と地の架け橋」でした。
その「天と地の架け橋」である「山」を象徴するのが、山中やそこから流れ出る清流で採れる美しい「玉」だったのです。
長江文明の民は「天と地の架け橋」である山を崇拝する山岳信仰の持ち主でした。
山はまた稲作に豊富に必要とされる水の源でもあります。
玉は信仰対象である「山」をぎゅっと凝縮したシンボルであり、山の霊力をも宿すと考えられたのでしょう。
では彼ら長江文明の民(越人)が神聖視したその「玉」は、いったいどの「山」から産出するものだったのでしょうか。
それは長江上流をずっと遡ったさらにその先、なんとタクラマカン砂漠の南に連なる白い山脈、崑崙(コンロン・クンルン)山脈だったのです。
西域も西域。いまは新疆ウイグル自治区となっているその地域は、東アジアというよりもう中央アジア、西域のど真ん中です。
のちのシルクロードにおける「西域南道」となるところでもあります。
さすがの長江もそこまではのびていないので、そこで出た玉が自然に長江流域まで流れ着くことはあり得ません。
人の手で運ばれた。
つまり交易です。それしかありません。
信じ難いことですが、長江文明は発展していた数千年前、すでに長江流域と崑崙山脈北麓には、長江文明の人々が優れた「玉」を得るための「交易ルート」が存在した。
安田氏もそこまでは言及していません。あくまでワタシの私見です。
しかし、長江文明の遺跡から多量に出土する精巧な玉器の存在する理由を鑑みれば、それしか考えられません。
ただ、”交易ルートが存在した”と言っても、そこは険しく困難で、人の生命さえたやすく奪われかねない地域を越えて、はるか遠くまで物資を運んで往き来しなければならないのです。簡単なことではありません。
そのルートを確立するまでも気の遠くなるような時間がかかったでしょうが、それはともかくそのようなルートを往き来して交易するには、それを専門とした集団がいたはずです。
それが長江文明における、秦氏の原型となる集団だったのではないか。ワタシはそう考えるのです。
このシリーズの最初で述べた秦氏の特長は、絹織物業(養蚕~機織)、金属業(採鉱~精錬・加工)、水利土木とともに、「水運・陸運」、「交通拠点の掌握」、「商業(交易)」がありました。
秦氏集団は、この日本列島に来てすぐにこの特徴を発揮したように見えます。
つまり秦氏集団が大陸すなわち長江流域にいたころから既に、これらの特長を持っていたと考えるのが自然です。
長江文明はほぼ確実に、西域との交易ルートを確立していた。
その長江文明出身と考えられる秦氏集団は、「水陸の交通」とそれを利用した「商業交易」を(長江流域にいたころからすでに)得意としていた。
とすれば、長江文明と西域の崑崙山脈北麓との「玉交易」を担っていたのは、のちに秦氏となる集団(の原型)だった。
というよりは、その集団が交易を独占するにつれて、一族としての結束を強めていったであろうことは、想像に難くありません。
崑崙山脈北麓でも特に「玉」を産出する地域があります。
ホタン(ホータン)です。漢字で「和田」と書きます。
のちに秦氏となる集団ゆかりの地としては、偶然とは思えないようなふさわし過ぎる地名(笑)ですが、面白いといえば面白い事実ではあります。
前回述べたように長江文明の太陽信仰が、西域よりもさらに西に割拠していた、のちにペルシャ人・インド人となるアーリア人に伝えられたのだとしたらそれは、(前回述べたような)長江文明崩壊の四〇〇〇年前よりもさらに以前から西域に関わっていた、秦氏の前身となる集団によるものなのかもしれません。
ともあれ今回ここで言えることは、
の二点です。
しかし、ここでまた一つ疑問が出ます。
長江文明の民の大きな特徴は、「優れた航海民(海洋民)である」ことでした。
そのなかでも交易を担い、しかも日本の古語でワタ、古朝鮮語でパタ、つまり「海」の意味をもつ秦氏の前身となる集団が、逆に内陸(西域)方面の交易だけに甘んじていたのでしょうか。
彼らはさらなる活動場所として、長江を下った先にある「海」に目を向けることはなかったのでしょうか。
次回はその辺りのことについて考えたいと思います。
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*1:エーゲ文明についてはその限りではなく、むしろ「女性原理」的な文明だったと思われます。