古代史は小説より奇なり

林業家kagenogoriが古代の謎を探求する

秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(2)接触の可能性~ルート

 長江文明の末裔だった秦氏(の前身となる集団)と、オリエント世界から「東」に向かった(かもしれない)ユダヤ人の「接点」を探るにあたっての、まずは大前提について述べておかなければなりません。

 

 長江文明で交易を担っていたと考えられる秦氏の前身集団は、その長江文明が崩壊した四千年前以降、いったいどこにいたのかということです。

 それは全シリーズの最終回*1でも述べたことでもあります。

 

 すなわち、彼らはあいかわらず交易専門集団として、中国大陸、朝鮮半島、日本列島などに囲まれた「東アジア地中海」(東シナ海日本海)を真の本拠とし、周りの陸地にそれぞれ拠点というかたちで根拠地をいくつも持っていたのではないかということです。

 

 そうやって彼らは交易集団として相変わらず中国文明にも関りを持ち、また朝鮮半島や日本列島にも関りを持っていたと考えられるのです。

 おそらく交易の一環としてかなり内陸まで足を延ばしていた可能性もあります。

 長江文明の時代に、西域崑崙山脈山麓まで足を延ばしていたように。

 

 優れた航海民の末裔でもあった彼らは、おそらくそれだけにはとどまらず、南方の南シナ海やさらに東南アジアにも舳先を向けていたのではないかと考えられます。*2

 

 一方のユダヤのほうですが、彼らも非常に古くから交易で洋の東西を問わず活躍していました。

 なかでも有名なのはソロモン王の時代です。

 

 父ダヴィから統一イスラエル王国の王位を継承したソロモン王は、外国との貿易に力を入れ、大いに自国経済を発展させました。

 このソロモンの時代に、オリエント世界はもとより東は少なくともインド、南はアフリカ、西はおそらくスペインのあたりまで、交易の手を一気に広げたといいます。

 これらの地には恐らく海路、船団を組んで往来したものと推測されます。*3

 陸路では、あるいは北の黒海カスピ海の沿岸、さらにイランの北方、中央アジア西トルキスタン(現在のカザフスタンの一部とウズベキスタントルクメニスタンの一帯)あたりも、その交易範囲に含まれていたかもしれません。*4

 これはソロモンの時代、すなわち紀元前1000年頃には既に、オリエント世界を中心としたユーラシア一帯を網羅する交易路及びに航海路が確立していたことを意味します。このことは後でおいおい説明していくことにします。

 

 このように、イスラエルソロモンの時代を基準にすれば、東アジアの秦氏(の前身集団)とユダヤ人それぞれの交易範囲は、ぎりぎり接触しているかしないかというくらい近接していたと思われます。

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 交易その他による接触の可能性は、さらにその1000年後の民族離散まであったと考えられます。あくまで可能性ですが。

 その1000年の間に、アッシリアに捕囚された十部族が消えてしまったり、何波にもわたるユダヤ民族の他地域への「離散」が起こっているのです。

 そしてしつこいようですが、その間、「東」へのルートは陸路海路いく通りもあったのです。

 

 ユダヤ人の「東」へのルートは、かなり大雑把に分けても、以下の3種類が想定できます。

フォレスト, 山, パノラマ, 風景, 自然, 湖, 空, 青, ビジョン, 雲

キャメル, ワディ ・ ラム, 砂漠, 旅行, ヨルダン, 砂, 中東, 目的地

帆走船, Mastes, リギング, ボート, 帆, 海, 船, ヨット, 古い, 歴史, 背の高い船, 日没

 この3つのルートもそれぞれ幾種類かのルートに分けられます。

 

 次回からは3つのルートそれぞれについて、いくつかの視点から検証していきたいと思います。 

 

参考文献: 

文明の十字路=中央アジアの歴史 (講談社学術文庫)

文明の十字路=中央アジアの歴史 (講談社学術文庫)

 

 

海のシルクロード史―四千年の東西交易 (中公新書)

海のシルクロード史―四千年の東西交易 (中公新書)

 

 

ユダヤ古代誌2 (ちくま学芸文庫)

ユダヤ古代誌2 (ちくま学芸文庫)

 
ユダヤ古代誌3 (ちくま学芸文庫)

ユダヤ古代誌3 (ちくま学芸文庫)

 

 

ユダヤ人 (講談社現代新書)

ユダヤ人 (講談社現代新書)

 

 

大河文明の誕生 (長江文明の探求)

大河文明の誕生 (長江文明の探求)

 

 

 

 

*1:(9)「長江文明と縄文の交易、そして大量移民」

*2:以前にも述べたように四千年前ごろの長江文明の崩壊とほぼ時を同じくして、長江流域・江南地方や台湾のあたりから東南アジア方面に展開(流亡)したラピタがいました。秦氏の前身集団が「その気」になれば東南アジアにまで海路を往来するのは、それほど難しくはなかったでしょう。

*3:地中海方面のタルシシ船団が有名ですが、積み荷にはクジャクも含まれていたといいますからインド~東南アジア方面への船団も存在したと考えられています。それも含めてタルシシ船と呼んだという考え方もあります。

*4:ソロモンはその領土内において、貿易を担う隊商のための交易路と補給基地まで整備したといいます。