秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(6)接触の可能性Ⅱ オアシスルート
オアシスルート、すなわち西方からパミール高原を越えてタリム盆地=タクラマカン砂漠の北及びに南を通って中国大陸に至るルートです。
今回はこのルートによるユダヤ人と秦氏(の前身集団)との接触の可能性について探っていきます。
まず西方からパミール高原を越えるには3通り(北方の草原地帯からのルートは除く)あります。
ひとつはイラン高原から北のソグディアナに出てパミールを越えるルート。
二つ目は、イラン高原から東のバクトリアに入り、パミールを越えるルート。
三つめはは海路からインダス川に入り、上流のあたりでヒンズークシ山脈を越えて一旦、西トルキスタンのバクトリアに出て、パミールを越えるルート。
この西方から中央アジアに至るルートは、パミール高原以東のいわゆる漢帝国によるシルクロードよりも遥かに昔から存在していました。
(ただしパミール以東のタリム盆地にも、当然それよりずっと以前からオアシスが点在し、相互をつなぐルートも当然存在していました。現在分かっている最も古いものは4000年前にもさかのぼります。ワタシは秦氏の前身集団も、その頃からこの地に関わっていたと考えています。)
パミールを越えてカシュガルのあたりで一旦合流したルートは、そこから東へ向けてまた二つに分かれます。
タリム盆地=タクラマカン砂漠の北辺はつまり天山山脈の南側、中国側から見たシルクロードにおいては「天山南路」あるいは「西域北道」と呼ばれた道です。
一方、タリム盆地=タクラマカン砂漠の南辺は崑崙山脈の北側、シルクロードにおいては「西域南道」と呼ばれた道です。
特にこの西域南道は通商路としては最も公的な条件がそろったルートでした。
このオアシスルート、特にタリム盆地に入ってからの西域南道に達することが出来れば、(長江文明の頃から)崑崙の「玉」の交易を担っていたと考えられる「秦氏の前身集団」と接触する可能性は、「草原の道」ルートよりもむしろ高いと言えるでしょう。
今回も「草原ルート」のときと同様に、ユダヤ側の視点から「ソロモン王の時代」、「失われた十部族」、「ローマ時代のディアスポラ(ユダヤ民族離散)」の三つの時期について、それぞれ検証してみましょう。
まずソロモン王の時代。
紀元前10世紀の中頃、前950年の前後数十年間と考えて下さい。
これまで述べてきたようにソロモンはその交易範囲を一気に広げ、東方では少なくともインドまで達し、おそらくは中央アジアの西トルキスタンにまで交易の手を拡げたのではないかと考えられます。
ソロモンと言えば黄金が有名です。
旧約聖書「列王記上」によれば、ソロモン王は紅海の北端にあるアカバ湾のさらに北端に位置するエツヨン・ゲベル港に船団を編成し、その船団は「オフィル」の地で大量の黄金を得て、王のもとに届けたといいます。
この「オフィル」がどこなのかは謎ですが、紅海から南下したアフリカ大陸の何処かではないかとかなり以前からささやかれています。
しかしワタシはこの見方にはかなり疑問を持っています。
当時のアフリカ大陸の状況は全く不明ですが、文明国の住人にとってはあまりにも危険が大きいと思われますし、また近代以降になって怪しいとみなされて調査されたいくつかの金鉱も、その歴史は問題にならないほど新しいものだと判明しているからです。
ではどこか。
ヒントがあります。
当時徐々に強大になりつつあり、のちに帝国となったアッシリアでは、黄金を得るために「中央アジア北部」への交通路*1を開き、これを『黄金の道』と呼んでいたというのです。
中央アジア北部で得られる黄金。
それは中央アジア一帯においては非常に古くから黄金が出る金鉱として知られ、のちのスキタイの黄金もそこで得られていたという「アルタイ山脈」。そこに違いありません。
現在のモンゴル・中国・カザフスタンのほぼ境を成すアルタイ山脈。
その金鉱としての起源はまったく定かではありませんが、「中央アジア北部」の金鉱といえば、アルタイ山脈である可能性が非常に高いといえるでしょう。
ソロモンが黄金を得た「オフィル」の地も、アルタイ山脈一帯だった可能性は、少なくともアフリカのどこかよりは、よほど高いと考えられます。
たださすがのソロモンも、おそらくアッシリアからの陸路だったであろう『黄金の道』をそのまま使ったとは思えません。
使ったとしてもアッシリアに、”よくて没収”だったでしょうから。
だとすれば恐らく使用されたのはインダス川から中央アジアへのルートだったのではないでしょうか。
次回の「海上ルート」の項で詳しく述べますが、オリエント世界とインダス川は、インダス文明発祥の紀元前2600年頃には海洋交易路で結ばれており、インダス川とその河口周辺には交易港が存在しました。
ソロモンがエツヨン・ゲベル港で編成した船団はインダス川に向かい、その港ではるか北方のアルタイ山脈から運ばれてきた黄金を積んで帰還したのではないでしょうか。
この場合、アルタイ山脈・インダス間を往還していたのもイスラエル王国のユダヤ人たちであった可能性は決して低くはないでしょう。
だとすればユダヤ人はソロモンの時代にすでに中央アジアを知り尽くしていた可能性があります。
それも交易がらみであれば、「秦氏の前身集団」との接触の可能性はより高くなると言っていいでしょう。
次に消えた(失われた)十部族について見てみましょう。
ソロモンの統一イスラエル王国が南北に分裂したうちの北イスラエル王国を構成していた十部族は、紀元前722年にアッシリア帝国によって国が滅ぼされ、アッシリアに強制的に移住させられました(アッシリア捕囚)が、その後、”解放された”等の記録が一切無く、その行方が分からなくなったというものです。
その後あたりからアッシリア帝国は、北からキンメリアやスキタイなどの遊牧民の侵入を受けたり、帝国内部の反乱(新バビロニアなど)が繰り返されたりと、大いに国は乱れて弱体化していき、前609年に完全に滅亡してしまいます。
十部族が捕囚を逃れて帝国を脱出するなら、帝国内が乱れて滅亡するまでの、この百年あまりの間に行われた公算が強いと思われます。
そしてユダヤの側に十部族が戻ってきたという記録がない以上、やはり北か東に向かった可能性が高いと言えるでしょう。
北の草原へ向かった場合については「草原ルート」の項ですでに述べました。
東へ向かってオアシスルートに達する場合も、草原ルートの場合と同じくイラン高原のメディア王国を通過する必要があります。
そこからは前述の通り、北のソグディアナ、東のバクトリアどちらにでも出てそこからパミールを越えることができます。
一応念のために付け加えておきますが、ソグディアナ、バクトリアともに記録に出るのは、これよりも百年ほどあとのことですが、もちろんそれは「記録に出ない」というだけのことです。
記録する習慣を持たない遊牧民は、トルキスタンにおける最良のヤイラック(夏の牧草地)で馬の名産地であるその地に、ずっと以前から暮らしていたのです。
話しがそれましたが、さらにイラン高原を通らず、ペルシャ湾から海路インダス川に向かい、その上流からバクトリアに出てパミールを超えるルートも可能でしょう。
イラン高原を通過しない分、このルートの方が幾分ラクで安全かも知れません。
ただ、時は中国の春秋戦国時代。
良くも悪くも波乱の運命が彼らを待っていたでしょうが、それはまた別の話。
最後にローマ時代、紀元1世紀後半あたりのディアスポラ(ユダヤ民族離散)の民について見てみましょう。
これまでと同様にイラン高原を抜けるとすればそこには「安息」として知られるパルティア王国がありました。
そしてそこから北のソグディアナ、東のバクトリアどちらに出ても、さらにそこからパミールに出ても、当時その地域一帯はクシャン(クシャーナ)朝の領土でした。
また海路からインダス川に入ってもそこはクシャン朝の版図でした。
クシャン朝はイラン系遊牧民の大月氏の国で、当時はちょうど仏教保護で有名なカニシカ王が即位していた頃にあたります。
記録にはあまり残ってはいないのですが、当時の中央アジアはクシャン朝の支配下にあって比較的安定していたと考えられます。
また漢帝国によるシルクロードの整備も進んで、東西交易が活発化していました。
比較的ラクで安全に中国(漢帝国)に達することができたと考えられます。
またこの時代は、北方の草原地帯は匈奴が強盛を見た時代でもあります。
当時の草原ルートはその検証の際に”可能”だとしましたが、それよりはオアシスルートの方が、よほど安全だったと考えられます。
以上、ソロモンの時代・十部族・ディアスポラの民についてオアシスルートによる東遷~「秦氏の前身集団」との接触が可能かどうか見てきましたが、どの時代もそれぞれ(問題は全く無いわけではありませんが)可能であるとみて良いでしょう。
しかし、ワタシはさらに高い可能性を持ったルートがあると考えています。
それこそが「海上ルート」です。
つまり航海によって、イスラエル・ユダヤの民が秦氏前身集団と接触した可能性がより高いと思われるのです。
次回はそのあたりを探ってみましょう。
参考文献:
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者: 泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
- この商品を含むブログを見る
メソポタミアとインダスのあいだ: 知られざる海洋の古代文明 (筑摩選書)
- 作者: 後藤健
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2015/12/14
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (2件) を見る