秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(6) 牛祭りとミトラ信仰
広隆寺といえば「牛祭り」。
京都三奇祭のひとつで、もともとは広隆寺の境内社・大酒神社の祭りでした。
祭りの主役は摩多羅神(マタラジン)。
大きな白い面をつけた摩多羅神が牛の背に乗って現れ、境内を巡行したあと、祭文をおかしな抑揚で読み上げ、それを周りの参拝者たちが罵詈雑言を浴びせかけ(笑)、読み終えるとマタラ神と四天王は脱兎のごとく堂内に駆け込んで祭りは終了、となります。
なんとも意味のつかめない奇妙な祭りですが、問題は摩多羅神。
摩多羅神を描いた絵が現在に残っています。
その摩多羅神は上半身柿色・下半身緑色の狩衣を纏っており、左手に鼓をもって右手でまさに打たんとしています。顔には不気味な笑みが浮かんでいます。
左右両脇には二人の童子を従えていますが、彼らの衣装も配色さえ違えど、やはり柿色と緑色の衣装を纏って踊っています。
この柿色と緑色というのは特別な配色で、「異類異形」とも呼ばれた芸能民・宗教民が好んで使った色で、自分たちが「神」に近いことをアピールする色でした。近世の芸能民の代表である歌舞伎の舞台に使われる緞帳も、まさにこの2色が使われていることに気付かれるでしょう。
摩多羅神はこのような色の狩衣を纏い、鼓を手にしている。
まさに芸能の神ですが、実は古代から中世にかけての多くの芸能民が、秦河勝を始祖とする伝承を持っていたのです。
秦河勝こそ摩多羅神だとする説さえありますが、それはともかく、秦氏と摩多羅神の関係が深いということは理解されるのではないでしょうか。
秦氏の氏寺・広隆寺といえば、むしろ有名なのは国宝でもある弥勒菩薩像でしょう。
釈迦の入滅後56億7千万年後に救世主的に現れるという弥勒菩薩。
「ミロク」というのは、梵語(サンスクリット語)の「マイトレーヤ」から変じたとも、またマイトレーヤの元となったペルシャの「ミスラ」(インドでは「ミトラ」)神が後にクシャーナ朝において「ミイロ」となったものがさらに変じたものとも、同じくパルティアで「ミフラク」となったものが変じた、などいくつかの説があります。
このペルシャ・インドが分かれる以前(つまりアーリア人)に起源を発するとされる神ミスラ(ミトラ)は太陽神です。
このミスラ神から変じたミロク仏はインド北方インダス上流域~アフガニスタンの辺りから、シルクロードを経て東アジアに伝えられたとされています。
一方、ローマに伝わったミスラ神はミトラス神となり、ミトラ教という秘教に発展します。
ローマのミトラ教のミトラスもまた太陽神ですが、もう一つの大きな特徴は「牛を屠る神」ということです。いわゆる聖牛供犠ですが、つまり牛を生贄にする「殺牛信仰」でもあったということです。
先日、マンガ家のヤマザキマリさんがナビゲーターを務めたNHKの番組『微笑みの来た道』が放送され、ご覧になった方も多いでしょう。
その番組内でローマ帝国の2世紀時に描かれた太陽神ミスラ(ミトラス)の壁画が紹介されていました。
そこでは、「緑とオレンジ色」の服を身にまとった太陽神ミスラが、「牛」の上にまたがってこれを殺し(「殺牛信仰」)、その血を地に這いつくばる犬と「蛇」が飲んでいるという図です。壁画の上部(空)には「カラス(太陽神鳥)」も描かれています。
どうでしょうか。
このローマの壁画に描かれるミトラ(ミスラ)神は、広隆寺の摩多羅神と驚くほど酷似しています。
実は摩多羅神の「マタラ」はミトラから来ているとも言われます。
「マタラ」の語の起源には諸説ありますが、この酷似性を見せつけられれば、ミトラ(ミスラ)を起源とする考え方は俄然有力になります。
例の牛祭りで摩多羅神を乗せてきた牛も、境内に入ったあとは、祭りの舞台からいつの間にか消えていなくなってしまうことから、元々の古い形態では生贄にされていたのではないかという説があります。すなわち殺牛信仰です。
つまり秦氏の氏寺・広隆寺には、ともにミスラ(ミトラ)を起源とするマタラ神とミロク仏が存在していることになります。
しかも蛇とカラス(太陽神鳥)は、前回述べたように秦氏が信奉したと考えられる長江文明由来の太陽信仰の重要な象徴でもあります。
また前回までに述べてはいなかったことですが、殺牛信仰というのも古代の日本において禁令が出されるほど猖獗を極めた民間信仰儀礼でしたが、これも長江文明にその起源があり、六〇〇〇年前の城頭山遺跡の祭壇跡からその痕跡が見つかっています。
先ほど「ミロク仏はインド北方インダス上流域~アフガニスタンの辺りから、シルクロードを経て東アジアに伝えられたとされている」と述べました。この見方ではマタラ神も同様のルートで伝わったと暗に主張していると思われます。
もし「ミロク・マタラ」がシルクロードから来たのなら、それと深くかかわる秦氏は長江(越人)とは無関係でむしろ西域以西出身なのではないかと思われるかもしれません。
あるいはシルクロードの終着点である中原の地や朝鮮半島の出身ではないのか、と。
実際秦氏は西域以西から朝鮮半島に来たという見方も有力な説のひとつになっています。
しかし待ってください。
上に挙げた秦氏・マタラ神と共通するミスラの特長は、前述のとおり少なくとも六〇〇〇年前にさかのぼる長江文明の信仰の特長でもあり、ペルシャ・インド分裂以前(すなわちアーリア人)のミスラ神は遡っても紀元前二〇〇〇年、つまり四〇〇〇年前です。
つまりこの東西に共通する太陽信仰がどちらかから一方へ伝播したとするならば、当たり前ですが長江からインド北方に伝わった可能性が高いのです。
もちろん一旦マイトレーヤ(ミロク)に変じたものが、シルクロードを伝わって中国や朝鮮半島に伝わったことは否定しませんし、それが飛鳥時代の日本(倭)に伝わったことも否定しません。
しかし、秦氏が前回までに検証した通り長江(越人)の出身であるかぎり、秦氏はずっと以前からその(ミスラ信仰と酷似する)太陽信仰を知っていた、ということなのです。
そもそも摩多羅神のように牛の背に乗って移動するというのは、長江周辺~それ以南の文化習俗です。
秦氏の信仰も長江から伝わった(というより自ら持ち込んだ)とする方が、よほど自然な考え方であることは理解いただけるのではないでしょうか。
と、ここまで秦氏がこの日本の地において見せてきた信仰・祭礼は、長江文明起源の太陽信仰に由来するであろうことを述べてきました。
ではなぜワタシは今回、わざわざ西方のミスラ(ミトラ)神の話を持ち出したのか、不審に思われる方も多いかもしれません。
実はワタシは、秦氏がいわゆる西域・中央アジアにも大いに関係していると考えています。
つまり秦氏は長江流域出身でありながら、西域にも関係している、ということです。
先ほどペルシャ・インド分裂以前のミスラ神は遡っても四〇〇〇年前だと述べました。
実は長江文明が崩壊したのは、異常な寒冷期となった四二〇〇~四〇〇〇年前なのです。
専門家の方々からはこの関係はまったく注目されません(笑)が、ワタシはこの「長江文明崩壊」と「西域の太陽神ミスラ誕生」には大いに関連があるのではないかと考えています。つまり、崩壊に伴って四散した長江文明の民の一部が、西域に逃れたか流れ着いたかして、長江文明の太陽信仰が伝えられたのではないか、と。
ここで歴史に詳しい方なら、こう疑問を投げかけられるでしょう。「西域に通じる道・シルクロードは、長江ではなく黄河の流域から始まるのではなかったか?」と。
確かにいわゆるシルクロードと呼ばれる道は黄河の流域、長安を起点としています。
が、そもそも「オアシスの道」と呼ばれるシルクロード(西域南道、天山南路、天山北路)は遡っても漢代の紀元前二世紀を超えることはなく、その北の「草原の道」も紀元前十世紀を遡ることはありません。
この一般にいわれる「シルクロード」が、それよりずっと以前に崩壊してしまった長江文明と関わることはあり得ません。
ではそもそも長江文明が西域と関わることがあったのかどうか。
もしあったのなら、両者をつなぐルートはどのあたりだったのか。
この疑問を解くカギを握っているのが、やはり秦氏なのです。
このシリーズの最初*1で述べた、秦氏の特長にも関わってきます。
次回はそのあたりのことを探っていきましょう。
ちなみに今回の記事は、中山市朗氏の著作と安田喜憲氏・梅原猛氏の著作を、とくに参考にさせていただきました。あ、あとワタシの著作も(笑)。
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