秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(8)接触の可能性Ⅲ 海上ルート①
古代ユダヤ人が秦氏(の前身集団)と接触した可能性において、「海上ルート」が最も可能性が高いとワタシが考える理由は何か。
まず何よりも秦氏の前身集団が、優れた航海民であり海洋交易民であったこと。
オリエント世界から東アジアへ移動するには、ルートさえ確立されていれば海路の方が陸路より安全で速い移動が可能であったこと。
海路での移動すなわち航海においては、太平洋や大西洋のような大海原を横断するのならともかく、陸から付かず離れずの「沿岸航海」が可能なインド洋の航海は、当時の陸路での移動よりはよほど安全で速かったと考えられます。
さらに船による移動は、大量の人員、貨物の運搬が可能なこと。
以上おおまかに三つの理由でワタシは、古代においては海上ルートにおける接触の可能性が最も高かったと考えます。
今回はまず秦氏の側、つまり東アジア側からのアプローチの可能性を見てみましょう。
秦氏の前身である交易集団は長江文明において、はるか西域の崑崙山脈で採れる「玉」の交易を担っていたが、同時に優れた航海民であった彼らは「東アジア地中海」を主な活動の場とする「海洋交易民」でもあった、と以前に述べました。
約4200~4000年前、大寒冷期のあおりを受けて長江文明は崩壊します。
長江文明の民・越人の多くはこの時、大量のボートピープルとなって長江河口域から、主に南方に向かって逃れていったと考えられます。
ちょうどその時期あたりから南シナ海やフィリピンの太平洋岸、さらにニューギニアの北の海域の辺り(要するに東南アジア島嶼部海域)に「海のモンゴロイド」、オーストロネシア語族の祖先の集団が色濃く現れるようになります。
この「海のモンゴロイド」=オーストロネシア語族の祖先の集団は、じつはもともとその北の方、台湾や中国江南地方にいた民族集団であったことが、言語学的に推測されています。
この集団の分布範囲は、さらには日本列島(!)にも広がっていました。
4000年前よりも以前に、台湾や江南地方にいた海洋民とは、つまり越人です。長江文明の民です。
同じく日本列島にいたのは縄文人。ワタシ流に言わせてもらえば、航海民越人が日本列島にいわば植民して根付き、縄文人となった人々、ということになります。
彼らが、大寒冷期のあおりを受けて東南アジア島嶼部海域にまで進出した、ということです。
この時期、日本列島は縄文後期に入っていましたが、この縄文後期というのは人口が大幅に減少した時期でもあります。
ひょっとしたら縄文人のなかでも、大陸の越人と連携して南洋へと逃れた集団がいたのかもしれません。
それはともかく「海のモンゴロイド」の一部は、さらにその後メラネシア、ミクロネシアへと進出。
そして”遅くとも”3600年前、ニューギニアあたりの近海に”突然”現れたのが、のちのポリネシア人の祖先となる「ラピタ人」です。
彼らはさらに長い時間をかけてポリネシア各地へと分散し、最終的にハワイ諸島にまで到達します。
また東南アジア島嶼部海域の「海のモンゴロイド」の一部は、やはり長い時間をかけて、紀元前1500年~紀元前500年の間にマラッカ海峡(マレー半島とスマトラ島の間)やスンダ海峡(スマトラ島とジャワ島の間)などを越えてインド洋に進出。
最終的にはマダガスカルに到達し、そこの原住民族となります。
秦氏の前身である交易集団も長江文明崩壊後、勝手知ったる海へ逃れたと思われますが、そこは交易集団。
「東アジア地中海」を中心に、その南方およびに北方の海、さらには中国大陸内陸部まで広がる交易ネットワークを徐々に築いていったであろうことは以前に述べた通りです。
さて彼らの同胞は紀元前1500年~紀元前500年の間にマラッカ・スンダ海峡などを越えてインド洋にまで達していました。
このとき、交易集団だった秦氏の前身集団もかつての同胞たちと同じようにそのあたりにまで活動範囲を拡げていたことは、十分に予測されます。
インド洋にまで行ったかどうかはまた別ですが、交易民としての性格を考えれば、彼らがマラッカ海峡やスンダ海峡のあたりまで手をひろげていてもおかしくはないと考えられます。
秦氏の前身集団は、交易民としてインド洋への入り口であるマラッカ海峡やスンダ海峡のあたりまで活動範囲として拡げていた可能性がある。
今回はこのことをアタマに留めつつ、次回、ユダヤ側からの海路におけるアプローチの可能性について探ってみましょう。
参考文献:
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秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(7)接触の可能性 番外編 アルタイ山脈の金とユダヤ人
今回は「接触の可能性Ⅲ 海上ルート」の予定でしたが、急遽変更して(笑)前回の内容に追記する形とさせていただきます。
理由は先日NHKで放送された「中国秘境 謎の民 木馬 氷上を馳せる」を見たから(笑)。
ご覧になった方も多いと思いますが、実はワタシは録画した一時間半の番組のうち、1時間ほどしかまだ見ていません。
途中でカミサンにチャンネルを変えられてしまったので(笑)。
その時点で分かっている部分だけ(笑)、取り急ぎ報告したいと思います。
番組の舞台はアルタイ山脈南側の中国領。
主役はそこに暮らす突厥(トュルク系)の子孫だという遊牧騎馬民族トゥバ族。
前回の記事ではこのアルタイ山脈を、起源がわからない非常に古くからの金鉱で、紀元前10世紀のソロモン王の黄金もそこから得ていたのではないかと推測しました。
番組では”アルタイ”を「金とともにある」という意味だと紹介し、トゥバ族が古くから黄金の東西交易に関わっていたのではないかとしていました。
現在でも川底に多数の砂金がキラキラと煌めいている映像は衝撃的でもありました。
トゥバ族は中国の古い史書にも「木馬で氷上を馳せる」と記述されていますが、”木馬”とはなんと松材で作ったスキーのこと。
彼らは冬には現在でも、中国の歴史書の記述通りの方法で、雪に覆われた草原を手作りのスキーで駆け抜けます。
広大な白銀の平原を集団で颯爽と滑走する映像は、実に壮観でした。
付近の洞窟で発見された壁画には、スキーを履いた人々がしっかりと描かれています。
なんと一万年前の壁画です。
アルタイ山脈の金鉱の起源は定かではありませんが、現在でさえ川底にはっきりと煌めく砂金が見えるのであれば、当初はそれこそ山麓に流れる川は「黄金の川」だったに違いありません。
しかもそこには一万年も前から、冬でもスキーを履いて活動する人々がいた。
その人々が川底の大量の砂金に気付かなかったとは思えません。
金鉱としての起源もひょっとしたらその辺りまで遡れるのかもしれません。
前回述べた通り、アッシリアが「中央アジア北部の金」(アルタイはまさに中央アジアの東北の端)を得るために「黄金の道」を整備していたように、知恵者で知られるソロモン王もその情報は手にしていたに違いありません。
ユダヤ人が中央アジアに進出したのは、まさにソロモン王の時代が最初だったのではないかとワタシは考えています。
オリエント世界から中央アジア北部のアルタイ山脈を目指す中途に「キルギス」があります。
以前紹介した久保有政氏によれば、キルギス族には「自分たちの祖先は古代イスラエル人だ」という伝説があるそうです。
彼らには古くから『マナス叙事詩』というものが伝わっており、そこに書かれるキルギス族の由来譚は旧約聖書の記述と酷似する内容があるとか。
「マナス」も”失われた十部族”のうちの「マナセ族」のことだと久保氏は主張しています。
だとすれば、遅くとも十部族が消えた頃、紀元前8~7世紀のころには既に、ユダヤ人たちは中央アジアに根付いていたことになります。
そういえばと思って地図を確認しますと、現在のキルギス共和国とアルタイ山脈のあいだにあるジュンガル盆地には「マナス川」と「マナス」の街があります。
ちなみに、さらにそのジュンガル盆地とキルギスのあいだ、天山北路にある「イーニン(伊寧)」は「クルジャ」ともいい、唐の史書に書かれる「弓月城」ではないかと推測されています。
秦氏=ユダヤ人説の論者はこの「弓月城」を、秦氏の祖と『日本書紀』が書く「弓月君」と関連づけていますが、ワタシはこれにはかなり懐疑的です。
それよりもワタシが気になっているのは「エフタル」です。
5~6世紀にかけて中央アジア~インドに帝国を築いた部族です。
時代的にみれば秦氏とは直接の関係はないように思えますが、5~6世紀というのはこの部族が強勢を誇った時期であり、それ以前から中央アジアに割拠していたことは間違いないでしょう。
『文明の十字路=中央アジアの歴史』岩村忍(講談社学術文庫)より
問題は、中国の史書がこのエフタルを「嚈噠」と記述していることです。
日本語では「えんたつ」「ようたつ」と訓むようですが、中国語では「yanda」と訓むようです。
この「嚈噠」と古代中国人に書かせた、もともとの発音はなんだったのか。
ユダヤ人あるいはユダ族を「イェフダ」といい、秦氏=ユダヤ人論者はそれが秦氏の「ハタ・ハダ」になったのだと主張しているようですが、それはともかく、ワタシは「嚈噠」も「イェフダ」だった可能性もあるのではないかと(半信半疑ながらも)考えています。
エフタルの起源は中国の史書では「金山(アルタイ山脈)から南下してきた」とされ、他方、西方の史料ではバダクシャン(「バダフシャン」ともいい、パミールとヒンズークシの間の地方)としており、双方で異なっています。
しかし「金山(アルタイ山脈)」とかかわりがあると認識されていたからこそ、中国でそのように書かれた可能性もあり、だとすればアルタイの黄金と関わっていたユダヤ人(イェフダ)の交易民の末裔だったのではないかと、ワタシは想像の翼をかなり拡げて(笑)考えています。
12世紀に広く東方を旅行したユダヤ教の僧(ラビ)「トゥデーラのベンジャミン」の紀行によれば、その頃の中央アジアには多くのユダヤ商人が活躍しており、サマルカンドやブハラといった大都市にもユダヤ人社会があったといいます。
その起源は定かではありませんが、もしかしたらソロモン王の時代以来、アルタイの黄金とそれを介してトゥバ族やキルギス族に関わったユダヤ人たちの末裔なのかもしれませんね。
少なくとも非常に古く(紀元前)から、ユダヤ人が中央アジアに関わっていたことは間違いないように思えます。
参考文献:
中央アジアの歴史 (講談社現代新書 458 新書東洋史 8)
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秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(6)接触の可能性Ⅱ オアシスルート
オアシスルート、すなわち西方からパミール高原を越えてタリム盆地=タクラマカン砂漠の北及びに南を通って中国大陸に至るルートです。
今回はこのルートによるユダヤ人と秦氏(の前身集団)との接触の可能性について探っていきます。
まず西方からパミール高原を越えるには3通り(北方の草原地帯からのルートは除く)あります。
ひとつはイラン高原から北のソグディアナに出てパミールを越えるルート。
二つ目は、イラン高原から東のバクトリアに入り、パミールを越えるルート。
三つめはは海路からインダス川に入り、上流のあたりでヒンズークシ山脈を越えて一旦、西トルキスタンのバクトリアに出て、パミールを越えるルート。
この西方から中央アジアに至るルートは、パミール高原以東のいわゆる漢帝国によるシルクロードよりも遥かに昔から存在していました。
(ただしパミール以東のタリム盆地にも、当然それよりずっと以前からオアシスが点在し、相互をつなぐルートも当然存在していました。現在分かっている最も古いものは4000年前にもさかのぼります。ワタシは秦氏の前身集団も、その頃からこの地に関わっていたと考えています。)
パミールを越えてカシュガルのあたりで一旦合流したルートは、そこから東へ向けてまた二つに分かれます。
タリム盆地=タクラマカン砂漠の北辺はつまり天山山脈の南側、中国側から見たシルクロードにおいては「天山南路」あるいは「西域北道」と呼ばれた道です。
一方、タリム盆地=タクラマカン砂漠の南辺は崑崙山脈の北側、シルクロードにおいては「西域南道」と呼ばれた道です。
特にこの西域南道は通商路としては最も公的な条件がそろったルートでした。
このオアシスルート、特にタリム盆地に入ってからの西域南道に達することが出来れば、(長江文明の頃から)崑崙の「玉」の交易を担っていたと考えられる「秦氏の前身集団」と接触する可能性は、「草原の道」ルートよりもむしろ高いと言えるでしょう。
今回も「草原ルート」のときと同様に、ユダヤ側の視点から「ソロモン王の時代」、「失われた十部族」、「ローマ時代のディアスポラ(ユダヤ民族離散)」の三つの時期について、それぞれ検証してみましょう。
まずソロモン王の時代。
紀元前10世紀の中頃、前950年の前後数十年間と考えて下さい。
これまで述べてきたようにソロモンはその交易範囲を一気に広げ、東方では少なくともインドまで達し、おそらくは中央アジアの西トルキスタンにまで交易の手を拡げたのではないかと考えられます。
ソロモンと言えば黄金が有名です。
旧約聖書「列王記上」によれば、ソロモン王は紅海の北端にあるアカバ湾のさらに北端に位置するエツヨン・ゲベル港に船団を編成し、その船団は「オフィル」の地で大量の黄金を得て、王のもとに届けたといいます。
この「オフィル」がどこなのかは謎ですが、紅海から南下したアフリカ大陸の何処かではないかとかなり以前からささやかれています。
しかしワタシはこの見方にはかなり疑問を持っています。
当時のアフリカ大陸の状況は全く不明ですが、文明国の住人にとってはあまりにも危険が大きいと思われますし、また近代以降になって怪しいとみなされて調査されたいくつかの金鉱も、その歴史は問題にならないほど新しいものだと判明しているからです。
ではどこか。
ヒントがあります。
当時徐々に強大になりつつあり、のちに帝国となったアッシリアでは、黄金を得るために「中央アジア北部」への交通路*1を開き、これを『黄金の道』と呼んでいたというのです。
中央アジア北部で得られる黄金。
それは中央アジア一帯においては非常に古くから黄金が出る金鉱として知られ、のちのスキタイの黄金もそこで得られていたという「アルタイ山脈」。そこに違いありません。
現在のモンゴル・中国・カザフスタンのほぼ境を成すアルタイ山脈。
その金鉱としての起源はまったく定かではありませんが、「中央アジア北部」の金鉱といえば、アルタイ山脈である可能性が非常に高いといえるでしょう。
ソロモンが黄金を得た「オフィル」の地も、アルタイ山脈一帯だった可能性は、少なくともアフリカのどこかよりは、よほど高いと考えられます。
たださすがのソロモンも、おそらくアッシリアからの陸路だったであろう『黄金の道』をそのまま使ったとは思えません。
使ったとしてもアッシリアに、”よくて没収”だったでしょうから。
だとすれば恐らく使用されたのはインダス川から中央アジアへのルートだったのではないでしょうか。
次回の「海上ルート」の項で詳しく述べますが、オリエント世界とインダス川は、インダス文明発祥の紀元前2600年頃には海洋交易路で結ばれており、インダス川とその河口周辺には交易港が存在しました。
ソロモンがエツヨン・ゲベル港で編成した船団はインダス川に向かい、その港ではるか北方のアルタイ山脈から運ばれてきた黄金を積んで帰還したのではないでしょうか。
この場合、アルタイ山脈・インダス間を往還していたのもイスラエル王国のユダヤ人たちであった可能性は決して低くはないでしょう。
だとすればユダヤ人はソロモンの時代にすでに中央アジアを知り尽くしていた可能性があります。
それも交易がらみであれば、「秦氏の前身集団」との接触の可能性はより高くなると言っていいでしょう。
次に消えた(失われた)十部族について見てみましょう。
ソロモンの統一イスラエル王国が南北に分裂したうちの北イスラエル王国を構成していた十部族は、紀元前722年にアッシリア帝国によって国が滅ぼされ、アッシリアに強制的に移住させられました(アッシリア捕囚)が、その後、”解放された”等の記録が一切無く、その行方が分からなくなったというものです。
その後あたりからアッシリア帝国は、北からキンメリアやスキタイなどの遊牧民の侵入を受けたり、帝国内部の反乱(新バビロニアなど)が繰り返されたりと、大いに国は乱れて弱体化していき、前609年に完全に滅亡してしまいます。
十部族が捕囚を逃れて帝国を脱出するなら、帝国内が乱れて滅亡するまでの、この百年あまりの間に行われた公算が強いと思われます。
そしてユダヤの側に十部族が戻ってきたという記録がない以上、やはり北か東に向かった可能性が高いと言えるでしょう。
北の草原へ向かった場合については「草原ルート」の項ですでに述べました。
東へ向かってオアシスルートに達する場合も、草原ルートの場合と同じくイラン高原のメディア王国を通過する必要があります。
そこからは前述の通り、北のソグディアナ、東のバクトリアどちらにでも出てそこからパミールを越えることができます。
一応念のために付け加えておきますが、ソグディアナ、バクトリアともに記録に出るのは、これよりも百年ほどあとのことですが、もちろんそれは「記録に出ない」というだけのことです。
記録する習慣を持たない遊牧民は、トルキスタンにおける最良のヤイラック(夏の牧草地)で馬の名産地であるその地に、ずっと以前から暮らしていたのです。
話しがそれましたが、さらにイラン高原を通らず、ペルシャ湾から海路インダス川に向かい、その上流からバクトリアに出てパミールを超えるルートも可能でしょう。
イラン高原を通過しない分、このルートの方が幾分ラクで安全かも知れません。
ただ、時は中国の春秋戦国時代。
良くも悪くも波乱の運命が彼らを待っていたでしょうが、それはまた別の話。
最後にローマ時代、紀元1世紀後半あたりのディアスポラ(ユダヤ民族離散)の民について見てみましょう。
これまでと同様にイラン高原を抜けるとすればそこには「安息」として知られるパルティア王国がありました。
そしてそこから北のソグディアナ、東のバクトリアどちらに出ても、さらにそこからパミールに出ても、当時その地域一帯はクシャン(クシャーナ)朝の領土でした。
また海路からインダス川に入ってもそこはクシャン朝の版図でした。
クシャン朝はイラン系遊牧民の大月氏の国で、当時はちょうど仏教保護で有名なカニシカ王が即位していた頃にあたります。
記録にはあまり残ってはいないのですが、当時の中央アジアはクシャン朝の支配下にあって比較的安定していたと考えられます。
また漢帝国によるシルクロードの整備も進んで、東西交易が活発化していました。
比較的ラクで安全に中国(漢帝国)に達することができたと考えられます。
またこの時代は、北方の草原地帯は匈奴が強盛を見た時代でもあります。
当時の草原ルートはその検証の際に”可能”だとしましたが、それよりはオアシスルートの方が、よほど安全だったと考えられます。
以上、ソロモンの時代・十部族・ディアスポラの民についてオアシスルートによる東遷~「秦氏の前身集団」との接触が可能かどうか見てきましたが、どの時代もそれぞれ(問題は全く無いわけではありませんが)可能であるとみて良いでしょう。
しかし、ワタシはさらに高い可能性を持ったルートがあると考えています。
それこそが「海上ルート」です。
つまり航海によって、イスラエル・ユダヤの民が秦氏前身集団と接触した可能性がより高いと思われるのです。
次回はそのあたりを探ってみましょう。
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秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(5)草原ルート 番外編2 アシュケナージの起源はハザールか
前回はアシュケナージの歴史について確認しました。
ではハザールとは何か。
ハザール族は遊牧民族であることは間違いないのですが、歴史に名を連ねた他の遊牧民族と同様、その起源はよくわかっていません。
恐らくトルコ(テュルク)系だろうということで、専門家の意見は一致しているようです。
彼らの原郷もはっきりしません。
「###の辺りである」と書かれている資料も見かけますが、あまり当てにしない方がいいかもしれません。
遊牧民族は常に移動を繰り返すもの(部族間の盛衰が激しかった当時ならなおさらのこと)ですし、トルコ系からハザールという一部族が立ち上がった時期さえはっきりと分からないのですから。
ビザンチン帝国からのフン族アッティラへの親書(5世紀)にハザールの名が書かれていたようですが、はっきりするのは6世紀末~7世紀にかけての西突厥の支配下にあった時です。
このときハザールはカスピ海西岸から黒海北岸地域に進出していましたが、7世紀中ごろ、西突厥の衰退とともにハザール国(ハザール王国)を興しました。
それも束の間、7世紀後半には南から新たなイスラム勢力が北上し、何度も戦闘をけしかけて来てはハザールを悩ませ、また北方民族からの圧迫も受けるようになります。
一方ビザンチン帝国とは以前からの軍事同盟が発展し、8世紀後半には婚姻関係を結ぶまでになります。
そんな中、ハザール国は(ユダヤ人でないにもかかわらず)ユダヤ教に改宗するのです。
改宗の時期は説によって740年頃だったり、9世紀初頭だったりします。
理由もまたはっきりしません。
「アシュケナージ=ハザール」説の人たちは、キリスト教のビザンチンとイスラム教勢力両方の圧迫を受けて、中立的なユダヤ教に国ごと改宗したのだという説明をしているようですが。
これでは正直、政治家の「玉虫色の回答」となんら変わることのない、分かったような分からないようなレベルの説明だと思います。
ワタシが思いますに、まず、手近にユダヤ教の手本(つまりユダヤ教徒)が存在しない限り、国家ぐるみで改宗するなど、まず無理だろうということ。
また、ハザール国の国民すべてが改宗したように勘違いしている向きも見られますが、これは誤りで、改宗したのは主に支配者層の人々です。
それさえも改宗に従った一群と、それに反対する一群がいたといいますが、まあそれも当然のことでしょう。
彼ら遊牧民というのは強力な指導力を持つリーダーには従い、それが強大な軍事力を生み出すことにもなるのですが、それはあくまで、そうすることで自分がトクをするから。
リーダーがそれほど強力ではない時や、自分(自分の一族・部族)の得にはならないと判断した時には、いとも簡単に従わなかったり、その支配下から去ったりします。
もちろんその判断の責任も命をかけて負うわけですが。
要するに国民全体が無条件にパッと改宗することなど、遊牧民の常識からしたら考えられないことなのだと思われます。
それはともかく、前述したように彼らがユダヤ教に改宗する決心をしたのなら、そのお手本が身近に存在したはずです。
前回述べたことを思い出していただきたいのですが、じつはこれよりはるか以前の紀元1世紀からすでに、カフカズ山脈北側から黒海北岸・クリミア半島の辺りには、ユダヤ人たちが居住していました。
まさにハザール国の中心部だったところです。
その後近代にいたるまでその存在が連綿と続いていたことが確認されていますから、ハザール国の時代にも当然そこにはユダヤ人の集団がいたはずです。
ハザール国にはユダヤ人がいた。
そう考えればハザールが集団改宗した「謎」も実にすんなり解けますし、実際その可能性は高いと考えられるのです。
遊牧民国家というのは、征服して支配下に置いた民族でも、その中に優秀な人材があれば、積極的に登用します。
それが出世を重ねて、王の右腕にまで昇り詰めるような実例もしばしば起こります。
一方、オリエント世界でも、あるいはのちのヨーロッパやアラブ世界などの他国においても、宰相をはじめとする重要人物を何度も輩出してきたユダヤ民族のこと。
ここハザール国においても同じことが(それも一度や二度ではなく何度でも)起こった可能性は十分にあるとワタシは思います。
ハザール国がユダヤ教に改宗した理由。
それはハザール国の中枢に入り込んだユダヤ人による、王への助言・提言があったから。
ワタシはそう考えています。
常識的に考えても、これが一番可能性の高いシナリオだと思います。
そうだとすれば、当時のハザール国には、元々そこにいたユダヤ人ユダヤ教徒、改宗したハザール人ユダヤ教徒、そして両者の混血ユダヤ教徒もまた多数いたはず(遊牧民には農耕民族ほどには「民族の純血」という概念は希薄)です。
つまり、「ハザール人にはユダヤ人の血は一切流れていない」という前提は、ここで崩れます。
「アシュケナージ=ハザール」論の支持者が言うように、もしハザールのユダヤ教徒が13世紀ごろ大挙して東欧に流れ込んで住み着いたのがアシュケナージムだという説が正しいとしても、そもそも彼らの中にはユダヤ人の血が流れていた可能性が高いのだと思われるのです。
ただここまで説明しといて言うのも何ですが、ワタシは「アシュケナージムの起源」に関しては、ハザールのユダヤ教徒は一切関与していないと考えています。
前回見たように、アシュケナージムの歴史は(もちろん不明なこともありますが)、少なくとも彼らの出どころに関しては、割とはっきりしています。
すなわち、ディアスポラ(民族離散)により西ヨーロッパ各地に移住したユダヤ人。
彼らのうちとくに北フランス・北イタリアにいたユダヤ人の多くが、8~9世紀にかけてドイツに移住。
彼らは世代を重ねるうちに10世紀ごろにはユダヤ的ドイツ語を話すようになります。イディッシュ語の萌芽です。
13世紀に「ユダヤ人の隔離」という決定が宗教会議でなされると、彼らのドイツ語もさらにユダヤ的色彩を深め、これが「イディッシュ語」(西イディッシュ語)となります。
これが実質、アシュケナージの誕生と考えて良いと思います。
11世紀の十字軍をきっかけとして、彼らはドイツ(だけではなく西ヨーロッパ各地)で迫害を受けるようになります。
さらには14世紀のペスト禍における「犯人」とされてしまったため、いっそう激しい迫害・拷問・殺戮を受けるようになり、追放令まで出されたことで、多くのアシュケナージがドイツを逃れ東欧に移住。
特にポーランド王国はユダヤ人への優遇政策をいち早く表明し、移住を呼び掛けたので、多くのユダヤ人(アシュケナージ)が移住しました。
彼らはそこで束の間の繁栄を謳歌しますが、そこでイディッシュ語が東欧風に変化。それが「東イディッシュ語」です。
現在アシュケナージムの言語とされているイディッシュ語とは、この東イディッシュ語です。
以上が、前回確認したアシュケナージムの歴史のおさらい(というには長くなりましたが)です。
見ての通り、アシュケナージムのルーツは西欧各地からドイツに移住したユダヤ人です。起源ははっきりしているのです。
しかも、歴史上分かっている限りにおいては、そこにはハザール難民の入り込むスキは全くありません。
別にハザールをわざわざ持ち出さなくても、彼らがいかにして「東欧系アシュケナージム」となったのかは、歴史としてほぼ説明できるのです。
「アシュケナージ=ハザール」論に一応目を向けてみても、いくつかの重大な疑問が湧き上がってきます。
彼らがいうには、それまで存在していなかったアシュケナージという部族が、いきなり東欧に大量に出現したと。
それはハザールからの非ユダヤ人ユダヤ教徒が侵入して、ユダヤ人としてふるまって定着したものだと彼らはいいます。
だとすれば最低でも数万人単位、恐らくは数十万単位のハザール人が東欧に侵入したことになるでしょう。
そこで疑問です。
①まずそれだけ大量のハザール人が東欧に侵入すれば、もともといた在地の東欧人との軋轢は起こらなかったのでしょうか?
ハザール人はトルコ(テュルク)系遊牧民出身で、ハザール国は彼らが大草原に築いた遊牧国家です。
そんな彼らが敵から逃れるように大量移動するとき、必ず「騎馬」の集団を伴っていたはずです。
遊牧民の歴史が証明しているように、そのような騎馬を伴った遊牧民の集団が定着農耕民の村落や都市部へ侵入するとき、「軋轢」どころか必ずと言っていいほど起こるのが、 「略奪」「強姦」「殺戮」です。
逃亡してきた彼らハザールが東欧につく頃には、あらゆる面でぎりぎりの状態だったはずであり、そのような事態が全く起こらなかったということは、じつに考えにくいことです。
万が一そういうことが起こらなくとも、現地の東欧の人々がそれだけの突然の大量移民を、黙って受け入れるとは到底思えません。
常識的に考えてあり得ないことです。
②そしてそれだけの大量の移民という大事件(軋轢、略奪等も含めて)が、何故記録に残っていないのでしょうか?
何事も記録に残すことが殆どない遊牧民の所業とは言え、「コト」はヨーロッパで起きているのです。
もし本当にハザールからの大量移民があったのならば、それが記録として残されなかった確率は、限りなくゼロに近いでしょう。
そしてそのような「歴史」があったことは、現時点では誰も知らないのです。
③ハザール人はトルコ系遊牧民ですが、彼らはどうやって東欧よりもっと西方にあるドイツ語を、さらにユダヤ風に変化させたイディッシュ語(西イディッシュ語)を、さらにまたスラヴ風に変化させた東イディッシュ語を造り上げたのでしょうか。
もし本当なら、ドイツと縁もゆかりもない彼らが、じつに短期間のうちに、複雑な手順で複雑な言語を造り上げたものです。
いったん集団でドイツに、語学留学でもしに行ったのでしょうか?
それにしても天才的な語学集団です。
④百歩譲って、彼らが東イディッシュ語を造り上げたとして、その言葉になぜ、トルコ系の言語の痕跡(単語やなまりなど)が一切残っていないのでしょうか。
本当なら、まさに天才的な語学能力集団です。
⑤また百歩譲って、そのような(トルコ系言語の痕跡を一切排除したことなど)高度に意識的に造られた言語を、おそらく数十万単位の移民全てに周知徹底する(トルコ系言語の痕跡が残っていないということはそういうことになる)ことなど、果たして可能なのかどうか。
本当なら、まさに天才的な語学能力集団(数十万人単位)です。
このように、ワタシのようないわばド素人が見ただけでも、これだけの疑問点・反証がいくつも出てきます。
ちゃんとした専門家の方が、それこそちゃんと検証すればもっと多くの疑問や反証が出てくるのではないでしょうか。
他にも気になることはあります。
「アシュケナージ=ハザール」論者たちは、ハザール国が滅んだあと、その民が”消えた”ことを問題視し、それが彼らの多くが東欧に移動してアシュケナージとなったという説の根拠というか傍証とする向きもあります。
しかしですが、歴史上じつに数多くの遊牧国家が興っては亡んでいきましたが、遊牧国家が滅んだあとの国民(=おもに遊牧民)のゆくえが不明となるのはしばしば、というよりごく当たり前のように起こっていたことなのです。
そのような場合、大体は周囲の遊牧民族のなかに分散・吸収されてしまったと考えられています。
ネガティヴなことのように思われるかもしれませんが、要は生き残ればいいのです。
定着農耕民と違って遊牧民はその点、自由というか融通が利きます。
またハザール国そのものについても、「謎」が多いことがよく問題にされるようです。
しかし中央アジアを中心とした遊牧国家の興亡史において、一つの国の始まりと滅亡の時期、その構成民族(部族)、そして存在した場所まで、これらのすべてがはっきりと判明しているほうが、実は珍しいのです。
例を挙げれば、中央アジア史上に名高い「大宛」は、その場所さえ明らかにはなっていませんし、同様に名高い「エフタル(嚈噠:えんたつ)」も、どの民族系統に属するのかよく分かっていません。
記録をほとんど残さない遊牧国家が、多くの謎を残すのも当たり前といえば当たり前です。
もちろんハザールの人たちが全く東欧に向かわなかったとは言いません。
ただ、ハザール難民たちの多くは周囲の他部族に分散・吸収されたと考えられ、東欧に向かったとしてもハザールの一部でしょうし、もともと人口の少ない遊牧国ですから、さらにその数は少なかったでしょう。
そしてその中のユダヤ教徒は、さらに少ない支配者層の、さらにその一部なのです。
はたしてこれが、”大量のアシュケナージムの出現”につながるものでしょうか?
以上述べてきたように、アシュケナージはハザールの末裔ではあり得ない、というのがワタシの考えです。
百歩譲って、ハザールからきたユダヤ教徒がアシュケナージムの中に多く入っていたとしても、最初に述べたように、ハザールユダヤ教徒自体が、ユダヤ民族の血をある程度受け継いでいる可能性が高いのです。
ですから「アシュケナージ=ハザール」論者たちの言うように、アシュケナージにはユダヤの血は入っていない、ユダヤ民族の末裔ではない、とする論説は成り立たないのです。
これがワタシのアシュケナージに対する結論です。
確かに、現在様々な分野において優秀な業績を上げ、世界中で大きな力を手にしているように見えるユダヤ人の主力であるアシュケナージムが、実は本当のユダヤ人ではない、とする論説は陰謀論などもからんで面白おかしく、魅力的に思えるのは仕方ありません。
だからと言ってこのような説を大きく取り上げ、真実であるかのように吹聴し、社会の中で大きな影響を持たせてしまっているような現状というか風潮が、ワタシは好きではありません。
ワタシのような者でさえ、ごく簡単にいくつもの疑問点や反証を挙げられるくらい、この論説は穴だらけの不完全なものでしかないように思われます。
にもかかわらず、いまだにこの説を支持する著作がいくつも世界中に出回っているこの現状。
またここでヒトラーを持ち出すのも気が引けますが、彼が信じていたように、ユダヤ人をして狡猾な民族だと考える人もいまだに世界中に多くいるように思われます。
しかしワタシに言わせれば、ドイツ人だって十分に狡猾な面はあるし、イギリス人やアメリカ人やフランス人、あるいはロシア人や中国人、ひいては日本人だって狡猾な面は無いとは言えません。
ユダヤ人というのは、自らを第三者の目で見るのが最も得意(?)な民族で、その欠点さえ「笑い」に変えてしまうような人たちです。
その分、他の民族より幾分マシだという見方もできるのです。
「アシュケナージ=ハザール」論がこれほど世界中に敷衍するようになったきっかけは、アーサー・ケストラーの『第十三支族』(邦題『ユダヤ人とは誰か』)だと言われています。
自身もハンガリー出身のユダヤ人だったケストラーは、偉大なジャーナリストにして思想家であり、真に尊敬すべき人物だと思います。
そのケストラーが、このような論説を勢いでかどうか、ともかく世に出してしまった。
ワタシのような素人でさえその不備に気付いてしまうような論説の欠陥に、賢明なケストラーがあとで気付かなかったとは思えません。
しかもその内容はと言えば、自分の同胞の多くを傷つけてしまうどころか、その存在理由までおびやかしてしまうようなものだった。
ケストラーのことを詳しく知っているわけではないのですが、晩年の彼は深い後悔の念と失意の中にあったのではないでしょうか。
そしてそのまま死を迎えたのではないか。
そのようなことまでワタシは思ってしまうのです。
最後はなんだかシンミリ(笑)してしまいましたが、次回は話を戻して、古代ユダヤ人が東へ向かう可能性としての『高原・砂漠ルート』 、言い換えれば『オアシスの道』として知られるルートについて検証したいと思います。
参考文献:
失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎 (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス)
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秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(4)草原ルート 番外編 アシュケナージとは
現在ユダヤ人は大きく二つに分けられ、そのうちドイツ・東欧系のユダヤ人の子孫がアシュケナージと呼ばれ、スペイン・中東系の子孫がセファルディーと呼ばれます。
とはいってもそれ以外の地域出身のユダヤ人も当然いるわけですが、あくまで大まかな分け方なので、白い肌に青い目という外見が白人と変わらないユダヤ人がアシュケナージ、そうでないユダヤ人がセファルディーと考えれば、おおよそ間違いではないようです。
したがって見た目がほぼ黒人種と変わらないエチオピア出身のユダヤ人もセファルディーに分けられることが多いようです。
ちなみにアシュケナージの複数形がアシュケナージムで、セファルディーの複数形はセファルディーム。
つまり集団としてのアシュケナージをとりあげる場合、アシュケナージムとするのが実は正しいので、以下アシュケナージムと表記させていただきます。
さてドイツ東欧系と云われるアシュケナージムは如何にしてアシュケナージムとなったのか。
その歴史をたどる必要があります。
まず東欧へのユダヤ人の移住は、ローマ帝国時代の紀元1世紀にすでに始まっていました。
彼らは以前からのユダヤ人の居住地であったパレスチナやバビロニアとのつながりを保ったまま、小アジア(現在のトルコ)を通って黒海の北岸、クリミア半島にまで達していました。
また西ヨーロッパへのユダヤ人の居住も、ローマ帝国時代にまでさかのぼります。
西暦70年のエルサレム第二神殿の破壊を機に最初のディアスポラ(離散)が始まり、さらに反乱に対するローマ帝国の鎮圧(西暦135年)によってユダヤ人は完全にエルサレムから追放され、世界中に離散を余儀なくされました。
西ヨーロッパではローマ帝国域内だった現在のイタリア、スペイン、フランス、ドイツなどに移住しました。
特にドイツのライン地方、ドナウ地方への移住が多く、その頃は農夫や商人、手工業の職人として従事しましたが、このローマ期からのドイツのユダヤ人がそのまま後世まで継続的に居住したとは、どうも言えないようなのです。
確実に辿ることのできるドイツのユダヤ人の歴史は、8~9世紀のカロリング朝以降のことです。
その頃おそらく北フランスや北イタリア方面から大勢のユダヤ人が、ドイツのライン地方に移住してきました。
ドイツのユダヤ人は当初から国際貿易商人として活躍する者が多く、またライン地方を中心に多くの共同体をつくり、11世紀には2万人を数えました。
彼らは世代を重ねるうちにドイツ人と同じくドイツ語を話すようになりますが、キリスト教会による13世紀の宗教会議で「ユダヤ人の隔離」が決定すると、彼らのドイツ語も次第にユダヤ色が濃厚となっていきました。
これがのちにアシュケナージムの言語となる「イディッシュ語」です。
つまりイディッシュ語とは、ユダヤ人が使用していたとはいえ言語的にはドイツ系言語(ゲルマン語派)のひとつなのですが、その中で唯一ヘブライ文字で表記される言語なのです。
また、この時点ではまだドイツ語に近いものであり、これをのちの東欧系のイディッシュ語(東イディッシュ語:後述)に対して「西イディッシュ語」といいます。
ドイツのユダヤ人たちの多くは、まもなくドイツの地を去り東へ、つまり東欧へ移動を始めます。
キリスト教徒による迫害が始まったからです。
11世紀末の第一次十字軍のときから、つまり13世紀のユダヤ人隔離の決定以前から、ユダヤ人に対するキリスト教徒の迫害が始まりました。
クレルモン宗教会議において教皇が、聖地エルサレムをイスラム教徒の支配から取り戻すよう訴えたことに対し、多くの”民衆”がその「聖戦」に参加しようと集まりました。
しかし当初からかなりまとまりを欠いたこの集団は、遠いエルサレムへ向かうことなく、手近にいた「神(キリスト)の敵」ユダヤ人に攻撃の矛先を向けました。
各地のユダヤ人の共同体やシナゴーグ、彼らの家や店舗にいたるまで、自称”十字軍”によって破壊され、略奪を受け、多くのユダヤ人が殺され、無数の難民が出ました。
このような「十字軍」による被害は、その後二世紀にわたって繰り返されました。
その後もユダヤ人に対する差別や敵意はひどくなる一方で、さまざまな中傷やデマによる迫害が続きましたが、決定的だったのが14世紀なかば頃にヨーロッパ中を恐怖におとしいれたペスト禍でした。
ネズミが媒介した疫病だったにもかかわらず、当時はそのことがわからず、ユダヤ人の仕業(井戸に毒を投げ入れたといった噂が広まった)だと思い込んだ民衆たちの暴動が各地で起こり、ドイツでは何万人ものユダヤ人が殺害され、共同体が破壊されました。
ここに至って、キリスト教に改宗するなどした「同化ユダヤ人」以外のユダヤ人たちはドイツから逃亡を始めました。
さらにユダヤ人追放令まで相次いだ(イギリスやフランスではドイツよりも早く国外へ追放されている)ことで、ユダヤ人たちは狂気の西ヨーロッパ*1を避け、何千人単位でより安全と思われた東欧へと逃れました。
ここで二種類のアシュケナージムが誕生しました。
ひとつはキリスト教に改宗するなど(改革されたユダヤ教を信仰する者も多くいた)してドイツに残り、ドイツ語を話し、ドイツの文化を愛した(愛するように努めた)「同化ユダヤ人」。
もう一つがユダヤの習慣と信仰を守り、イディッシュ語を話し、東欧に逃れた東欧ユダヤ人。
どちらもアシュケナージムです。
さてドイツから東欧に向かったアシュケナージム。
彼らは東欧に移り住んでもイディッシュ語を使い続けますが、スラヴ語の影響を受けるようになり、 ユダヤ人の言葉としての独自性を強めました。
それが「東イディッシュ語」です。
西イディッシュ語が、その後17世紀のドイツでユダヤ啓蒙主義者たちによって恥ずべき言語とされて廃れてしまったのに対し、東イディッシュ語の方はその後ユダヤ人(アシュケナージム)の主要言語として発展していきました。
彼らはそこ東欧で、東イディッシュ語によって豊かな文化を花開かせるのです。
話は前後しますが、ドイツから東欧に向かったアシュケナージムの具体的な移動先は現在のチェコ、ルーマニア、リトアニア、ポーランドで、中でも特に多かったのがポーランドでした。
先ほど紀元1世紀にオリエント地域から直接、黒海北岸クリミア半島(いまのウクライナ)に、ユダヤ人の東欧最初の移民があったことを述べましたが、彼らはもちろんイディッシュ語を話すアシュケナージムとは全く別系統のユダヤ人です。
ドイツから東欧に移動したアシュケナージムも、この時点ではいま述べたようにウクライナのあたりまでは来ていません。
ドイツ語に近いイディッシュ語を話す彼らにとって、やはりドイツ語が曲がりなりにも通じる地域を選んだのかも知れませんが、それにはもっと別の強力な理由がありました。
ポーランド王国からの移住への呼びかけと、熱烈な歓迎でした。
当時のポーランド王国は、モンゴルやタタールなどの侵入・略奪によって国土が荒れ果て、国力がすっかり弱体化していましたので、国の立て直しと経済の活性化が必要でした。
そこで王侯や貴族たちは、ドイツでの迫害から逃れてきた、優れた職人や商人でもあるユダヤ人を積極的に招き入れ、手厚い保護と厚遇を与えることにしたのです。
歓迎されたユダヤ人たちは、数千人ずつの集団となってポーランドの各地に入植し、その期待に応えるように優れた技術や知識・経験を生かしてポーランドの発展に貢献しました。
その成果もあってポーランドは次第に強国となり、16世紀にはリトアニアを併合して、北はバルト海から南は黒海まで広がりました。
その際の植民化にもユダヤ人は大いに貢献したといいますから、当然イディッシュ語を話すアシュケナージムもその範囲に拡がったということです。
このように15、6世紀にユダヤ人=アシュケナージムは東欧、とくにポーランドで、これまでで最高の繁栄と安全な暮らしを謳歌しました。
しかし17世紀に入ってまた不幸が彼らを襲います。
当時ポーランド領となっていたウクライナのコサックたちは、ポーランドの貴族から様々な重い税を課され、苦しめられていました。
ユダヤ人も貴族の手先となって農地を管理したり、税を取り立てていたといいます。
1648年、圧政に耐えかねたコサックたちは反乱を起こし、多数のポーランド人が殺害されましたが、ユダヤ人たちも標的となって集落が破壊され、多くが殺害されました。
この反乱は10年も続き、10万人のユダヤ人が虐殺されたといいます。
現地ウクライナのユダヤ人たちは今度は西へと逃亡し、ハンガリーやドイツ、オランダへと向かう路上には、彼らの姿があふれていたそうです。
これでイディッシュ語(東イディッシュ語)を話すアシュケナージムの一部が17世紀の時点でハンガリーやドイツ、オランダにまで広がりました。
悲劇はまだ続きます。
ウクライナ以外のポーランド領内にはまだ、多数のユダヤ人たちが暮らしていました。
しかしコサックの度重なる反乱と戦闘、そして18世紀初頭のロシアやスウェーデンの侵入などにより、ポーランドはすっかり弱体化し、国土は荒廃しました。
それに目を付けたのがロシア、プロイセン、オーストリアの三国で、18世紀後半の三度にわたって、ポーランドの国土を分割しました。
プロイセンは西ポーランドを、オーストリアはポーランド南西部を、そしてロシアは残りのポーランドの大部分とリトアニアを獲得し、領土としました。
ポーランド各地に居住していたユダヤ人たちも、三国それぞれの支配下に置かれましたが、なかでもロシアに編入された500万人(!)ものユダヤ人たちは、ロシア本土のなかでも発展の遅れていた西側部分に居住区を設定されて活動の自由を奪われ、ロシア政府による圧政を受けるようになりました。
これでアシュケナージムの多くがロシア国内にまで広がりました。
1881年、ロシアで悪名高い「ポグロム(反ユダヤ暴動)」が頻発し、これ以降、ロシアから多くのアシュケナージが避難し始めます。
向かう先は、ドイツ・オーストリアや西ヨーロッパ、そして一番多い6割が向かったのがアメリカです。
アメリカにはすでに、17世紀にスペインから追放されたセファルディームが、19世紀前半から半ばにかけてはドイツやチェコ、ハンガリーなど中欧からドイツ語を話すドイツ系ユダヤ人がアメリカに移住し、定着していました。
とくにドイツ系ユダヤ人は中産階級を成すまでになっていましたが、その後に、東欧からイディッシュ語を話す多くのアシュケナージムがアメリカに流入したのです。
その数は200万人にも及んだといいます。
もともと「同化ユダヤ人」が多く残っていたドイツにも東欧ユダヤ人は多く流入し、20世紀初めごろには10数万人、同化ユダヤ人も含めたユダヤ人全体の20%にまで増えました。
また西ヨーロッパ各国にも迫害や追放令の際も「同化」して残った多くのユダヤ人*2や、移住してきたアシュケナージムがいました。
またポーランドやロシアをはじめとする東欧にも、多くのアシュケナージムが残っていました。
彼らは第二次大戦時に全ヨーロッパを席巻したナチスによる迫害、さらにはホロコーストを逃れて、多くが南北アメリカへ、さらにシオニズム運動の影響でパレスチナへと逃れました。
これが後の1948年イスラエル建国にまで結びつくのです。
これがアシュケナージム(アシュケナージ)の、ざっと大まかな歴史です。
長くなって申し訳ありませんでしたが、最低限この程度までアシュケナージムの歴史を明らかにしておかないと、ハザールとの問題には迫れないのです。
次回はアシュケナージムとハザールの関係について検証したいと思います。
参考文献:
秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(3)接触の可能性Ⅰ 草原ルート
ユダヤ人がいた中東のオリエント世界から「東」へ向かうルートといえば、真っ先に思い浮かぶのはいわゆるシルクロード、つまり峻厳なパミール高原を越えてタクラマカン砂漠に覆われるタリム盆地に達するルートではないでしょうか。
タリム盆地まで来れば中国まではもう一息です。
しかし古代にあって東西アジアを結ぶ実質的なハイウェイは、その北のいわゆる「草原の道」と呼ばれるルートでした。
ではユダヤ民族の「草原の道」へのアプローチについて検証してみましょう。
まずその可能性として一番古いと思われるソロモン王の時代。
ソロモン王がイスラエル王国の王として君臨したのは紀元前10世紀の中頃、ほぼ40年間にわたって統治したといいます。
この時代、イスラエル王国は海外との交易の手を大いに広げ、前回では中央アジアの西トルキスタンもその範囲に含まれていたかも知れないと推測しました。
「草原の道」は位置的にはその西トルキスタンのさらに北を走っています。
ただこの時代は遊牧民はいましたが、肝心の騎馬民族(遊牧騎馬民族)というものがまだ存在しなかったと考えられます。
騎馬の技術自体は生まれていたと考えられますが、集団で草原を往来する騎馬民族は、早くても紀元前八〇〇年頃のスキタイ系キンメリア人が最初と言われており、当然それまではハイウェイとしての「草原の道」も存在しなかったと思われます。
あっても細々としたものだったでしょう。
イスラエル王国の人々が、わざわざそこを目指すとは思えません。
次の可能性は消えた十部族でしょう。
イスラエル王国が分裂したあとユダ族、ベニヤミン族、ラビ族以外の十部族による北イスラエル王国が、紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、王族・貴族層を中心とした数万人にも及ぶ人々がアッシリアに連れ去られ(アッシリア捕囚)、その後行方が分からなくなったというものです。*1
何らかの方法で十部族がアッシリアから解放もしくは脱出して「草原の道」に出会うとしたら。
まずはアッシリア捕囚の直後ぐらいに建国され、アナトリア東部からイラン高原にかけての版図を誇ったメディア王国を通過する必要があります。*2
北へ通過してカフカズ山脈を越え、黒海とカスピ海の間に至れば、当時そこは最初の遊牧騎馬民族であるキンメリア人の土地でした。
「草原の道」の西端です。
キンメリア人は十部族が捕囚されていたアッシリアに侵入しては略奪を欲しいままにしていました。
この際に十部族の人たちが連れ去られるなどして、キンメリア人と黒海北岸まで移動した可能性は十分あります。
またそうでなくてもアッシリアの地からメディアを東漸し、北へ向かえば中央アジア・西トルキスタンに至ります。
そこからさらに北のアラル海~シル川に至れば草原地帯すなわち「草原の道」です。おそらくキンメリア人か、同系のスキタイ人がいたと考えられます。
どちらにせよそこに至るには大変な道のりですが、不可能ではないと思われます。
三つ目の可能性はローマ帝国時代、すなわち民族離散(ディアスポラ)のときです。
ディアスポラの民が「草原の道」に辿り着くには、北(黒海北岸)へ向かうにせよ東(西トルキスタン)へ向かうにせよ、当時メソポタミアからイラン高原北部、そしてソグディアナとバクトリアの手前あたりまでの広範囲において強盛を誇った大遊牧帝国パルティアを通過する必要がありました。
しかしじつは紀元後の1世紀の頃、すでに黒海の北岸、とくにクリミア半島にユダヤ人たちが居住していたことが分かっています。「草原の道」の西端です。
また「草原の道」とは直接関係ありませんが、同じ時期にすでに西ヨーロッパのイタリア、ドイツ、フランス、スペインといったローマ帝国領の広い範囲に居住していました。
ローマの軍隊と共に、様々な職種(ローマに抵抗して敗れた捕虜も含む)のユダヤ人がそれらの地にやって来て住み着いたといいます。
なかでもドイツのラインラント地方に多く住んでいたといいます。
では、2つ目の十部族と、3つ目のディアスポラの民が「草原の道」を利用して東を目指した場合、東アジアまで辿り着くのは可能なのか。
そして秦氏(の前身集団)と出会うことは可能なのか。
まず十部族ですが、黒海北岸の辺りにはキンメリア人、それより東方の草原地帯にはスキタイ人が割拠していたと考えられます。どちらもイラン系すなわちアーリア系の遊牧騎馬民族です。
キンメリア人あるいはスキタイ人の同意を得られれば、彼らの助力を得て「草原の道」を東へ集団移動することは可能です。
なおキンメリア人とスキタイ人は敵対関係にはありました(のちにキンメリアはスキタイによってその土地を追われた)が、遊牧民族同士というのはその時の利害関係によって、わりと柔軟に(?)協力的関係にも敵対的関係にもなったので、「十部族を東へ送る」というプロジェクトにおいて連携をとるぐらいのことは十分にあったと思われます。
ここではあくまでユダヤ人が東へ向かう方法の「可能性」について論じていますので、そこは楽観的に考えて良いところだと思います。
話しがそれましたが、十部族が遊牧騎馬民の協力で西トルキスタンの東端、天山山脈の北側あたりまで来ればそこからは東トルキスタンの草原地帯です。
そこには月氏がいました。やはりイラン系(アーリア系)すなわちスキタイ系の遊牧騎馬民族であることが分かっています。スキタイとは交渉できる関係にあったと考えられます。
のちに匈奴が強盛となると月氏を圧迫するようになり、ついには東トルキスタンから駆逐してしまいますが、このころはまだ月氏のほうが強大で、はっきりした敵対関係でもなかったのではないかと思われます。
月氏ー匈奴の連携があれば、当時春秋戦国時代だった中国黄河流域あるいは朝鮮半島の付け根あたり~沿海州の辺りまで達することは(あくまで可能性の範疇ですが)可能だったでしょう。
また東西のトルキスタンを通らず南ロシアから南シベリアを経由して朝鮮半島~沿海州に来るルートも可能でしょう。
この場合、スキタイが直接日本海沿岸近くまで来たかもしれませんし、スキタイー匈奴の連携があったかもしれません。
どちらにせよそこまで来れば、長江文明崩壊後に各地に展開していた秦氏(の前身集団)と接触できた可能性はあるでしょう。
秦氏の前身集団は交易集団、そして遊牧騎馬民族も常に交易を必要とする集団だったことを考えれば、両者が接触する可能性はゼロではなく、その際に物珍しい(?)西方からの訪問者と接触する可能性も当然ゼロではなかったでしょう。
次に紀元1世紀のディアスポラの民の場合。
前述の通り、この時期すでに黒海北岸まで彼らは来ていたようです。
「草原の道」で当時のユダヤ人たちが東へ向かう場合、ここ黒海北岸を起点に考えたほうがよいでしょう。
この時期「草原の道」の王者は西はスキタイ、東は匈奴でした。
この場合も十部族のときと同様、「草原の道」をたどって朝鮮半島~沿海州にまで達することは可能だったでしょう。
この時、日本列島は弥生後期。
秦氏の前身と考えられるアメノヒボコが活躍(?)していた時期です。
以上、十部族にせよ、ディアスポラの民にせよ、大陸の西端から「草原の道」を経由して大陸の東端、秦氏の前身集団と出会う可能性は少なくともゼロではありません。
次は「草原の道」の南、前回は「高原・砂漠ルート」と書きましたが、つまりは「オアシスの道」について検証、といきたいところですが、今回「草原の道」や黒海北岸について述べたついでに、次回は少し脱線して言及したいことがあります。
ユダヤ人の歴史について興味のある方なら恐らく目にしたことはあるであろう「ハザール」と「アシュケナージ」(アシュケナジー)の問題についてです。
ハザールとは黒海北岸を中心とした地域を支配したトルコ(テュルク)系遊牧民国家ハザール国。
すなわちこの問題とは、東欧系ユダヤ人である「アシュケナージ」は血統的にはユダヤ人の血を全く受け継いではおらず、じつはユダヤ教に改宗したハザール国の支配層が、国が消滅したあと東欧に流れ込んだものだとするものです。
非常に重要な問題と思われますので、次回は脱線を承知でこの問題について検証していきたいと思います。
参考文献:
秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(2)接触の可能性~ルート
長江文明の末裔だった秦氏(の前身となる集団)と、オリエント世界から「東」に向かった(かもしれない)ユダヤ人の「接点」を探るにあたっての、まずは大前提について述べておかなければなりません。
長江文明で交易を担っていたと考えられる秦氏の前身集団は、その長江文明が崩壊した四千年前以降、いったいどこにいたのかということです。
それは全シリーズの最終回*1でも述べたことでもあります。
すなわち、彼らはあいかわらず交易専門集団として、中国大陸、朝鮮半島、日本列島などに囲まれた「東アジア地中海」(東シナ海~日本海)を真の本拠とし、周りの陸地にそれぞれ拠点というかたちで根拠地をいくつも持っていたのではないかということです。
そうやって彼らは交易集団として相変わらず中国文明にも関りを持ち、また朝鮮半島や日本列島にも関りを持っていたと考えられるのです。
おそらく交易の一環としてかなり内陸まで足を延ばしていた可能性もあります。
長江文明の時代に、西域の崑崙山脈山麓まで足を延ばしていたように。
優れた航海民の末裔でもあった彼らは、おそらくそれだけにはとどまらず、南方の南シナ海やさらに東南アジアにも舳先を向けていたのではないかと考えられます。*2
一方のユダヤのほうですが、彼らも非常に古くから交易で洋の東西を問わず活躍していました。
なかでも有名なのはソロモン王の時代です。
父ダヴィデから統一イスラエル王国の王位を継承したソロモン王は、外国との貿易に力を入れ、大いに自国経済を発展させました。
このソロモンの時代に、オリエント世界はもとより東は少なくともインド、南はアフリカ、西はおそらくスペインのあたりまで、交易の手を一気に広げたといいます。
これらの地には恐らく海路、船団を組んで往来したものと推測されます。*3
陸路では、あるいは北の黒海やカスピ海の沿岸、さらにイランの北方、中央アジアの西トルキスタン(現在のカザフスタンの一部とウズベキスタン、トルクメニスタンの一帯)あたりも、その交易範囲に含まれていたかもしれません。*4
これはソロモンの時代、すなわち紀元前1000年頃には既に、オリエント世界を中心としたユーラシア一帯を網羅する交易路及びに航海路が確立していたことを意味します。このことは後でおいおい説明していくことにします。
このように、イスラエルのソロモンの時代を基準にすれば、東アジアの秦氏(の前身集団)とユダヤ人それぞれの交易範囲は、ぎりぎり接触しているかしないかというくらい近接していたと思われます。
交易その他による接触の可能性は、さらにその1000年後の民族離散まであったと考えられます。あくまで可能性ですが。
その1000年の間に、アッシリアに捕囚された十部族が消えてしまったり、何波にもわたるユダヤ民族の他地域への「離散」が起こっているのです。
そしてしつこいようですが、その間、「東」へのルートは陸路海路いく通りもあったのです。
ユダヤ人の「東」へのルートは、かなり大雑把に分けても、以下の3種類が想定できます。
この3つのルートもそれぞれ幾種類かのルートに分けられます。
次回からは3つのルートそれぞれについて、いくつかの視点から検証していきたいと思います。
参考文献:
メソポタミアとインダスのあいだ: 知られざる海洋の古代文明 (筑摩選書)
- 作者: 後藤健
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2015/12/14
- メディア: 単行本
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