秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(3)接触の可能性Ⅰ 草原ルート
ユダヤ人がいた中東のオリエント世界から「東」へ向かうルートといえば、真っ先に思い浮かぶのはいわゆるシルクロード、つまり峻厳なパミール高原を越えてタクラマカン砂漠に覆われるタリム盆地に達するルートではないでしょうか。
タリム盆地まで来れば中国まではもう一息です。
しかし古代にあって東西アジアを結ぶ実質的なハイウェイは、その北のいわゆる「草原の道」と呼ばれるルートでした。
ではユダヤ民族の「草原の道」へのアプローチについて検証してみましょう。
まずその可能性として一番古いと思われるソロモン王の時代。
ソロモン王がイスラエル王国の王として君臨したのは紀元前10世紀の中頃、ほぼ40年間にわたって統治したといいます。
この時代、イスラエル王国は海外との交易の手を大いに広げ、前回では中央アジアの西トルキスタンもその範囲に含まれていたかも知れないと推測しました。
「草原の道」は位置的にはその西トルキスタンのさらに北を走っています。
ただこの時代は遊牧民はいましたが、肝心の騎馬民族(遊牧騎馬民族)というものがまだ存在しなかったと考えられます。
騎馬の技術自体は生まれていたと考えられますが、集団で草原を往来する騎馬民族は、早くても紀元前八〇〇年頃のスキタイ系キンメリア人が最初と言われており、当然それまではハイウェイとしての「草原の道」も存在しなかったと思われます。
あっても細々としたものだったでしょう。
イスラエル王国の人々が、わざわざそこを目指すとは思えません。
次の可能性は消えた十部族でしょう。
イスラエル王国が分裂したあとユダ族、ベニヤミン族、ラビ族以外の十部族による北イスラエル王国が、紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、王族・貴族層を中心とした数万人にも及ぶ人々がアッシリアに連れ去られ(アッシリア捕囚)、その後行方が分からなくなったというものです。*1
何らかの方法で十部族がアッシリアから解放もしくは脱出して「草原の道」に出会うとしたら。
まずはアッシリア捕囚の直後ぐらいに建国され、アナトリア東部からイラン高原にかけての版図を誇ったメディア王国を通過する必要があります。*2
北へ通過してカフカズ山脈を越え、黒海とカスピ海の間に至れば、当時そこは最初の遊牧騎馬民族であるキンメリア人の土地でした。
「草原の道」の西端です。
キンメリア人は十部族が捕囚されていたアッシリアに侵入しては略奪を欲しいままにしていました。
この際に十部族の人たちが連れ去られるなどして、キンメリア人と黒海北岸まで移動した可能性は十分あります。
またそうでなくてもアッシリアの地からメディアを東漸し、北へ向かえば中央アジア・西トルキスタンに至ります。
そこからさらに北のアラル海~シル川に至れば草原地帯すなわち「草原の道」です。おそらくキンメリア人か、同系のスキタイ人がいたと考えられます。
どちらにせよそこに至るには大変な道のりですが、不可能ではないと思われます。
三つ目の可能性はローマ帝国時代、すなわち民族離散(ディアスポラ)のときです。
ディアスポラの民が「草原の道」に辿り着くには、北(黒海北岸)へ向かうにせよ東(西トルキスタン)へ向かうにせよ、当時メソポタミアからイラン高原北部、そしてソグディアナとバクトリアの手前あたりまでの広範囲において強盛を誇った大遊牧帝国パルティアを通過する必要がありました。
しかしじつは紀元後の1世紀の頃、すでに黒海の北岸、とくにクリミア半島にユダヤ人たちが居住していたことが分かっています。「草原の道」の西端です。
また「草原の道」とは直接関係ありませんが、同じ時期にすでに西ヨーロッパのイタリア、ドイツ、フランス、スペインといったローマ帝国領の広い範囲に居住していました。
ローマの軍隊と共に、様々な職種(ローマに抵抗して敗れた捕虜も含む)のユダヤ人がそれらの地にやって来て住み着いたといいます。
なかでもドイツのラインラント地方に多く住んでいたといいます。
では、2つ目の十部族と、3つ目のディアスポラの民が「草原の道」を利用して東を目指した場合、東アジアまで辿り着くのは可能なのか。
そして秦氏(の前身集団)と出会うことは可能なのか。
まず十部族ですが、黒海北岸の辺りにはキンメリア人、それより東方の草原地帯にはスキタイ人が割拠していたと考えられます。どちらもイラン系すなわちアーリア系の遊牧騎馬民族です。
キンメリア人あるいはスキタイ人の同意を得られれば、彼らの助力を得て「草原の道」を東へ集団移動することは可能です。
なおキンメリア人とスキタイ人は敵対関係にはありました(のちにキンメリアはスキタイによってその土地を追われた)が、遊牧民族同士というのはその時の利害関係によって、わりと柔軟に(?)協力的関係にも敵対的関係にもなったので、「十部族を東へ送る」というプロジェクトにおいて連携をとるぐらいのことは十分にあったと思われます。
ここではあくまでユダヤ人が東へ向かう方法の「可能性」について論じていますので、そこは楽観的に考えて良いところだと思います。
話しがそれましたが、十部族が遊牧騎馬民の協力で西トルキスタンの東端、天山山脈の北側あたりまで来ればそこからは東トルキスタンの草原地帯です。
そこには月氏がいました。やはりイラン系(アーリア系)すなわちスキタイ系の遊牧騎馬民族であることが分かっています。スキタイとは交渉できる関係にあったと考えられます。
のちに匈奴が強盛となると月氏を圧迫するようになり、ついには東トルキスタンから駆逐してしまいますが、このころはまだ月氏のほうが強大で、はっきりした敵対関係でもなかったのではないかと思われます。
月氏ー匈奴の連携があれば、当時春秋戦国時代だった中国黄河流域あるいは朝鮮半島の付け根あたり~沿海州の辺りまで達することは(あくまで可能性の範疇ですが)可能だったでしょう。
また東西のトルキスタンを通らず南ロシアから南シベリアを経由して朝鮮半島~沿海州に来るルートも可能でしょう。
この場合、スキタイが直接日本海沿岸近くまで来たかもしれませんし、スキタイー匈奴の連携があったかもしれません。
どちらにせよそこまで来れば、長江文明崩壊後に各地に展開していた秦氏(の前身集団)と接触できた可能性はあるでしょう。
秦氏の前身集団は交易集団、そして遊牧騎馬民族も常に交易を必要とする集団だったことを考えれば、両者が接触する可能性はゼロではなく、その際に物珍しい(?)西方からの訪問者と接触する可能性も当然ゼロではなかったでしょう。
次に紀元1世紀のディアスポラの民の場合。
前述の通り、この時期すでに黒海北岸まで彼らは来ていたようです。
「草原の道」で当時のユダヤ人たちが東へ向かう場合、ここ黒海北岸を起点に考えたほうがよいでしょう。
この時期「草原の道」の王者は西はスキタイ、東は匈奴でした。
この場合も十部族のときと同様、「草原の道」をたどって朝鮮半島~沿海州にまで達することは可能だったでしょう。
この時、日本列島は弥生後期。
秦氏の前身と考えられるアメノヒボコが活躍(?)していた時期です。
以上、十部族にせよ、ディアスポラの民にせよ、大陸の西端から「草原の道」を経由して大陸の東端、秦氏の前身集団と出会う可能性は少なくともゼロではありません。
次は「草原の道」の南、前回は「高原・砂漠ルート」と書きましたが、つまりは「オアシスの道」について検証、といきたいところですが、今回「草原の道」や黒海北岸について述べたついでに、次回は少し脱線して言及したいことがあります。
ユダヤ人の歴史について興味のある方なら恐らく目にしたことはあるであろう「ハザール」と「アシュケナージ」(アシュケナジー)の問題についてです。
ハザールとは黒海北岸を中心とした地域を支配したトルコ(テュルク)系遊牧民国家ハザール国。
すなわちこの問題とは、東欧系ユダヤ人である「アシュケナージ」は血統的にはユダヤ人の血を全く受け継いではおらず、じつはユダヤ教に改宗したハザール国の支配層が、国が消滅したあと東欧に流れ込んだものだとするものです。
非常に重要な問題と思われますので、次回は脱線を承知でこの問題について検証していきたいと思います。
参考文献: