秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(4)草原ルート 番外編 アシュケナージとは
現在ユダヤ人は大きく二つに分けられ、そのうちドイツ・東欧系のユダヤ人の子孫がアシュケナージと呼ばれ、スペイン・中東系の子孫がセファルディーと呼ばれます。
とはいってもそれ以外の地域出身のユダヤ人も当然いるわけですが、あくまで大まかな分け方なので、白い肌に青い目という外見が白人と変わらないユダヤ人がアシュケナージ、そうでないユダヤ人がセファルディーと考えれば、おおよそ間違いではないようです。
したがって見た目がほぼ黒人種と変わらないエチオピア出身のユダヤ人もセファルディーに分けられることが多いようです。
ちなみにアシュケナージの複数形がアシュケナージムで、セファルディーの複数形はセファルディーム。
つまり集団としてのアシュケナージをとりあげる場合、アシュケナージムとするのが実は正しいので、以下アシュケナージムと表記させていただきます。
さてドイツ東欧系と云われるアシュケナージムは如何にしてアシュケナージムとなったのか。
その歴史をたどる必要があります。
まず東欧へのユダヤ人の移住は、ローマ帝国時代の紀元1世紀にすでに始まっていました。
彼らは以前からのユダヤ人の居住地であったパレスチナやバビロニアとのつながりを保ったまま、小アジア(現在のトルコ)を通って黒海の北岸、クリミア半島にまで達していました。
また西ヨーロッパへのユダヤ人の居住も、ローマ帝国時代にまでさかのぼります。
西暦70年のエルサレム第二神殿の破壊を機に最初のディアスポラ(離散)が始まり、さらに反乱に対するローマ帝国の鎮圧(西暦135年)によってユダヤ人は完全にエルサレムから追放され、世界中に離散を余儀なくされました。
西ヨーロッパではローマ帝国域内だった現在のイタリア、スペイン、フランス、ドイツなどに移住しました。
特にドイツのライン地方、ドナウ地方への移住が多く、その頃は農夫や商人、手工業の職人として従事しましたが、このローマ期からのドイツのユダヤ人がそのまま後世まで継続的に居住したとは、どうも言えないようなのです。
確実に辿ることのできるドイツのユダヤ人の歴史は、8~9世紀のカロリング朝以降のことです。
その頃おそらく北フランスや北イタリア方面から大勢のユダヤ人が、ドイツのライン地方に移住してきました。
ドイツのユダヤ人は当初から国際貿易商人として活躍する者が多く、またライン地方を中心に多くの共同体をつくり、11世紀には2万人を数えました。
彼らは世代を重ねるうちにドイツ人と同じくドイツ語を話すようになりますが、キリスト教会による13世紀の宗教会議で「ユダヤ人の隔離」が決定すると、彼らのドイツ語も次第にユダヤ色が濃厚となっていきました。
これがのちにアシュケナージムの言語となる「イディッシュ語」です。
つまりイディッシュ語とは、ユダヤ人が使用していたとはいえ言語的にはドイツ系言語(ゲルマン語派)のひとつなのですが、その中で唯一ヘブライ文字で表記される言語なのです。
また、この時点ではまだドイツ語に近いものであり、これをのちの東欧系のイディッシュ語(東イディッシュ語:後述)に対して「西イディッシュ語」といいます。
ドイツのユダヤ人たちの多くは、まもなくドイツの地を去り東へ、つまり東欧へ移動を始めます。
キリスト教徒による迫害が始まったからです。
11世紀末の第一次十字軍のときから、つまり13世紀のユダヤ人隔離の決定以前から、ユダヤ人に対するキリスト教徒の迫害が始まりました。
クレルモン宗教会議において教皇が、聖地エルサレムをイスラム教徒の支配から取り戻すよう訴えたことに対し、多くの”民衆”がその「聖戦」に参加しようと集まりました。
しかし当初からかなりまとまりを欠いたこの集団は、遠いエルサレムへ向かうことなく、手近にいた「神(キリスト)の敵」ユダヤ人に攻撃の矛先を向けました。
各地のユダヤ人の共同体やシナゴーグ、彼らの家や店舗にいたるまで、自称”十字軍”によって破壊され、略奪を受け、多くのユダヤ人が殺され、無数の難民が出ました。
このような「十字軍」による被害は、その後二世紀にわたって繰り返されました。
その後もユダヤ人に対する差別や敵意はひどくなる一方で、さまざまな中傷やデマによる迫害が続きましたが、決定的だったのが14世紀なかば頃にヨーロッパ中を恐怖におとしいれたペスト禍でした。
ネズミが媒介した疫病だったにもかかわらず、当時はそのことがわからず、ユダヤ人の仕業(井戸に毒を投げ入れたといった噂が広まった)だと思い込んだ民衆たちの暴動が各地で起こり、ドイツでは何万人ものユダヤ人が殺害され、共同体が破壊されました。
ここに至って、キリスト教に改宗するなどした「同化ユダヤ人」以外のユダヤ人たちはドイツから逃亡を始めました。
さらにユダヤ人追放令まで相次いだ(イギリスやフランスではドイツよりも早く国外へ追放されている)ことで、ユダヤ人たちは狂気の西ヨーロッパ*1を避け、何千人単位でより安全と思われた東欧へと逃れました。
ここで二種類のアシュケナージムが誕生しました。
ひとつはキリスト教に改宗するなど(改革されたユダヤ教を信仰する者も多くいた)してドイツに残り、ドイツ語を話し、ドイツの文化を愛した(愛するように努めた)「同化ユダヤ人」。
もう一つがユダヤの習慣と信仰を守り、イディッシュ語を話し、東欧に逃れた東欧ユダヤ人。
どちらもアシュケナージムです。
さてドイツから東欧に向かったアシュケナージム。
彼らは東欧に移り住んでもイディッシュ語を使い続けますが、スラヴ語の影響を受けるようになり、 ユダヤ人の言葉としての独自性を強めました。
それが「東イディッシュ語」です。
西イディッシュ語が、その後17世紀のドイツでユダヤ啓蒙主義者たちによって恥ずべき言語とされて廃れてしまったのに対し、東イディッシュ語の方はその後ユダヤ人(アシュケナージム)の主要言語として発展していきました。
彼らはそこ東欧で、東イディッシュ語によって豊かな文化を花開かせるのです。
話は前後しますが、ドイツから東欧に向かったアシュケナージムの具体的な移動先は現在のチェコ、ルーマニア、リトアニア、ポーランドで、中でも特に多かったのがポーランドでした。
先ほど紀元1世紀にオリエント地域から直接、黒海北岸クリミア半島(いまのウクライナ)に、ユダヤ人の東欧最初の移民があったことを述べましたが、彼らはもちろんイディッシュ語を話すアシュケナージムとは全く別系統のユダヤ人です。
ドイツから東欧に移動したアシュケナージムも、この時点ではいま述べたようにウクライナのあたりまでは来ていません。
ドイツ語に近いイディッシュ語を話す彼らにとって、やはりドイツ語が曲がりなりにも通じる地域を選んだのかも知れませんが、それにはもっと別の強力な理由がありました。
ポーランド王国からの移住への呼びかけと、熱烈な歓迎でした。
当時のポーランド王国は、モンゴルやタタールなどの侵入・略奪によって国土が荒れ果て、国力がすっかり弱体化していましたので、国の立て直しと経済の活性化が必要でした。
そこで王侯や貴族たちは、ドイツでの迫害から逃れてきた、優れた職人や商人でもあるユダヤ人を積極的に招き入れ、手厚い保護と厚遇を与えることにしたのです。
歓迎されたユダヤ人たちは、数千人ずつの集団となってポーランドの各地に入植し、その期待に応えるように優れた技術や知識・経験を生かしてポーランドの発展に貢献しました。
その成果もあってポーランドは次第に強国となり、16世紀にはリトアニアを併合して、北はバルト海から南は黒海まで広がりました。
その際の植民化にもユダヤ人は大いに貢献したといいますから、当然イディッシュ語を話すアシュケナージムもその範囲に拡がったということです。
このように15、6世紀にユダヤ人=アシュケナージムは東欧、とくにポーランドで、これまでで最高の繁栄と安全な暮らしを謳歌しました。
しかし17世紀に入ってまた不幸が彼らを襲います。
当時ポーランド領となっていたウクライナのコサックたちは、ポーランドの貴族から様々な重い税を課され、苦しめられていました。
ユダヤ人も貴族の手先となって農地を管理したり、税を取り立てていたといいます。
1648年、圧政に耐えかねたコサックたちは反乱を起こし、多数のポーランド人が殺害されましたが、ユダヤ人たちも標的となって集落が破壊され、多くが殺害されました。
この反乱は10年も続き、10万人のユダヤ人が虐殺されたといいます。
現地ウクライナのユダヤ人たちは今度は西へと逃亡し、ハンガリーやドイツ、オランダへと向かう路上には、彼らの姿があふれていたそうです。
これでイディッシュ語(東イディッシュ語)を話すアシュケナージムの一部が17世紀の時点でハンガリーやドイツ、オランダにまで広がりました。
悲劇はまだ続きます。
ウクライナ以外のポーランド領内にはまだ、多数のユダヤ人たちが暮らしていました。
しかしコサックの度重なる反乱と戦闘、そして18世紀初頭のロシアやスウェーデンの侵入などにより、ポーランドはすっかり弱体化し、国土は荒廃しました。
それに目を付けたのがロシア、プロイセン、オーストリアの三国で、18世紀後半の三度にわたって、ポーランドの国土を分割しました。
プロイセンは西ポーランドを、オーストリアはポーランド南西部を、そしてロシアは残りのポーランドの大部分とリトアニアを獲得し、領土としました。
ポーランド各地に居住していたユダヤ人たちも、三国それぞれの支配下に置かれましたが、なかでもロシアに編入された500万人(!)ものユダヤ人たちは、ロシア本土のなかでも発展の遅れていた西側部分に居住区を設定されて活動の自由を奪われ、ロシア政府による圧政を受けるようになりました。
これでアシュケナージムの多くがロシア国内にまで広がりました。
1881年、ロシアで悪名高い「ポグロム(反ユダヤ暴動)」が頻発し、これ以降、ロシアから多くのアシュケナージが避難し始めます。
向かう先は、ドイツ・オーストリアや西ヨーロッパ、そして一番多い6割が向かったのがアメリカです。
アメリカにはすでに、17世紀にスペインから追放されたセファルディームが、19世紀前半から半ばにかけてはドイツやチェコ、ハンガリーなど中欧からドイツ語を話すドイツ系ユダヤ人がアメリカに移住し、定着していました。
とくにドイツ系ユダヤ人は中産階級を成すまでになっていましたが、その後に、東欧からイディッシュ語を話す多くのアシュケナージムがアメリカに流入したのです。
その数は200万人にも及んだといいます。
もともと「同化ユダヤ人」が多く残っていたドイツにも東欧ユダヤ人は多く流入し、20世紀初めごろには10数万人、同化ユダヤ人も含めたユダヤ人全体の20%にまで増えました。
また西ヨーロッパ各国にも迫害や追放令の際も「同化」して残った多くのユダヤ人*2や、移住してきたアシュケナージムがいました。
またポーランドやロシアをはじめとする東欧にも、多くのアシュケナージムが残っていました。
彼らは第二次大戦時に全ヨーロッパを席巻したナチスによる迫害、さらにはホロコーストを逃れて、多くが南北アメリカへ、さらにシオニズム運動の影響でパレスチナへと逃れました。
これが後の1948年イスラエル建国にまで結びつくのです。
これがアシュケナージム(アシュケナージ)の、ざっと大まかな歴史です。
長くなって申し訳ありませんでしたが、最低限この程度までアシュケナージムの歴史を明らかにしておかないと、ハザールとの問題には迫れないのです。
次回はアシュケナージムとハザールの関係について検証したいと思います。
参考文献: