秦氏の謎2 秦氏とユダヤ人(1)日ユ同祖論、秦氏=ユダヤ人説について
「日ユ同祖論」という説(?)があるのは皆さんご存知でしょう。
ユダヤ人(イスラエル人)と日本人双方で、幾人かの論客が主張する日ユ同祖論には、いくつものバージョンがあるようですが、きわめて大雑把な説明をすれば、アジアの東の果ての日本人と西の果てのユダヤ人が、じつは先祖を同じくする同族だとするものです。
もう少し詳しく説明すると、有名なソロモン王の死後、前九三〇年頃、全十二部族(+ラビ族)によるイスラエル王国が十部族の「北イスラエル王国」と二部族(とラビ族)の「南ユダ王国」に分裂しますが、そのうち北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされて国民、すなわち十部族がアッシリアに連行されます。
その十部族がアッシリアが滅んだ後、跡形も無く消えてしまっていたという、いわゆる「失われた十部族」が、実は東を目指して遠路はるばる日本列島に辿り着いた、とする説です。
いまの世界中にちらばっているユダヤ人や現イスラエル国の住人であるユダヤ人たちは、じつは皆、南のユダ王国の末裔なのであり、十部族の人々は「失われた」ままなのです。
絶対に何処かにその子孫がいるはずだとして、何故だか風習や宗教、モノの考え方等がよく似ている日本人がそれなのではないか、というのがこの説。ザックリと言えば。
一方で残った南のユダ王国の末裔、ユダヤ人が日本列島に来たという説もあるのです。
どちらの説もさらにいくつかのバージョンがあるようです。
なかでも有力なものとして秦氏=ユダヤ人ではないかとする説があるのです。この説の「ユダヤ人」も十部族(の中の一部族)だったり、ユダ王国系のユダヤ人だったりします。
ワタシもこの手の話は昔から大好きでして、枕元においてはこれまで結構な数の本を読んできました。
日ユ同祖論、秦氏=ユダヤ人説どちらにせよ論客の方々たちは様々な”証拠”を挙げています。
なかでも最近この分野で第一人者になりつつある久保有政氏の著作は「出来るだけ客観的に、科学的に」という姿勢が見られ、好感が持てます。
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同様のことは、その著作で聖徳太子の”正体”を、痛快なまでに論理的に解き明かして見せた中山市朗氏にも言えます。
もっとも中山氏は(あくまで論理的に考えて)秦氏=ユダヤ人説を否定も肯定もしないが、可能性は否定できないという立場のようです。
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ワタシもある意味、中山氏と同様の立場と言えるかもしれません。
つまり、否定も肯定もしない(というよりできない?)が、可能性まで否定できない、ということです。
まず、この説を主張される方々の”証拠”というのはどれも明確な物的証拠ではなく、状況証拠と言いますか、あくまでリクツの上での傍証にしかならないものです。
つまり、旧約聖書に書かれている具体的なモノや、現在のユダヤ文化にも残っているモノ、あるいはヘブライ文字が書かれた遺物なりが、日本で見つかっているのかと言えば、当然見つかっていないわけです。
また大事なところなのですが、ワタシは当ブログの前のシリーズ「秦氏の謎 いつ、どこから来たのか」で、”秦氏は長江文明の末裔、越人の末裔である”と主張しました。
長江文明は四大文明のどこよりも古い起源を持ち、四千年ほど前に既に”崩壊”してしまった文明です。
つまり統一イスラエル王国が北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂するよりも、さらに千年以上前に長江文明は崩壊したわけです。
前シリーズで述べたように、秦氏(の前身となる集団)はすでにその長江文明において「玉交易」を担っていたと考えられるのです。
つまり、秦氏がユダヤ人の末裔であるはずがない、というのがとりあえずのワタシの考えです。
にもかかわらず、では何故ワタシはこのような話をわざわざ持ち出したのか。
ひとつには、日ユ同祖論者、秦氏=ユダヤ人説の論者の挙げる”証拠”には、明確な(物的)証拠となり得るものはないが、かと言ってそれらを”明確に”否定できるのかと言えば、否定できないものも多いということ。
そしてもう一つ。
何よりも、長江文明の民でありその末裔であった「秦氏の前身となる集団」には、ユダヤ人との接点をもった可能性があったかも知れない。
そう考えているからです。
今回のシリーズでは、その「接点」の可能性について探っていきたいと思います。
「接点」さえあれば、交易集団だった彼らのこと。
ユダヤ人の文化を取り入れたり伝えたりもできたかもしれない。
あるいはユダヤ人そのものを、勝手知ったる日本列島に案内も出来たかもしれない。
あるいは、ユダヤ人との婚姻関係、すなわち秦氏集団のなかにユダヤ人の「血」が入るという事態さえ起きたかもしれない。
ひょっとしたらそれが、単なる交易集団だった彼らが「秦氏」という氏族集団に結束する要因になったのかもしれない。
少し先走りし過ぎましたね(笑)。
次回からはその接点の可能性について、つぶさに検証していくことになりますが、さてどこから話を始めればよいものやら(笑)。
ちなみに遅れましたが、ここでは日ユ同祖論・秦氏=ユダヤ人説の詳しい内容(数々の”証拠”等)については、触れるつもりはありません。
というか、ワタシごときが述べると、ただの「引用だらけ」になってしまいますので。
興味のある方は他の書籍等で確認してみてください。
やはりオススメは久保有政氏の著作でしょうか。
ではまた次回。
秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(9)長江文明と縄文の交易、そして大量移民
長江文明は日本列島の縄文文明に、縄文前期(7300-5500年前)の頃から関わっていました。
問題は、そこに「交易」は存在したのかどうか。
もしそうなら、長江文明において交易を担ったと推測される秦氏の前身となる集団が、その海上交易にも関わっていたのかどうか。
まず縄文の「海上交易」について見てみましょう。
じつは縄文よりはるか以前の旧石器時代の日本列島には早くも、遠隔地との遠距離航海による「交易」活動があったことが確実視されており、さらにその専門集団の存在さえ想定されています。
この旧石器時代にはすでに原始的な「帆」を付けた丸木舟レベルのものがあったことは確実と言われています。
縄文時代にも活発な海洋交易(それもかなりの遠距離の)があったことは、各地の出土物の分布から確実視されています。
長野県のような内陸との交易でさえ、河川を利用して海上まで出ていたと考えられています。
日本列島の土壌は酸性が非常に強く、木材は出土しにくいのが現状ですが、それでも丸木舟は各地の縄文遺跡から百数十艘出土しています。
一般に丸木舟(単材刳り舟)では、”舟の前後端部に反り上りがない”ことや、”船幅に制約がある”ことから、外洋向きではなかったとされています。
しかし海の専門家によれば、波除の板で囲ったり、アウトリガー(腕木)付きや双胴型の大型カヌーにすることで積載量を増し、耐航性を持たせることは可能だといいます。
前述したように縄文期の人々はすでに、高床式など手の込んだ構造物を金属が無くても建築する高度な技術(すなわちほぞ穴・えつり穴等や渡腮仕口の部材組み合わせ技術)を持っていました。
さらにアスファルトや漆による接着・接合・充填および耐水の技術を持っていたことから推しても、それらを応用して外洋航海用の舟を造ることは可能、というより簡単なことだったとさえ考えられます。
交易ということを想定する場合、陸上での長距離移動は所持物も限定され、疲労も大きく、食料も不安定、大河や湿地ではたちまち行き詰まる、さらに猛獣や毒虫・細菌などの危険も大きいことなどを考えれば、長距離移動を目指すには「海上」は、それなりのリスクはあるものの、「陸上」よりはよほど安全で効率的な交通路であった、というのが海の専門家の見方のようです。
長い航海には飲料水の確保も大きな問題となります。
その面でヒョウタンは当時の航海に必要不可欠で大いに活用されたと考えられます。
日本列島には自生しないヒョウタンが、縄文前期においてすでに他の南方栽培植物とともに見つかっていることは以前に述べましたが、それらは野生のままでは冬を越せないものもあり、明らかに出土地(福井の鳥浜・青森の三内丸山)で栽培されていたものだと、福井大学教授の小林道憲氏は述べています。
この事実は、遅くともその頃には航海民たちが「目的」をもって日本列島にやって来たことのみならず、(ヒョウタンが栽培されていたということは)日本列島においてもその沿岸部を拠点にした航海民たちがいたことを物語るものだと考えられるのです。
縄文期の交易品で有名なのはヒスイや黒曜石、アスファルトなどですが、他にも塩や装飾品に加工される珍しい貝殻、そして干物・干し肉や塩漬け、さらには発酵させた嗜好品(塩辛など)等、保存が効くように加工されたサケをはじめとした魚介や獣肉などの食料加工品などもあったでしょう。
能登の真脇遺跡でイルカが多数捕獲されていたことが確認されていますが、これなども従来言われているような干し肉にする以外に、交易品としても大変貴重な「油」を大量に採るためだったのではないかとワタシは考えています。
一万年以上にわたる縄文時代において、このような交易が恒常的に行われていたならば、当然そこには海路、潟や河川などの水路、さらには水路から離れた地へも運ぶための陸路をも利用した、確固とした「交易ネットワーク」が在ったはずです。
特に遠隔地との海洋交易の場合、様々な専門知識が必要であることは言うまでもありません。交易を専門にする集団、すなわちプロの交易民が存在したとも考えられています。
単独あるいはその時限りの交易ならともかく、恒常的な「海の交易ネットワーク」で重要となるのは「潟湖」です。
いつも波のおだやかな「潟湖」は海から直接出入りすることのできる天然の良港ですが、特に潟湖が多かったのは日本海側です。
前出の小林道憲氏は、当時スギの巨木が林立していた日本海側の潟湖は、「縄文の造船センター」の最適地として発展していたと推測しています。
日本海側の豪雪地帯で多く見つかる縄文前期~中期の「ロングハウス」と呼ばれる大型建物は、雪国特有の共同作業所ではないかとも言われていますが、小林氏はこれについても遠隔地交易の「市場」や(交易民集団のための)「宿泊施設」としても必要だったとしています。
ワタシは同じく日本海側で多く見つかる縄文中期以降の「高床式建物」も、貴重な交易用の品を貯蔵する倉庫としても使われたのではないかと推測しています。
このように縄文期、日本列島内における遠距離海洋交易はあったと考えられます。
では長江文明と縄文日本列島との間に、海洋交易はあったのかどうか。
ここまで見てきた通り、双方の技術的には可能だと考えて良いでしょう。
しかしその証拠(つまり互いの交易品)は見つかっていません。*1
そうはいっても互いの交易があった可能性がゼロというわけでは、もちろんありません。
技術的には十分可能であり、また少なくとも長江文明側からの往来があった可能性は非常に高いのですから。
その交易・交流は、距離的な問題もありますから頻繁なものではなく、あったとしても季節風などを利用した年に一度か二度の往来だったのではないでしょうか。
そして縄文中期、突然の大事件が起こります。
長江文明からの大量の移民、ボートピープルがやって来たのです。
縄文期において人口が大幅に増えたのは前期~中期ですが、とくに中期になると人口(遺跡数)は爆発的な増加となり、また列島各地の土器装飾に「リアルな蛇」の意匠が”突然”あらわれます。
高床式建物が日本海側各地で建てられるようになるのも、この時期です。
この時期に「蛇信仰」を持つ集団が、大挙どこからかやって来て勢力を拡大したという政治的・文化的動きが背景にあったと考えられます。
この集団とはもちろん、長江流域に住んでいた越人の集団でしょう。
かれらが太陽信仰に基づく蛇信仰をもっていたことは以前のべましたが、漢代においても漢人たちは越人のことを「蛇族」であると記録に残しています。
縄文中期に越人たちが長江流域から大量に来たのは何故でしょうか。
それは五三〇〇年前(一説には五千年前)、ユーラシア全体を襲った「小寒冷期」と呼ばれる気候変動があったことが、そもそもの原因です。
このころ、中国の北方でも紅山文化という高度な文化が発展していましたが、恐らくはこの寒冷化のあおりを食って間もなく消滅します。
この紅山文化の一部や黄河流域の人々が大挙して、あたたかな南に向けて移動しようとします。
南、すなわち長江文明はその圧迫と侵入をもろに受けますが、逆にそれが刺激となって巨大都市が各地に出現するという発展の時期(安田氏によれば「メガロポリス」の時代)を迎えることになります。
長江文明の玉器文化は紅山文化から伝わったのではないかともいわれます。
この際、単に発展しただけではなく、(考え方も文化も言葉も異なる異民族との接触を嫌って)長江を下って海外への脱出を試みる人々も大量にあったと考えられます。*2
そのとき長江河口域から船出して向かう地として、最も容易で有望だったのが、遥か以前から往来と交流があり勝手知ったる日本列島、とくに対馬暖流に乗った先の日本海側だったのではないかと考えられます。
その後も寒冷期の波は幾度か押し寄せますが、特に大きかったのが四ニ〇〇~四〇〇〇年前の「大寒冷期」で、長江文明もついにこの時崩壊します。
この時長江文明の民はその上流に逃れ、三星堆遺跡やのちの滇文化を発展させたと考えられていますが、逆にこの時も「海」へ逃れた人々が大量にいたはずです。むしろその方が多かったのではないでしょうか。
しかしこのとき縄文は後期を迎えていますが、長江からの大量移民が来た兆候は見られません。
逆に縄文後期は人口がガクッと減少した時期なのです。
では大量に発生したはずの長江からのボートピープルはどこへ向かったのでしょうか。
「大寒冷期」というほどですから、北方の海よりも南の海を目指したのではないでしょうか。
ワタシはそれこそが、四千年ほど前に南シナ海に突然現れ、そこからさらに長い時間をかけて南太平洋各地に拡がった「ラピタ人」、すなわちいまのポリネシア人の祖先ではないかと考えています。
彼らはオーストロネシア(南方)語族を形成しましたが、その故郷は中国の長江流域とその以南と考えられています。
話が大分それてしまいましたが、ワタシは縄文中期に「太陽信仰に基づ蛇信仰」をもって渡航してきた大量移民の中に、のちに秦氏となる交易集団もいたのではないかという仮説を立てています。
前述したように秦氏も「蛇」の名を持つ「太陽信仰に基づ蛇信仰」の集団です。
さらに秦氏が白山(シラヤマ)信仰に深く関わっていたことも、その前身集団が縄文から日本に関わってきたことの一つの傍証ともなるのですが、これを説明しだすと恐ろしく長くなってしまうので、興味がある方は拙著『影の王』を参照してみてください。
ただワタシも秦氏というひとつの「血族」が何千年の長きにわたって、その血脈を保ったとは考えません。
当時渡って来たその集団はひとつの血族というより、あくまで交易を目的とする集団であり、現在で言えば貿易会社のようなものだったと考えられます。
だとすれば彼らは日本列島に安住するのではなく、中国大陸~朝鮮半島や日本列島に囲まれた、東シナ海から日本海にかけての「東アジア地中海」を真の本拠として、各地に拠点を持ちつつ活動していたのではないでしょうか。
彼らは優れた航海民の末裔として、その後も中国大陸・朝鮮半島・日本列島に深く関わり、アメノヒボコとして本格的に日本列島に移住する頃には、古朝鮮語で「パタ」、古日本語で「ワタ」、すなわち「海」を意味する「ハタ」を名乗るようになったのではないか、というのがワタシの考える仮説です。
「秦氏の謎 いつ、どこから来たのか」の話はこれで終了です。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
結論としては、「秦氏として本格的に移住してきたのはアメノヒボコとして来た弥生期だが、縄文中期から長江文明の交易民(の末裔)として日本列島には関りを持っていた」というものです。
次回からは、ここまで述べてきたことなども踏まえて「秦氏とユダヤ人の本当の関係」について迫ってみたいと思います。
お楽しみに。
参考文献:
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
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*1:例えば縄文の日本列島には硬玉ヒスイを加工した玉器の遠距離海洋交易があったであろうことは分かっています。
前出・安田喜憲氏は縄文中期(5500-4500年前)に爆発的に盛行した日本の玉器文化は、同じく玉器文化であった長江文明の影響があった可能性が極めて高いとしています。
ただ日本のヒスイは硬玉であるのに対し、長江文明をはじめとする中国における「玉」はすべて軟玉と呼ばれるもので別の鉱物です。
硬玉・軟玉それぞれの玉器が互いの地で出土した例はいまのところありません。つまり玉器においても、その文化は一方に伝わったとしても、それぞれの玉を互いに交換品として交易した証拠は無いのです。
*2:言語学もこのことを裏付けている。言語学者の崎山理氏は、古代中国において北方からのアルタイ系民族の侵略による「大きな民族交替」があり、その結果中国南部の「越」の地からオーストロネシア語族の祖先が押し出され、「新天地」へと出ていったと述べている。
秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(8) 長江文明と縄文文明
日本独自の文化、精神性を一万年以上もの長きにわたって培ってきたと言われる縄文文明。
しかしその縄文文明でさえも、海外の影響を大いに受けたものであることが分かってきています。
「海外」という言葉が示すように、四方を大海に囲まれた日本列島の文化が、それ以外の地域から影響を受ける場合、それは必ず「舟」を介して、ということになります。
つまり縄文文明が海外の影響を受けたというのならば、早くも日本列島に向けて航海してきた集団がいたということなのです。
縄文文明が受けたもっとも大きな影響、それこそが長江流域とそれ以南の江南地方から受けたものなのです。
前出の安田喜憲氏はその著書のなかで、長江文明と縄文文明の「交流」について重要な指摘をしています。
引用すると長くなるので要約しますと、
- 縄文前期・中期に代表される高度な文化は、長江文明の大きな影響を受けた可能性が高いこと。
- 例えば三内丸山遺跡や縄文前期(7300~5500年前)の福井県鳥浜貝塚からは、長江下流域の河姆渡遺跡(およそ7000~6500年前)出土のものと酷似した鹿角斧(ろっかくふ)が出土していること。
- 同じく三内丸山や鳥浜からは漆やヒョウタン、豆類が出土しているが、河姆渡でも漆を使い、ヒョウタンや豆類を栽培していたこと。
などを挙げています。
ここで補足しておきたいのですが、「漆」に関しては日本列島のほうが河姆渡よりもニ千年ほども早い、縄文早期九千年前の漆製品が見つかっており、また一万ニ六〇〇年前のウルシの木片が見つかっています。
このことから漆の伝播についてはむしろ逆で、日本列島から河姆渡に伝わった可能性のほうが高いのだと言えそうです。
つまり河姆渡から縄文に一方的な文化の伝播があったのではなく、互いの交流があったと考えられるのです。
河姆渡は七〇〇〇~六五〇〇年前頃で、河姆渡文化と呼ばれますが、長江中・下流域に栄えた長江文明は(人によって見方は違うようですが)一番古い見方では一万六〇〇〇前(つまり縄文文明と同じ時期)まで遡るといいます。*1
つまり河姆渡と縄文の文化の交流は、長江文明と縄文文明の交流なのだと言えます。
さらに前出の諏訪春雄氏は縄文が長江文明(諏訪氏は江南文化と表現)から受けた影響として、黒色磨研土器などいくつかのものを挙げていますが、特に興味深いのが高床式建築です。
高床建築ともいい東南アジアや南太平洋のほか、長江流域とその以南でもっとも普遍的にみられる南方の建築様式で、河姆渡遺跡をはじめとする長江中・下流域の遺跡で多数見つかっています。
日本列島でもすでに縄文中期(5500~4500年前)の日本海側の多くの遺跡で見られます。
特に富山県にある縄文中期の桜町遺跡では、用途にあわせた何種類もの高床式建物の遺構が発見されています。
柱材、梁材、桁材、壁材など多数の用材が出土しており、それらには「ほぞ穴」や「えつり穴」「貫穴」など部材を組み合わせるための加工が施されていました。
中でも驚くべきは「渡腮仕口(わたりあごしぐち)」という、これまで飛鳥時代の法隆寺金堂に使われたのが最古とされてきた高度な技法の跡まで見つかったことです。
つまりこの高度な技法が縄文中期にまで遡るということです。
このような長江流域由来の高床式建築が日本海側の多くの縄文中期遺跡から見つかっている。これが意味することは何でしょうか。
それはつまりその時期、長江流域からその建築技術を持った人々が、一人二人偶然に流れ着いたということではなく、おそらくは集団で渡航してきたのだと考えられます。
それは渡航先すなわち日本列島の情報(渡航ルート、海流、季節ごとの気候・風、どのような土地土地にどのような人々が居住しているか、など)を詳細に知っていないと出来ないことです。
縄文前期に栽培植物を持ち込んできた時点で、すでにそのような情報を彼ら長江文明人は持っていたに違いありません。
それは彼らがすでに日本列島との間を往き来していたことをも推測させますが、優秀な航海民であった長江文明の民・越人にとっては、それも難しいことではなかったでしょう。
優れた航海民であった越人は、縄文前期から日本列島に関りを持ち、頻繁ではなかったかもしれませんが恐らく往来もしていた。
これは日本列島に限ったことではなく、長江河口域から大海に乗り出していた彼ら越人は、長江以南の沿岸地域、台湾、東南アジア、北の山東半島、朝鮮半島南岸地域などにも展開したと考えられます。
一説には、さらに日本海北方のツングース族のルーツが、長江流域から海路、北方に移動した人々が現地の狩猟民族と出会ったことによるとも言われるほどです。
それはともかく、日本列島に限って言えば縄文前期から長江文明は日本列島の縄文文明に関わっていたことは間違いないと思われます。
問題はそれが「交易」と言えるものだったかどうか。
だとすれば、長江文明の秦氏の前身となる集団が関わっていたのかどうか。
それはまた次回で。
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
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秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(7) 長江文明と西域
長江文明が西域と関わっていたのかどうか。
長江文明を研究する安田喜憲氏によれば、長江文明の大きな特徴のひとつとして、玉(ぎょく)を愛し、玉にこだわった「玉器文明」であることが挙げられるといいます。
ヒッタイト文明は鉄の文明。
従来から知られる世界の古代文明は、このように金属の利用に特長が見られる、華やかで、かつ、強い文明です。
これらはまた、畑作牧畜民の文明でもあります。
つまり古くから知られるこれら畑作牧畜民による古代文明は、きらびやかな金属の装飾品を「財宝」とし、強力な金属の武器で争い合うことを好む「男性原理」の文明です。*1
これらの文明は、それぞれの文明の内外で互いに征服を繰り返し(それが後世に残りやすい「歴史」を作ることにもなる)、華やかな金属の工芸品や武器はその文明の特長や歴史を分かり易いものにします。
一方、稲作漁撈民による長江文明が重要視したのは、おもに祭器として加工された「玉」だったのです。
長江文明にも金属が無かったわけではありませんが、当初は文明を特徴づけるほど発達しなかったようで金属の武器も無かったと思われます。
このシリーズの当初でアメノヒボコの特長とともに、長江文明の特長として、「優れた鉄製品」ということを挙げましたが、実はこれは独立した文明としての長江文明が崩壊した四〇〇〇年前以降のことなのです。
つまり長江文明の特長というよりはその後裔民族・越人の特長といったほうがいいかもしれません。
先述のように長江文明は異常な寒冷期となった四ニ〇〇~四〇〇〇年前に崩壊します。
その直接の原因は寒冷化による食糧不足のため、北の黄河流域から金属の武器を携えた畑作牧畜民(これが黄河文明の民となる)が侵攻してきたことによります。
それまで長江の中・下流域で比較的(あくまで「比較的」ですが)平和で穏やかな文明を築いてきた長江文明の民は、おそらく東西に分かれて流亡したと考えられます。
西に逃れた人々は、長江上流域で後続的な文明を維持しますが、それはもう玉器よりも金属への強い志向を持った文明でした。
四川省の三星堆遺跡(3700-2900年前)や、その後発展した雲南省の滇文化の遺跡からは玉器よりも青銅器や金器が大量に出土するようになります。
優れた鉄製品はさらに下って春秋戦国時代の楚や呉越のことになります。
話が少しそれてしまいましたが、長江文明は玉を愛した「玉器文明」でした。
ではなぜ長江文明はそれほどまでに「玉」にこだわったのか。
前出の安田氏によれば、それは「玉」が山で産出するものだからで、つまり「玉」は「山」の象徴なのだといいます。
氏によれば稲作漁撈民にとって「天と地の交流と結合」が、豊穣性をもたらす最も大切な事柄で、高くそびえる山はまさに「天と地の架け橋」でした。
その「天と地の架け橋」である「山」を象徴するのが、山中やそこから流れ出る清流で採れる美しい「玉」だったのです。
長江文明の民は「天と地の架け橋」である山を崇拝する山岳信仰の持ち主でした。
山はまた稲作に豊富に必要とされる水の源でもあります。
玉は信仰対象である「山」をぎゅっと凝縮したシンボルであり、山の霊力をも宿すと考えられたのでしょう。
では彼ら長江文明の民(越人)が神聖視したその「玉」は、いったいどの「山」から産出するものだったのでしょうか。
それは長江上流をずっと遡ったさらにその先、なんとタクラマカン砂漠の南に連なる白い山脈、崑崙(コンロン・クンルン)山脈だったのです。
西域も西域。いまは新疆ウイグル自治区となっているその地域は、東アジアというよりもう中央アジア、西域のど真ん中です。
のちのシルクロードにおける「西域南道」となるところでもあります。
さすがの長江もそこまではのびていないので、そこで出た玉が自然に長江流域まで流れ着くことはあり得ません。
人の手で運ばれた。
つまり交易です。それしかありません。
信じ難いことですが、長江文明は発展していた数千年前、すでに長江流域と崑崙山脈北麓には、長江文明の人々が優れた「玉」を得るための「交易ルート」が存在した。
安田氏もそこまでは言及していません。あくまでワタシの私見です。
しかし、長江文明の遺跡から多量に出土する精巧な玉器の存在する理由を鑑みれば、それしか考えられません。
ただ、”交易ルートが存在した”と言っても、そこは険しく困難で、人の生命さえたやすく奪われかねない地域を越えて、はるか遠くまで物資を運んで往き来しなければならないのです。簡単なことではありません。
そのルートを確立するまでも気の遠くなるような時間がかかったでしょうが、それはともかくそのようなルートを往き来して交易するには、それを専門とした集団がいたはずです。
それが長江文明における、秦氏の原型となる集団だったのではないか。ワタシはそう考えるのです。
このシリーズの最初で述べた秦氏の特長は、絹織物業(養蚕~機織)、金属業(採鉱~精錬・加工)、水利土木とともに、「水運・陸運」、「交通拠点の掌握」、「商業(交易)」がありました。
秦氏集団は、この日本列島に来てすぐにこの特徴を発揮したように見えます。
つまり秦氏集団が大陸すなわち長江流域にいたころから既に、これらの特長を持っていたと考えるのが自然です。
長江文明はほぼ確実に、西域との交易ルートを確立していた。
その長江文明出身と考えられる秦氏集団は、「水陸の交通」とそれを利用した「商業交易」を(長江流域にいたころからすでに)得意としていた。
とすれば、長江文明と西域の崑崙山脈北麓との「玉交易」を担っていたのは、のちに秦氏となる集団(の原型)だった。
というよりは、その集団が交易を独占するにつれて、一族としての結束を強めていったであろうことは、想像に難くありません。
崑崙山脈北麓でも特に「玉」を産出する地域があります。
ホタン(ホータン)です。漢字で「和田」と書きます。
のちに秦氏となる集団ゆかりの地としては、偶然とは思えないようなふさわし過ぎる地名(笑)ですが、面白いといえば面白い事実ではあります。
前回述べたように長江文明の太陽信仰が、西域よりもさらに西に割拠していた、のちにペルシャ人・インド人となるアーリア人に伝えられたのだとしたらそれは、(前回述べたような)長江文明崩壊の四〇〇〇年前よりもさらに以前から西域に関わっていた、秦氏の前身となる集団によるものなのかもしれません。
ともあれ今回ここで言えることは、
の二点です。
しかし、ここでまた一つ疑問が出ます。
長江文明の民の大きな特徴は、「優れた航海民(海洋民)である」ことでした。
そのなかでも交易を担い、しかも日本の古語でワタ、古朝鮮語でパタ、つまり「海」の意味をもつ秦氏の前身となる集団が、逆に内陸(西域)方面の交易だけに甘んじていたのでしょうか。
彼らはさらなる活動場所として、長江を下った先にある「海」に目を向けることはなかったのでしょうか。
次回はその辺りのことについて考えたいと思います。
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*1:エーゲ文明についてはその限りではなく、むしろ「女性原理」的な文明だったと思われます。
秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(6) 牛祭りとミトラ信仰
広隆寺といえば「牛祭り」。
京都三奇祭のひとつで、もともとは広隆寺の境内社・大酒神社の祭りでした。
祭りの主役は摩多羅神(マタラジン)。
大きな白い面をつけた摩多羅神が牛の背に乗って現れ、境内を巡行したあと、祭文をおかしな抑揚で読み上げ、それを周りの参拝者たちが罵詈雑言を浴びせかけ(笑)、読み終えるとマタラ神と四天王は脱兎のごとく堂内に駆け込んで祭りは終了、となります。
なんとも意味のつかめない奇妙な祭りですが、問題は摩多羅神。
摩多羅神を描いた絵が現在に残っています。
その摩多羅神は上半身柿色・下半身緑色の狩衣を纏っており、左手に鼓をもって右手でまさに打たんとしています。顔には不気味な笑みが浮かんでいます。
左右両脇には二人の童子を従えていますが、彼らの衣装も配色さえ違えど、やはり柿色と緑色の衣装を纏って踊っています。
この柿色と緑色というのは特別な配色で、「異類異形」とも呼ばれた芸能民・宗教民が好んで使った色で、自分たちが「神」に近いことをアピールする色でした。近世の芸能民の代表である歌舞伎の舞台に使われる緞帳も、まさにこの2色が使われていることに気付かれるでしょう。
摩多羅神はこのような色の狩衣を纏い、鼓を手にしている。
まさに芸能の神ですが、実は古代から中世にかけての多くの芸能民が、秦河勝を始祖とする伝承を持っていたのです。
秦河勝こそ摩多羅神だとする説さえありますが、それはともかく、秦氏と摩多羅神の関係が深いということは理解されるのではないでしょうか。
秦氏の氏寺・広隆寺といえば、むしろ有名なのは国宝でもある弥勒菩薩像でしょう。
釈迦の入滅後56億7千万年後に救世主的に現れるという弥勒菩薩。
「ミロク」というのは、梵語(サンスクリット語)の「マイトレーヤ」から変じたとも、またマイトレーヤの元となったペルシャの「ミスラ」(インドでは「ミトラ」)神が後にクシャーナ朝において「ミイロ」となったものがさらに変じたものとも、同じくパルティアで「ミフラク」となったものが変じた、などいくつかの説があります。
このペルシャ・インドが分かれる以前(つまりアーリア人)に起源を発するとされる神ミスラ(ミトラ)は太陽神です。
このミスラ神から変じたミロク仏はインド北方インダス上流域~アフガニスタンの辺りから、シルクロードを経て東アジアに伝えられたとされています。
一方、ローマに伝わったミスラ神はミトラス神となり、ミトラ教という秘教に発展します。
ローマのミトラ教のミトラスもまた太陽神ですが、もう一つの大きな特徴は「牛を屠る神」ということです。いわゆる聖牛供犠ですが、つまり牛を生贄にする「殺牛信仰」でもあったということです。
先日、マンガ家のヤマザキマリさんがナビゲーターを務めたNHKの番組『微笑みの来た道』が放送され、ご覧になった方も多いでしょう。
その番組内でローマ帝国の2世紀時に描かれた太陽神ミスラ(ミトラス)の壁画が紹介されていました。
そこでは、「緑とオレンジ色」の服を身にまとった太陽神ミスラが、「牛」の上にまたがってこれを殺し(「殺牛信仰」)、その血を地に這いつくばる犬と「蛇」が飲んでいるという図です。壁画の上部(空)には「カラス(太陽神鳥)」も描かれています。
どうでしょうか。
このローマの壁画に描かれるミトラ(ミスラ)神は、広隆寺の摩多羅神と驚くほど酷似しています。
実は摩多羅神の「マタラ」はミトラから来ているとも言われます。
「マタラ」の語の起源には諸説ありますが、この酷似性を見せつけられれば、ミトラ(ミスラ)を起源とする考え方は俄然有力になります。
例の牛祭りで摩多羅神を乗せてきた牛も、境内に入ったあとは、祭りの舞台からいつの間にか消えていなくなってしまうことから、元々の古い形態では生贄にされていたのではないかという説があります。すなわち殺牛信仰です。
つまり秦氏の氏寺・広隆寺には、ともにミスラ(ミトラ)を起源とするマタラ神とミロク仏が存在していることになります。
しかも蛇とカラス(太陽神鳥)は、前回述べたように秦氏が信奉したと考えられる長江文明由来の太陽信仰の重要な象徴でもあります。
また前回までに述べてはいなかったことですが、殺牛信仰というのも古代の日本において禁令が出されるほど猖獗を極めた民間信仰儀礼でしたが、これも長江文明にその起源があり、六〇〇〇年前の城頭山遺跡の祭壇跡からその痕跡が見つかっています。
先ほど「ミロク仏はインド北方インダス上流域~アフガニスタンの辺りから、シルクロードを経て東アジアに伝えられたとされている」と述べました。この見方ではマタラ神も同様のルートで伝わったと暗に主張していると思われます。
もし「ミロク・マタラ」がシルクロードから来たのなら、それと深くかかわる秦氏は長江(越人)とは無関係でむしろ西域以西出身なのではないかと思われるかもしれません。
あるいはシルクロードの終着点である中原の地や朝鮮半島の出身ではないのか、と。
実際秦氏は西域以西から朝鮮半島に来たという見方も有力な説のひとつになっています。
しかし待ってください。
上に挙げた秦氏・マタラ神と共通するミスラの特長は、前述のとおり少なくとも六〇〇〇年前にさかのぼる長江文明の信仰の特長でもあり、ペルシャ・インド分裂以前(すなわちアーリア人)のミスラ神は遡っても紀元前二〇〇〇年、つまり四〇〇〇年前です。
つまりこの東西に共通する太陽信仰がどちらかから一方へ伝播したとするならば、当たり前ですが長江からインド北方に伝わった可能性が高いのです。
もちろん一旦マイトレーヤ(ミロク)に変じたものが、シルクロードを伝わって中国や朝鮮半島に伝わったことは否定しませんし、それが飛鳥時代の日本(倭)に伝わったことも否定しません。
しかし、秦氏が前回までに検証した通り長江(越人)の出身であるかぎり、秦氏はずっと以前からその(ミスラ信仰と酷似する)太陽信仰を知っていた、ということなのです。
そもそも摩多羅神のように牛の背に乗って移動するというのは、長江周辺~それ以南の文化習俗です。
秦氏の信仰も長江から伝わった(というより自ら持ち込んだ)とする方が、よほど自然な考え方であることは理解いただけるのではないでしょうか。
と、ここまで秦氏がこの日本の地において見せてきた信仰・祭礼は、長江文明起源の太陽信仰に由来するであろうことを述べてきました。
ではなぜワタシは今回、わざわざ西方のミスラ(ミトラ)神の話を持ち出したのか、不審に思われる方も多いかもしれません。
実はワタシは、秦氏がいわゆる西域・中央アジアにも大いに関係していると考えています。
つまり秦氏は長江流域出身でありながら、西域にも関係している、ということです。
先ほどペルシャ・インド分裂以前のミスラ神は遡っても四〇〇〇年前だと述べました。
実は長江文明が崩壊したのは、異常な寒冷期となった四二〇〇~四〇〇〇年前なのです。
専門家の方々からはこの関係はまったく注目されません(笑)が、ワタシはこの「長江文明崩壊」と「西域の太陽神ミスラ誕生」には大いに関連があるのではないかと考えています。つまり、崩壊に伴って四散した長江文明の民の一部が、西域に逃れたか流れ着いたかして、長江文明の太陽信仰が伝えられたのではないか、と。
ここで歴史に詳しい方なら、こう疑問を投げかけられるでしょう。「西域に通じる道・シルクロードは、長江ではなく黄河の流域から始まるのではなかったか?」と。
確かにいわゆるシルクロードと呼ばれる道は黄河の流域、長安を起点としています。
が、そもそも「オアシスの道」と呼ばれるシルクロード(西域南道、天山南路、天山北路)は遡っても漢代の紀元前二世紀を超えることはなく、その北の「草原の道」も紀元前十世紀を遡ることはありません。
この一般にいわれる「シルクロード」が、それよりずっと以前に崩壊してしまった長江文明と関わることはあり得ません。
ではそもそも長江文明が西域と関わることがあったのかどうか。
もしあったのなら、両者をつなぐルートはどのあたりだったのか。
この疑問を解くカギを握っているのが、やはり秦氏なのです。
このシリーズの最初*1で述べた、秦氏の特長にも関わってきます。
次回はそのあたりのことを探っていきましょう。
ちなみに今回の記事は、中山市朗氏の著作と安田喜憲氏・梅原猛氏の著作を、とくに参考にさせていただきました。あ、あとワタシの著作も(笑)。
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秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(5) 秦氏と太陽信仰
大和岩雄氏は『秦氏の研究』のなかで、秦氏と古い太陽信仰のかかわりについて論じています。
詳しく説明するとかなり長く繁雑になるのですが、そのひとつとして京都にいくつかある秦氏の聖地と言われる場所をそれぞれ直線で結ぶと、夏至の日の出線(冬至の日の入り線)、冬至の日の出線(夏至の日の入り線)になると述べています。*1
前回述べたように、長江文明の太陽信仰には、そこからさらに派生した「鳥信仰」「蛇信仰」「死と再生の信仰」があります。
そのうちの蛇信仰についてまず見てみましょう。
まず日本古来の蛇の呼称としては、ウズ(ウジ)・ウツ・カカ(カハ・カガ)・ハハ・ツツ・ツチ(チ)・ナガ(ナギ)・ヌシ(ヌジ・ニジ)などがあります。
民俗学者の吉野裕子氏が日本の古代蛇信仰について論じた名著『蛇』では、ミシャグチ神について、その敬称「ミ」を除いた「シャグチ→シャクチ・シャクジ」の意味は「赤蛇」だと述べています。
赤(シャク)蛇(チ)です。
吉野氏は同著の中でまた、古代の信仰における「蛇」は「太陽」と強く結びついており、また「赤」は太陽の色であると述べています。
つまり「赤蛇」は太陽信仰における蛇信仰を象徴するものと考えられます。
古代日本の蛇信仰を示すものとして有名なのは三輪山の神ですが、そのオオモノヌシ神は「丹塗矢」に変身して美女に近づき、思いを遂げてしまいます。
丹塗矢は赤く塗った矢のことですが、三輪山の神は蛇神ですので、つまりは「赤蛇」です。
矢もその形状から古代では蛇に見立てられ、さらに両者ともにその形状から男性のファロス(男根)に見立てられました。それが赤いということはすなわち男神の赤く怒張したファロスを象徴しており、オオモノヌシが美女と思いを遂げるのにわざわざ丹塗矢に変身したという「裏」の意味はそこにあります。
また蛇神は金属神でもあると同時に「雷神」でもあります。
古代では「赤」は白とともに「光」(とくに「太陽光」)をあらわす色であり、つまり赤蛇は雷光をも意味するのです。
雷を意味するイナヅマは稲妻と書きますが、元々は「稲夫」でした。
それは太古において、雷は太陽神のファロスであり、それが地上に降ろされることで「大地の女神」を孕ませ、ひいては「大地の豊穣」をもたらすと考えられたことの名残と考えられるのです。
赤蛇は「雷光(イナヅマ)」であり、「太陽神のファロス」である。
ちなみにアメノヒボコが主人公となる「日光感精説話」では、日光が「虹(ニジ=蛇)」すなわち太陽神のファロスとなって女神を妊娠させています。
さて問題は秦氏です。
稲荷神社の縁起譚では秦伊呂具が餅を的にして矢を打つと、餅が「白鳥」に化して飛び立ち、降り立ったところに稲が生ったので稲荷神社としたといいます。
白鳥はカラスと並ぶ「太陽神鳥」の象徴です。
つまりこの縁起譚は明らかに、太古からある太陽神による大地の女神の妊娠=豊穣の神話の変形であると考えられます。
これは秦氏の信仰の根底に、古い太陽信仰があることの証でもあります。
稲荷信仰を象徴する色でもある「赤」はまさに太陽を象徴する色でもあります。
秦伊呂具が放った「矢」、それによって生まれた「白鳥」はともに太陽神の分身、ひいては「赤蛇」と同等であると考えられます。
秦氏と太陽信仰・蛇信仰の象徴である「赤蛇」との関係は、それだけにはとどまりません。
秦氏の重要な聖地として、播磨地方の赤穂市坂越(サコシ)があります。
秦河勝が晩年を過ごした地ともいわれ、ここに鎮座する大避神社の祭祀氏族は秦氏であり、祭神も秦河勝その人となっています。
この坂越は大和岩雄氏『秦氏の研究』によれば、元々は「シャクシ」といったいいます。
「シャクシ」は「シャクチ」の転訛でしょう。「赤蛇」です。
つまり赤蛇という意味を持つシャクチ→シャクシ→サコシと地名が変化していったのだと考えられます。
秦氏の聖地坂越が、「赤蛇」という意味の地名となっていることは非常に重要ですが、これには強力な傍証があります。
他ならぬ「赤穂」の地名です。
赤穂(アコウ)の地名の起源については諸説あるようですが、これといった有力な説というのも無いようです。
私見では、この「アコウ」は「アカハハ」が転訛した地名ではないかと考えます。
「ハハ」は先述の通り「蛇」の古語ですが、これは容易に「ホウ」に転訛します。
例えば鳥取県西部の伯耆(ホウキ)地方はもともとが「ハハキ」であったものが「ホウキ」に転訛したものであり、掃除に使う箒(ホウキ)も元々は「ハハキ」でした。
つまり赤穂も、まず「赤蛇」を意味する「アカハハ」から「アカホウ」に転訛し、さらに「アコウ」に変じたと考えられるのです。
どうでしょう。
秦氏の聖地である「赤穂」「坂越」ともに、「赤蛇」を意味する地名だった。
これはとても偶然で片付けられる問題ではないと思われます。
その根底には古い太陽信仰とそこから派生した蛇信仰が横たわっているのです。
秦氏と蛇信仰の関係を示すものは他にもあります。
まず秦氏はもともと「ハダ」氏とも呼ばれていました。
私見ではありますが、「ハ」は蛇の古語、「ダ」も「蛇」(蛇は「ダ」とも訓む)で、どちらも蛇の意です。
「ハダ・ハタ」という氏族名は「海」という意味があることは以前に述べましたが、彼らが「蛇」氏であることをも意味しているのではないかというのが私見です。
また秦氏の族長(首長)であることを示す「太秦(ウズマサ)」の称号。
「ウズ」は先述の通り「蛇」の古語のひとつ。
「マサ」は”勝”、”優”の字があてられるように他にマサるの意があるとすれば「ウズマサ」は「大いなる蛇」「偉大なる蛇」ひいては「蛇の首長」の意味になります。
この「オオツチ」の「ツチ」も先述の通り蛇の古語。
つまり「オオツチ」で「大いなる蛇」「偉大な蛇」となってウズマサと同じ意味となり、秦氏の首長としては実にふさわしい名だと言えます。
秦河勝。
この「カワカツ」の「カワ」も、蛇の古語「カカ」から「カハ」(カとハも容易に転訛する)、さらに「カワ」に変じたと考えれれば、「カワカツ」でやはり「大いなる蛇」「偉大なる蛇」という、ウズマサにふさわしい名となります。
秦伊呂具。
この「イログ」は別に「伊侶巨(イロコ)」とする文献があります。
「イログ」「イロコ」はもともと「ウロコ」から来ていると考えられますが、従来では秦氏に魚系の名がわずかにみられることから、魚の鱗と考えられているようです。
しかし前出の吉野氏によれば、古代では蛇の鱗の図象にも呪術的な力があると信じられ、それを抽象化した三角紋や菱形紋が古墳などにも多用され、その意味自体が忘れ去られた後世においても根強く残ったといいます。
だとすれば、古くからの蛇信仰を保持していた氏族の首長が、呪力のある蛇の「ウロコ」を名乗ったことは大いに考えられます。
名前が「魚の鱗」だとすれば意味不明瞭で要領を得ない名になってしまいますが、「蛇の鱗」だとすれば古くから日本列島に根強く残っていた蛇信仰との関わりから、じつに理解がたやすくなります。
また蛇信仰と共に、長江文明由来の太陽信仰で重要な位置を占めていた「鳥信仰」がありますが、松尾大社を創建した人物に秦都理(トリ)がいます。
さらに秦氏と太陽信仰の関係でいえば、弥勒信仰、ミトラ信仰との関わりにも言及する必要がありますが、それはまた次回ということにしましょう。
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秦氏の謎 いつ、どこから来たのか (4) 太陽信仰と長江文明
前回、ヒボコと長江文明(越人)の共通する特徴として、「海洋民(航海民)」「太陽信仰」「須恵器とその前身と言われる印紋硬陶」「優れた砂鉄精錬の技術」「水利土木の技術」の5つを上げました。
これらの特長を秦氏について見てみると「海洋民」「水利土木」については、前回までにおおまかに説明しましたが…
- 「須恵器」5世紀初頭ごろ伝わり、当初和泉国の陶邑(すえむら)で生産されたとみられる。三輪山伝説で有名な大田田根子はこの出身で須恵器にも関わったと考えられるが、その一族(大氏、多氏)は秦氏の支族。
- 「砂鉄精錬」水利土木の技術の背景に、優れた「鉄」があったことは前回述べたが、砂鉄精錬技術との実際のかかわりについては大和岩雄氏の『秦氏の研究』『続・秦氏の研究』に詳細に述べられている。(ここでは説明がかなり長くなるので割愛)
と、やはり密接に関わっていると考えられます。
残るひとつ、従来あまり秦氏と結びつけられている印象がない「太陽信仰」についてはどうでしょうか。
まずヒボコについては、現代にまで丹後の籠神社に伝えられている奥津鏡・辺津鏡をもたらしています。
御存知のように(ヒボコがもたらした)当時の「鏡」というのは太陽信仰のシンボルであり、最も重要な祭器であったとされています。
さらに「日矛」「日槍」と書くことからも、アメノヒボコという渡来集団が太陽信仰の民であったことは間違いありません。
太陽信仰を持つ海洋民だったヒボコのルーツは中国大陸でした。
では古代中国において太陽信仰を持っていたのはどこかといえば、それは南方、つまり長江文明をルーツに持つ江南地方の人々でした。
中国はその長い歴史が始まって以来ずっと、黄河を中心とした「北」の畑作牧畜文化と、長江流域以南の「南」の稲作漁撈文化という全く異質の文化が並立するかたちで存在してきました。
諏訪春雄氏や安田喜憲氏によれば、「北」の広大な乾燥地帯(黄土地帯や砂漠地帯)では昼間の太陽は強すぎて生命を奪う危険すらあることから、「北」の文化は太陽を信仰の対象とはせず、乾燥地帯特有の明るく輝く夜空の星に救いを求めて信仰対象とする「天の信仰」でした。
特に北極星は「天の最高神」「天帝」とされ*1、王(皇帝)はその天命により即位し、その王朝が徳を失えば、新たな天命を受けた氏族(姓)により交替する*2という、高度に理論化された政治イデオロギーを含むのが、北の「天の信仰」でした。
逆に「南」とはいっても常に湿度が非常に高く、霧や雲に日光を遮られることの多い長江流域以南では、太陽は温和な存在であり、すべての生命を育む恵みの源泉と考え、信仰の対象としました。
この南の稲作漁撈民の「太陽信仰」では、太陽は天に輝く存在ではなく、「地上の存在」と考えました。
この太陽信仰では太陽は朝、地上で生まれ、「鳥」によって地上から大空へと運び上げられると考えました。そこで彼らは鳥も信仰の対象としました。太陽の中に神鳥としての三本足のカラスがいるというのは長江文明のこの信仰に基づいており、日本のヤタガラスもそのバリエーションです。
鳥によって運ばれた太陽は、その温かい輝きで地上にさまざまな恵みをもたらし、夕方、また地上に降りて「死」を迎えるのです。
夜の間、地下の暗いトンネルのなかを死んだ太陽とともに過ごすのは、そこの住人でもある「蛇」であり、蛇もまた信仰の対象とされました。
翌朝になれば太陽は再び地上に誕生(復活)し、また夕方に死ぬ、という「死と再生」の循環を毎日、永遠に繰り返すのです。
この「死と再生」の永遠に繰り返す循環こそ、稲作漁撈文化の太陽信仰の大きな特徴です。
長江文明由来のこの文化において、太陽信仰とそこから派生した鳥信仰、蛇信仰、そして「死と再生」の信仰は、一つのセットとして考えられるのです。
さて秦氏ですが、この長江文明由来の太陽信仰セット(鳥信仰・蛇信仰・「死と再生」の信仰)とどう関係するのか、それともしないのか。
次回はそのことについて検証したいと思います。
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