古代史は小説より奇なり

林業家kagenogoriが古代の謎を探求する

秦氏の謎 いつ、どこから来たのか(2)アメノヒボコ

 アメノヒボコ

 天之日矛、または 天日槍と書きます。

 古事記』『日本書紀』『播磨国風土記などで、朝鮮半島から渡来してきたと書かれる人物です。

古事記のイラスト 

 古事記では応神天皇記」で、「その新羅国主の子アメノヒボコが渡来した」ことが述べられ、一方日本書紀では垂仁天皇のときに同じく新羅王子のアメノヒボコが渡来したことが書かれています。

 

 播磨国風土記では、韓国(カラクニ)からやって来て、播磨の所々でアシハラシコオと争いをしたことが書かれています。

 カラクに「韓国」の字をあてていますが、これは新羅百済と同時期に朝鮮半島南端に割拠した加羅伽耶)諸国のことと考えられます。

 

 そしてこれら『古事記』『日本書紀』『播磨国風土記』におけるアメノヒボコ(以下、「ヒボコ」)の伝承地、播磨国の各地、近江国(吾名邑、鏡村)若狭国但馬国(出石:ヒボコの最終到達地)などが、秦氏と関係が深いか秦氏の根拠地とほぼ完全に重複していることから、多くの専門家(平野邦夫氏、大和岩雄氏など)が「アメノヒボコ秦氏は同一である」と考えているのです。

近畿地方の地図のイラスト(地方区分)県境あり 

 もしヒボコが秦氏と同一もしくは始祖であるなら、その渡来時期はどうでしょうか。

 

 『古事記』では「応神天皇記」で”その”と書かれていました。

 応神天皇とは第15代天皇で、前回述べたように秦氏の伝説的始祖弓月君が渡来した時の天皇で、5世紀初頭前後ごろと考えられます。

 その「昔」というからにはそれよりもっと前にヒボコ(秦氏)が来たことになります。

 

 『日本書紀』では第11代垂仁天皇のときと書かれており、『古事記』の記述と矛盾はしませんが、西暦に直せばいつ頃になるのかはっきりしません。

 

 専門家の多くはヒボコ渡来を5世紀初頭前後あたりとしていますが、いま見たように『記紀』の記述を素直に解釈する限り、それはまずあり得ないことは素人にも分かります。

 ただ専門家の中にも、千田稔氏のように弥生時代に渡来したとする少数意見もあります。

 

 私も弥生期に来たと考えます。理由は二つ。

 

 まず先述した『播磨国風土記』の内容です。

 そこではヒボコがアシハラシコオと争いしたことが書かれていましたが、アシハラシコオとは出雲神話で活躍する国土創生神であり出雲の首長、大国主命(以下、オオクニヌシ)の別名として知られています。

 このオオクニヌシの伝承地が、銅鐸出土地とかなり重なるという指摘は以前からされています。

「site:http://www.irasutoya.com/ 弥生時代」の画像検索結果

 銅鐸はもちろん弥生時代の祭器で、しかも最も多く出土するのが出雲地方であることから、古代出雲は弥生期における銅鐸文化の中心をになった勢力(クニ)であると考えられています。

 そしてオオクニヌシは出雲の首長であると同時に、弥生期に銅鐸祭祀を行っていたクニグニを統べる王のような存在(の象徴)と考えられています。

 

 つまり、そのオオクニヌシ(アシハラシコオ)と播磨(=銅鐸文化圏)で争ったヒボコは、弥生期に来たと考えるのが自然、というのがまず一つ目の理由。

 

 二つ目の理由は、『記紀』においてヒボコが将来した(もたらした)とされるいくつかの神宝のなかの「」です。 ちなみにヒボコ伝承地である滋賀県竜王町にはヒボコを祭神とし、ヒボコが将来した「日鏡」を収めたという由緒をもつ鏡神社があります。

 『古事記』では「奥津(おきつ)辺津(へつ)」、『日本書紀』では「日の鏡」としていますが、どちらも同じ鏡のことを指していると思われます。

 奥津鏡は「沖の鏡」、辺津鏡は「岸辺の鏡」の意味で、『古事記』で書かれる他の神宝も「浪振る比礼(ひれ)、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼」など、明らかに航海の安全を祈願する呪具と考えられることから、ヒボコが「海洋民」であったことをうかがわせます。

 また「」はもちろん太陽信仰の祭具であり、『日本書紀』が「日の鏡」と書くのもまさにそのことを示しています。

 つまりこれらの神宝を携えてやって来たヒボコとは、「太陽信仰の海洋民」だったことを、『古事記』は伝えているのです。

海, 日没, 風景, 自然, 海に沈む夕日, 夏, 夜の海, Soltse 

 驚くべきことに、丹後の元伊勢として知られる「籠神社」には、まったく同じ名の神鏡が古くから伝わっています。

 籠神社で古代から代々続く宮司海部氏の日本最古の家系図『海部氏系図のなかの『海部氏勘注系図では「息津鏡・辺津鏡」と、『古事記』とは微妙に違う字でこの鏡のことを記載しています。

 籠神社がこの二つの鏡を公開したときに行われた調査で、「息津鏡」が後漢時代のもの(およそA.D.1~3世紀ごろ)、「辺津鏡」が前漢時代のもの(およそB.C.2~1世紀ごろ)とわかりました。

 新しいほうの息津鏡を基準にすれば、ヒボコの鏡と同じ名を持つこれらの神鏡が、弥生後期~末期にもたらされたと考えることができます。(しかも籠神社はヒボコの辿ったルートのうち、若狭から但馬へのルートの中途に鎮座しています)。

 

 以上二つの理由から、ヒボコは弥生時代の後期~末期(A.D.1~3世紀)に渡来してきたと考えられるのです。

 

 ヒボコ=秦氏なら、秦氏弥生後期~末期の間に渡来してきた「太陽信仰を奉ずる海洋民ということになります。

 実際、秦氏の「ハタ」は「」の意味と考える専門家は多くいます。

 

 なお、『日本書紀』ではヒボコが陶人(すえびと)すなわち硬い須恵器を作る工人を連れてきたととれる記述があり、須恵器が5世紀初頭前後に半島の伽耶地方から伝えられたと考えられることから、ヒボコ渡来をその時期とする説を支持する専門家が多いのです。

 この説の場合、『播磨国風土記』の記述はまったく無視されているようです。

 

 しかし秦氏海洋民であり、また前回述べたように水運交易にも大々的に携わっていました。

 したがって弥生期に渡来してきたのちも、わりと自由に半島と列島の間を往来していたことは十分に考えられます。

 というか、前回からここまで挙げてきた「秦氏の特性」を考えれば、その方がごく自然です。日本列島各地に根拠地を築いていたように、半島の伽耶地方にも相変わらず拠点を持っていたとも考えられます。

 そして5世紀に至って、当時の最先端技術であった須恵器の工人をもたらしたのでしょう。秦氏のような商業交易で「力」を持とうとする集団なら、当然の発想と言えます。

 その時、半島(伽耶)側の根拠地にいた首長的存在が、応神天皇のとき(5世紀初頭ごろ)に一族を引き連れて来たとされる弓月君なのではないでしょうか。

 

 つまり、秦氏アメノヒボコが5世紀初頭前後に来たことは否定はしませんが、それが最初の渡来ということではなく、弥生後期~末期に来た、というのが「とりあえず」の結論です。

 

 今回はここまで。

 次回はアメノヒボコ秦氏の特性から導き出される「真のルーツ」についてです。ルーツは朝鮮半島じゃない?

 お楽しみに。

 

 以下:参考文献

秦氏の研究―日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究

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続 秦氏の研究 ~日本の産業と信仰に深く関与した渡来集団の研究~

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