すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(7)激動の縄文期~大量のボートピープル
縄文時代、沖縄から「シラ」の思想・信仰を持った多くの人々が、北陸をはじめとする日本海側に、遠路はるばるやって来た。それは何故か。
そしてそれは一方通行的なものだったのか、交流を伴うものだったのか。
縄文文化自体は、常にと言っていいほど海外からの影響をその時代々々で受け続けています。
それは大別して”北方からの影響”と”南方からの影響”に分けられます。
縄文草創期~早期までは、どちらかと言えば北からの影響が強かったようですが、縄文前期になると南方からの影響がどんどん強くなってゆき、縄文中期には南方の影響が俄然優勢になります。
縄文前期と言えば温暖化による「縄文海進」が起こりました。
海抜が現在よりも4~5メートル(一説には10メートル)高く、陸地(平地)が減少した時代。
そのため航海をふくめた海洋技術が飛躍的に高まりました。
縄文前期には本州最北の三内丸山遺跡でさえ、南方文化の影響を受け始めます。
三内丸山遺跡の研究の第一人者ともいえる岡田康博氏は、”三内丸山の人々は南から来た人々で、北からの可能性はあまりない”とさえ言っています。
またその頃の日本海側各地の遺跡からは、あきらかに南方からの栽培植物(ヒョウタンや豆類等)が出土しています。
野生のままでは冬を越せないものもあり、”明らかに当地で栽培されていたもの”と考えられています。
だとすれば当初から”移住”する目的で、計画的に持ち込まれたものである可能性があります。
それを示すのが縄文時代の人口動態です。
前期は陸地面積が減少したにもかかわらず、主に北陸以東の各地で人口が大幅に増えた時代でもありました。
事態が急変するのは縄文中期です。
安田喜憲氏の花粉分析によれば、それまで温暖だった気候が5300年前に逆に寒冷化します。
そのため中国東北部で高度な文明を誇っていた紅山文化が崩壊します。
安田氏は崩壊した紅山文化の人々の一部が、縄文の東北を中心にした日本海側に流れ込んできたのではないかという仮説を立てています。
しかし、縄文中期により大きな影響をもたらしたのは、より南方、長江流域以南の人々だと考えられています。
5300年前の寒冷化(小寒冷期)は南方の長江文明にもおおきな影響を与えました。
さらに同じく縄文中期の4600~4500年前にも小寒冷期が訪れます。
この気候変化による直接的な影響もさることながら、より大きな影響は「北方」からのインパクトでした。
寒冷化のダメージをモロに受けた北方地域から、多くの他民族(おそらく紅山文化の人々も含めて)が長江流域に侵入してきたのです。
多くの軋轢や争いがあったことと想像されますが(具体的に何が起こったのかは不明)、その結果として長江文明は5000~4500年ほど前に、安田氏の言う「メガロポリスの時代」、すなわち長江の下流域(良渚文化)から中流域(石家河文化・宝墩文化)にかけての”巨大都市文明”が花開くことになるのです。
安田氏は突然多くの巨大都市が出現した理由として、(稲作農耕民の持ち得ない)北の畑作牧畜民の「俯瞰の思想」の影響が大いにあずかっているのではないかと述べています。
それはともかく、結果として数百年後の発展を促したとは言え、長江文明の人々が北からの侵入者を、そのまま受け入れたとはとても考えられません。
さらに悪いことに、4200~4000年前にはダメ押しのように(「海退」を伴う)「大寒冷期」が訪れてしまいます。
小寒冷期(2度)、大寒冷期、いずれの場合も、前述のように多くの軋轢・争いがあったと想像されますが、それが”長江文明人の大量流出”を招いたと考えられます。
当ブログでも以前書きましたが、長江文明人というのは水運・航海に長けた民でした。
彼らがその地から流亡するとすれば 、当然舟を使うことになります。
いわゆるボートピープルです。
向かう先は長江の南岸や上流域もあったでしょうが、多くの逃亡者が選んだのは長江の河口からさらに先の「海」、東シナ海だったのではないでしょうか。
航海民でもあった長江文明人たちは、 ”東アジアの地中海”ともいうべき東シナ海周辺にどのような陸地・島々があるのか、逃亡先としてふさわしいのはどこか、など「そこまでの航路」も含めて知悉していたはずです。
ボートピープルとなった彼らが逃亡先として選んだ場所の一つが、縄文中期の日本列島だったと多くの専門家(考古学者・文化人類学者・言語学者・etc.)は考えています。
その根拠ともなる「長江文明の影響によると考えられる縄文中期の大変化」と、その”証拠”となると思われることについて、以前のブログでも述べましたことですが、その補足も含めて以下に列挙してみましょう。
- 「人口増加」 まずは人口(遺跡の数と規模による)の爆発的増加です。縄文前期にもその前の早期に比して爆発的ともいえる人口増加がありましたが、中期はそれをも大幅に上回る急激な増加がありました。東北、関東、中部で前期に比べて2~2.5倍、比較的人口の少なかった北陸では6倍もの増加となっています。北陸は日本海側沿岸だけに広がる地域。つまり北陸だけが突出して6倍もの増加になっているのは、元々少なかったこともありますが、それ以上に対馬暖流に乗って日本海側を海路やって来た集団がいたことを示していると考えられます。しかもこの人口変動の数は1974年時点と古いデータによるものですが、その後北陸では中期の重要な大規模遺跡の発見(富山県桜町遺跡や石川県真脇遺跡など)が相次いでおり、さらなる人口増加が考えられるのです。
- 「蛇信仰の始まり」 中期になると土器装飾に「リアルな蛇」の意匠が突然現れます。前期にも蛇状の渦巻き紋や波状紋があり蛇への畏敬の念はあったと思われますが、それが蛇に対する強い信仰、蛇信仰に昇華するのは「写実的な蛇」が現れる中期だと考えられます。これについて複数の専門家が「ヘビに関わる宗教とその勢力の拡大という、政治、文化的動きがあった」「新しい強力な文化の渡来があった」等と考えています。
- 「高床建物」 1.で言及した富山県の桜町遺跡では、縄文中期においてすでに用途に合わせた幾種もの「高床建物」があったことが確認されています。従来は弥生期に伝わったとされてきたものです。柱材、梁材、桁材、壁材など多数の用材が出土しており、「ほぞ穴」や「えつり穴」「貫穴」など部材を組み合わせるための加工が施されていました。驚くべきは「渡腮仕口(わたりあごしぐち)」という、これまで法隆寺金堂で使われたものが最古とされてきた高度な技法の跡まで見つかったことです。このような高床式建築は中国南部や東南アジア、南太平洋に見られる南方の文化ですが、特に長江流域・江南地方にその遺跡が多数みつかっています。中期の高床建物の遺構は青森の三内丸山遺跡でも多数見つかっています。
- 「南方系栽培植物」 前述したので割愛します。
- 言語学の観点から 今回の冒頭において、縄文草創期~早期までは北の影響が強く、 前期から南の影響が強まると述べましたが、言語学者の崎山理氏は言語学の観点からそれを裏付けています。中国南部の越(百越)を故地とするオーストロネシア語族は、東シナ海から東南アジア島嶼部、さらには南太平洋一帯(ミクロネシア・メラネシアの一部・ポリネシア)や遠くインド洋のマダガスカルにまで展開する大語族ですが、彼らは北のアルタイ系語族の侵入によって長江流域の「越(エツ)」の地から押し出され(崎山氏は「大きな民族交替」と言っている)、 「新天地」へと向かったということが言語学では分かっているそうです(これは先述した安田氏の説と完全に重なります)。大事なのは崎山氏はさらに、オーストロネシア語では「母」は「イネ」というのに対し、日本で母を古い言葉で「イネ」と言っていたのは佐渡・石川・福井の北陸すなわち「越(コシ)」の地であり、これはオーストロネシア語から来ているとはっきり述べていることです。つまり長江流域を起源として「北からの圧迫」により海へと押し出されたオーストロネシア語族の一部が、少なくとも北陸の地に到達し、定住したということになります。また氏は「(オーストロネシア語族の日本列島への移動の波は)琉球列島づたいに渡来した確率が高い」という重要な発言もしています。
- 「憑霊型シャーマン」 名著『シャーマニズム』を著わしたエリアーデによれば、シャーマンの型には大別して「脱魂型」と「憑霊型」の二種類に分けられます。長江流域や南太平洋一帯は総じて「憑霊型シャーマン」、日本のイタコも「憑霊型」に属します。ククリヒメも、以前述べた「間人(ハシヒト)」と同様に「あの世とこの世の間に立って託宣する巫女」の姿を持っており、 「憑霊型」と考えられます。また、国立民族学博物館教授の小山修三氏は、縄文期にシャーマンがいた証拠として、多数出土する「仮面」の存在を挙げています。重要なことに文化人類学者の諏訪春雄氏は、「仮面芸能」が東アジア一帯においては長江流域とその南においての分布が顕著であり、黄河以北では極めて少ないという調査事実を挙げて、これが中国南方の「憑霊型シャーマニズム」と中国北方の「脱魂型シャーマニズム」の分布とほぼ完全に一致しているという指摘をしています。つまり「シラ(シラヤマ)」の信仰における主神ククリヒメは、(長江流域を拠点に東アジアの海を往き来した航海民である)長江文明人(越人・オーストロネシア語族)の文化に、その究極の起源があると考えられるのです。
(ククリヒメについてはコチラ↓)
(「間人(ハシヒト)についてはコチラ↓)
このように1.~6.を考え合わせれば、縄文中期に長江流域から”押し出された”長江文明の民(オーストロネシア語族)が、琉球列島(沖縄)を経由して、日本列島、とくに日本海側に流入してきたというシナリオが描けます。
当時沖縄に暮らしていた「シラ」の概念を持った人々も、「航海民」であった長江文明人(オーストロネシア語族)と、元々関わっていた可能性は非常に高いと思われます。
そして彼らも押し出されるようにか、それとも積極的に行動を共にしたのかは分かりませんが、大挙したボートピープルとともに日本海側にやって来たのだと考えることは可能です。
以前述べたことですが、当時の北陸は潟湖が発達し、沿岸には船材となるスギの巨木が林立しており、港湾として最適な条件が揃っていたといいます。
「航海民」であった長江文明の民もそのことをよく知っていた可能性は高いと思われます。
だから「シラ」の概念も中期ではなく、前期からすでに北陸の地にはいっていたのかもしれません。
しかしそれが信仰にまで昇華したのは中期なのではないかと思われます。
2.で述べた中期の「蛇信仰」も、その実態は「シラ(シラヤマ)の信仰」と同じ「死と再生」の信仰です。
実はシラヤマ信仰にも古い「蛇信仰」の”面影”が残っており、シラヤマヒメは「蛇体の女神」なのです。
ワタシの個人的意見ではありますが、中期における縄文日本列島の「蛇信仰」の発生~隆盛と、 「シラ」の概念・信仰の発生~隆盛は、完全にリンクしていると思われます。
縄文期の沖縄と列島の日本海側で「交流」があったかどうかという問題については、それこそ日本列島の北から南まで縦横無尽に海上交易をしていた縄文人のこと(中には黒潮の激流を突っ切って八丈島あたりまで物資や家畜、植物を海路運んでいた例も)、それは難しいことでは無かったに違いありません。
沖縄県北谷町の平安山原(はんざんばる)B遺跡で、縄文晩期の東北を中心に使われていた亀ヶ岡系に含まれる大洞(おおほら)系土器の破片が見つかり、しかも組成分析等から造られたのは東北ではなく、北陸・中部出身者が西日本のどこかで東北産の実物を基に作られたものだというのです。
これは縄文期に沖縄~北陸・中部~東北間で、モノだけではなくヒト、それも技術者たちの交流・交易があったことを示すものです。
縄文期の沖縄と北陸~東北の日本海側、そしておそらく長江流域の民たち。
彼らには恐らく恒常的ともいえる交流・交易があり、寒冷化に起因してボートピープルとならざるを得なかった”同胞”たちと行動を共にし、また受け入れるだけの”関係”があった。
そしてその”絆”にも近い精神的つながりを支えていたのは、「シラ」の概念だった。
ここまで見てきたかぎりにおいては、そのように推測しても”当たらずといえども遠からず”と言えるのではないでしょうか。
このシリーズ「すべては沖縄から始まった~有史前の日本列島で何が起こったか 」は、ここで一旦終わりということになりますが、縄文時代の沖縄、北陸~東北については、これからもチョコチョコ(笑)書いていきたいと思っています、今のところ(笑)。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
ふぅー疲れた(笑)。
参考文献:
他、 『縄文鼎談 三内丸山の世界』 (岡田康博・小山修三編:山川出版社)など多数。
史上最悪のパンデミック ~ 中世ヨーロッパのペスト禍の場合
桜が見事に満開です。
なのに花見に行くことも出来ない。
行く気もしない。
いま世界中が大変なことになっている。
そして日本も。
大好きだった志村けんが死んでしまった。
梨田さんがおそらく無意識の中、必死で闘っている。頑張っている。
お二人とも顔を思い出そうとすれば、優しそうな笑顔しか浮かばないような人たち。
どうしてこんなことに。
ひと月ほど前までまだ他人事のように感じていた自分が恥ずかしい。
世界中がコロナと闘っている。
日本の政治家や自治体、企業などは未だに状況を少し甘く見てはいないだろうか?
この”闘い”はまだまだ続く。
みな薄々そう思っている。
まだ始まったばかりかもしれないのだ。
世界中を襲っているコロナ禍。
いわゆるパンデミック(疫病の世界的大流行)状態となっている。
この日本でも東京を筆頭として感染者の数がじわじわと増え続け、ここにきて加速度がついてきたようにも見える。
医学がこれだけ発達した現代でも、なかなか終息が見えない怖さ。
パンデミック自体は歴史の中で何度も発生している。
医学も発達していない過去の時代におけるパンデミックにおいて、人類は何を経験したのか。
恐らくもっとも有名なのは、中世ヨーロッパの「ペスト大流行」でしょう。
発生地の広がりかたにおいても、”被害者”の数においても、そしてその凄惨さにおいても、他のパンデミックとは次元の違う規模でヨーロッパ中を恐怖と狂気に陥れた、それが14世紀のペスト禍です。
このペスト禍をきっかけの一つとして、比較的静かでのどかだったヨーロッパの「中世」は、”終わり”に向けて大きく動き出すのです。
つまり”歴史を変えた”のです。
始まりはアジア地域との境界に近い、クリミア半島の南岸でした。
1346年のことです。
この時点でのペストは「腺ペスト」でした。
首・脇下・ももの付け根などのリンパ腺にペスト菌が取りつくのが腺ペスト。
症状は突然高熱に襲われ、二~三日後には激痛と共にリンパ腺がまたたくまに腫れ上がり、全身の皮膚に膿疱を生じて、意識不明のうちに死にいたるというもの。
死の直前に皮膚が黒っぽく変色することから「黒死病」と呼ばれることになります。
腺ペストを媒介するのはネズミに付くノミですが、人から人へは「接触感染」だけです。
この時の場合は人同士の接触感染以外は、商船や港に巣食うネズミのノミが感染源となったので、致死率は非常に高いものの、感染者はおもに地中海の商人や運輸業者などにかぎられていました。
二年後の1348年、じわじわと活動範囲を拡げていたペストが、アルプスを越えてヨーロッパ内部にまで達した時には、腺ペストに加えて「肺ペスト」がいつしか優勢となっていました。
これがペストの爆発的大流行(パンデミック)の直接的原因となったのです。
「肺ペスト」はペスト菌が肺に取りつくもので、高熱を発して呼吸困難を引き起こし、急速に心臓が衰弱して、早いときは二十四時間以内に死亡するというものです。
問題なのは肺ペストが、空気感染(飛沫感染)するということです。
つまりインフルエンザや今回のコロナと同じです。
咳(せき)やくしゃみの飛沫を介して周囲の多数の人にいくらでも伝染するのです。
その伝染力はとうてい腺ペストの比ではありません。
インフルエンザやコロナと同じ伝染力を持ち、しかもほぼ100%の死亡率があるのです。
あっという間にヨーロッパ全域がその猛威にさらされ、王侯貴族だろうが、金持ちだろうが、関係なく、みなバタバタと倒れていきました。
フランスのある村では三か月のうちに人口が半分にまで減ってしまうといったことが起こりましたが、それ以上に、特に城壁に囲まれている都市や、修道院のような、”閉ざされた空間”は目も当てられない状況に陥りました。
そのうちマルセイユのフランチェスコ派の修道士は全滅してしまったといいます。
夥しい数の人々が毎日死んでいって墓地だけでは埋葬しきれなくなり、ばかでかい濠を掘って、何百という新しく到着した死体を入れ、それを幾段にも重ねて一段ごとに薄く土をかぶせていくのですが、その濠もすぐに一杯になってしまう‥‥ということがヨーロッパ中のあちこちでおこりました。
このペスト禍は十四世紀中に何波かヨーロッパを襲い、全ヨーロッパ人口の三分の一以上、一説では三分の二、二千五百万から三千万人近い死者が出たといいます。
またイタリア全土では全人口の半分、一説には70%以上が十四世紀だけで死亡。
同じくイングランドでは、一説では全人口の9割が死亡したともいいます。
それが本当なら10人のうち生き残るのは一人だけ、ということになります。
当時は実はイギリスとフランスの「百年戦争」(1337~1453)の真っ最中でしたが、さしもの百年戦争もペストが猛威を振るっている時期は、しばらく中断せざるを得ませんでした。
科学的精神も発達した医学も無かった当時の人々の、ペストに対する恐怖は相当なもので、一種の集団狂気の状態にもしばしば陥りました。
これを神が与えた罰と考えたキリスト教徒の一部は、贖罪のために裸の身体を鞭うつ苦行者の列となって、血を流しながら聖歌を歌い行進するさまがヨーロッパ中で見られました。
またユダヤ人が井戸や泉に毒を投げ入れたのが原因だという、すべてをユダヤ人のせいにしてしまうデマも広められ、ヨーロッパ中(とくにライン川流域や南フランス)で多数のユダヤ人が”虐殺”されました。
ともあれ、現代では想像もつかないほどの人命が失われました。
このことはペスト禍が終息したあとにも、問題を残しました。
なかでも大きかったのが、大幅な人口減による「労働力の極端な不足」 です。
農民も多数死んだため、あちこちに主のいなくなった耕作地が広がっていました。
その中には豊かな生産の見込める農地もあれば、そうでないところもある。
紆余曲折はあったものの、生き残った農民たちは徐々により条件の良い農地を求めて自由に移動を始めることになりました。
そこの領主(封建領主)が農民にとって”いい領主”かどうかも重要な条件の一つでした。
一方、労働力の極端な不足という現実に困窮した封建領主にすれば、とにかく多くの農民たちに住み着いてもらわなければならない。
好むと好まざるとにかかわらず、ある程度農民への譲歩が必要でした。
それまで農産物の収穫高に比例して取り立てられた”税”が、生産高にかかわらず”定額”の貨幣を支払えば済む ことになっていきました。
領主の収入は減り、逆に生産高が上がればその分農民たちの取り分は増えるのです。
同じく労働力が不足した手工業に携わる人たちも、より良い条件を求めて自由な移動を始め、手工業者全体の賃金が大きく引き上げられる ことになっていきました。
このように農民や手工業者といった生産者の地位はどんどん恵まれたものになってゆき、逆に封建領主たちは恒常的な財政難に悩まされることになります。
さらにイギリスーフランス間における百年戦争や、その後イギリスで始まった30年にもおよぶ「バラ戦争」(1455~1485)において封建領主たちの受けた直接的被害(多くの戦死とそれによる一家断絶)が追い打ちをかけ、とくにイギリス・フランスにおいて封建領主の地位と権力は大きく低下してゆくことになります。
変わって大きく権力を増大させたのが各国の国王です。
ヨーロッパ中世の国王と封建領主の一般的な関係は「ほぼ対等」で、多分に契約的な関係でした。
封建領主が”主君”である国王との関係が気に入らなければ、その関係を破棄して他の主君に乗りかえることも自由ならば、複数の主君(!)と契約を結ぶことも半ば当たり前でした。
外国の国王と臣従関係を結ぶことも珍しくなかったのです。
なぜなら当時のヨーロッパの封建領主のみならず、一般の庶民でさえ、 「ヨーロッパ意識」はあっても、 「国家意識」というのは非常に希薄だったからです。
そもそも中世当初の国王は封建領主たちによる選挙で選ばれるものだったのです。
しかしペスト禍による人口激減と大きな戦争による、まず地位の上がった庶民の社会意識と社会構造の大きな変化、そして封建領主の相対的地盤沈下。*1
これによりとくにイギリスとフランスの国王は封建領主を気にすることなく、手工業者や商人といった都市市民や農民を”直接に”押さえることが可能になり、各種の税や貿易関税を独占できるようになったのです。
両国王の権威と権力は増大する一方でした。
このことは他のヨーロッパ諸国にも影響を与え、特に三百もの領主国家に分立していたドイツは危機感を覚え、何とか”連邦国家”の形でまとまろうという機運が強まりました。(成功はしませんでしたが)。
それまで漠然とした「ヨーロッパ意識」ぐらいしかなかったヨーロッパの人々に、それぞれの「国家意識」というものが強烈に表面に意識化され出しました。
一般庶民をはじめとして全体が豊かになり、強力な王を戴き、強烈な「国家意識」を持ち出したヨーロッパ諸国の人々。
彼らがその高まったエネルギーと志向を向けた先が海外でした。
新興のスペイン・ポルトガルをはじめとして「国家意識」に支えられたヨーロッパ諸国は先を争って海外進出に乗り出しました。
後々まで続く植民地支配のはじまりであり、 「中世」は完全に終わりを告げた のです。
ただイタリアだけはカヤの外でした。
中世の「ヨーロッパ意識」の中心だったローマ法皇の存在があだとなり、イタリアの「国家意識」の形成を妨げたのです。
あいかわらず都市国家間で争い続け、混乱が絶えませんでした。
そこにつけ込んだのが、フランスをはじめとする「国家意識」を持った外国勢力。
遠征を繰り返しては、イタリア国内に土足でズカズカと乗り込んで来たのです。
このような状況のなかで、イタリア人の意識も高まりました。
ただその”手法”が他国とは一味違っていた。
「イタリアにしかないもの」を過去に求めようとしたのです。
イタリアの人々はキリスト教以前からあるローマ時代の遺産を、キリスト教とは全く違う角度から文化遺産として見直し、そこから新しいものの見方や文化を造り出そうとし始めたのです。
ルネッサンスの始まりです。
このように14世紀のペスト禍は、 ヨーロッパの「中世」に幕を引き、「近世」の幕開けを告げる、大きな原因の一つとなりました。
疫病、そしてパンデミックが「歴史」を動かし、「歴史」を変えたのです。
もちろん、中世の当時と現代社会とでは、医学も含めた科学技術も、社会構造も、経済規模も、人々の意識(社会意識、宗教意識等)も、まったく異なります。
同じ「パンデミック」と言っても、同じ経過をたどることは100%ありません。
しかし今回のコロナ過がこのまましばらく続いたとしたら、何らかの「歴史的」変化が起きる可能性はゼロではありません。
経済恐慌が起きやしないか。
経済構造の変化が起こるのでは。
政治構造の変化は?
国際関係のパワーバランスが崩れるのでは。
それらをきっかけに戦争が起きないか。
心配してもキリがありませんが、このような不安を抱く人も多いのではと思います。
なによりワタシたちが好きな有名人の人たち、ワタシたちの愛する周囲の人々が悲惨な状況に陥るのはもう見たくないし、我慢もできない。
やはり早急な対策と、それに向かう覚悟が必要なのではないでしょうか。
国家レベルでも、個人レベルでも。
参考文献:
*1:封建領主たちはその後、国王のもとで貴族化してゆくことになります
すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(6)縄文の「シラヤマヒメ」
沖縄から対馬暖流に乗ってやって来たシラ(「死と再生」)の概念・信仰は、主に本州日本海側に広がってシラヤマの信仰となった。
その傍証となるものが各地の縄文遺跡から出土している。
またその名残と言える信仰儀礼が東北地方各地にも残っている、というのが前回までの話。
つまり「シラ」は縄文時代に沖縄から伝わったことになります。
縄文期にすでに「シラ(死と再生)」の概念が伝わっていたことを示す遺物とは何か。
お気づきの人も多いかと思いますが、それは土偶です。
土偶はその形状(胸部や女性器、妊娠を示す腹部)から女性像であり、豊饒・増殖の女神、大地母神をかたどった姿であるとの見方が非常に有力です。
その理由として妊娠を示す形状のものが多いこと。
そしてほとんどすべての土偶は人為的に、全体や一部が破壊された状態で発見されていますが、最初から破壊する目的で壊されやすいように作られていたことなどが挙げられます。
土偶を破壊する事というのは、つまり大地の女神を破壊=殺害するということ。
古事記などに見られる日本神話や南北アメリカを含む太平洋各地の神話では、女神を殺害することで、その遺骸から多くの食べ物や作物(の起源)が得られたという共通のモチーフが数多く見られます。
その代表的な神話の女神の名からハイヌヴェレ(ハイヌウェレ)型と呼ばれる食物起源神話です。
あまりに広範な分布から、相当に古い思想であると考えられます。
つまり土偶が最初から全体や一部を破壊するために作られていたということは、女神を殺すことで豊饒を願い、またケガや病気からの快復を願い、さらにそこから転じて(乳幼児の死亡率が高かったことから)死後の再生や多産までも願う一種の呪物だったと考えられるのです。
これはまさに「死と再生」すなわち「シラ」の信仰です。
では土偶が象った女神とは「シラ」の女神なのか。
土偶と同じ時期に盛んに造られたものに男性器を象った石棒があります。
両者が一緒に出土する例もあることから、これらは一つのセットだと考えられます。
女神と男神のセット、つまり男女一対神。
この男女一対神の系譜は非常に古いことが知られていますが、そのルーツは縄文時代の「土偶ー石棒」にさかのぼるものだったのです。
そしてこれは、シラヤマ信仰の総本宮である白山比咩神社の主祭神(つまりシラヤマヒメ)であるククリヒメと、その相方である泉守道者(ヨモツモリミチヒト)の男女一対神と重なります。
事実、現在の主祭神はククリヒメですが、柳田国男が当時の白山比咩神社の宮司から聴き出した社伝では、古くは「陰陽二神」(つまり男女一対神)だった、という話があるのです。
男女一対神というのは、その多くが男女の性的結合を表している神像なのです(そのため「男女一対の性神」という言われ方もします)が、白山比咩神社が永く「陰陽二神」であることを秘していた理由もそのあたりにあるのではないでしょうか。
話しがそれましたが、いにしえの人々はそれほどまでに女神の妊娠による豊饒と多産を祈願していたと言えます。
先ほど「土偶が象った女神とはシラの女神なのか」と書きましたが、少し形を変えてもう一度問いましょう。
シラヤマ信仰のククリヒメと泉守道者の男女一対神(陰陽二神)は、本当に縄文の土偶と石棒に起源を持つのか。
これはシラヤマ信仰は本当に縄文にまで遡るのか、 「土偶ー石棒」はそのことを示すものなのか、という問いでもあります。
さて?
縄文の「土偶ー石棒」とシラヤマ信仰の「陰陽二神」の間(ミッシング・リンク)を埋めるものはあるのか。
実はその”連続性”については、おおよそ分かっています。
まず縄文に続く弥生時代。
縄文からの系譜を引くと考えられる「人形(ひとがた)土製品」 、 「石棒」や「木製の男根像」が各地で出土していますが、前期でほぼ姿を消します。
それを継ぐのが弥生中期以降の「男女二体の木偶」で、出土場所が集落と墓地の「境界」に位置する祭場と推測されているケースもあります。
この系譜はずっと続き、平安期にはそれがさまざまな神像として残っていたことが記録で確認されています。
京都の辻々に祀られた、男女の性器が刻まれて赤く塗られた男女二体の木製神像である「岐神(クナドノカミ)」 。
同様に辻や村境などの「境の場」に祀られた男女二体の性神である「サエノカミ(道祖神・塞神)」 。
現在でも男女の結合を表した「道祖神(ドウソジン)」(双体道祖神)が見られることをご存知の方も多いでしょう。
ここまで来るとシラヤマ信仰の「陰陽二神(男女一対の性神)」との類似性は明らかです。
おそらくシラヤマ信仰の「陰陽二神」の姿も、「クナドノカミ」や「サエノカミ」、あるいは弥生期の「男女二体の木偶」とほとんど同じなのだと考えられます。
「男女二体の木偶」は、実は現代にも残っています。
東北地方各地に残る「オシラサマ」です。
地域によっては「オシラガミ」 。
「シラ」様であり、 「シラ」神です。
これらのご神体は、 「男女二体の木製神像」であることが知られています。
さらには遠野地方では「男女二体の性神」を「シラア」 (!)と呼んでいた(宮田登『白のフォークロア』 *1より)といいますから、弥生期にさかのぼる「男女二体の木偶」 、さらにはそれとはっきり”連続”するルーツである縄文の「土偶ー石棒」が、少なくとも「シラ」の信仰につながることはかなりの確率で言えるのではないでしょうか。
もう一つ決定的なことがあります。
「オシラサマ」といえば”口寄せ”で有名な「イタコ」の大切な呪具で、筒に入れて常に持ち歩いています。
民俗学者の宮本常一が、あるときイタコに無理を言ってその筒の中身を見せてもらったところ、中に紙が入っており「白山姫神」と書いてあったというのです。
前田速夫氏がその著書『白の民俗学へ』のなかで、”オシラサマ(オシラガミ)がシラヤマの神である動かぬ証拠”とやや興奮ぎみにこのことを報告しています。
「男女二体の木偶」であるオシラサマは、シラヤマの女神=ククリヒメと泉守道者の「男女一対神」と直接つながるものだったのです。
さらに付け加えれば、オシラサマはカイコの神(蚕神)としても知られますが、蚕もまた「シラ」を体現する生き物なのです。
蚕は脱皮を繰り返して一旦死んだようになった幼虫が、サナギとなってマユの中に静かに籠もり(このときサナギの中では蚕が一旦ドロドロに溶けた状態となり、生物の体を成していない、つまり疑似的「死」の状態にある)、何日後かにマユを突き破って、より華々しい成虫として力強く「再生」(羽化)することで、 「死と再生」を体現しているのです。
つまりオシラサマにも実質的に「シラ」=「死と再生」の信仰の特質が認められるのです。
ちなみにイタコといえば「恐山」ですが、この「オソレ」山も「オシラ」山から転訛したものではないかと個人的には考えています。
このように「男女一対の性神」の系譜は縄文期の「土偶ー石棒」から連綿とつながっており、それは(沖縄から来た) 「シラ」の概念・信仰に基づくものであると、かなりの確率で言えることが分かりました。
シラヤマ信仰の「陰陽二神(ククリヒメ・泉守道者)」もこの系譜につながることは確かなのですが、シラヤマ信仰自体が縄文期にまでさかのぼるものなのかどうか。
その”物的証拠”といえる縄文遺跡が、白山比咩神社の周辺(古社殿伝承地など)でいくつか見つかっています。
縄文中期の舟岡山遺跡・白山上野遺跡。
縄文後期~晩期の「白山(しらやま)遺跡」 。
これらはその立地上、白山比咩神社およびにシラヤマ信仰との関係が疑われている遺跡です。
とくに後~晩期の「白山遺跡」は中世にまで継続する集落遺跡で、祭祀施設だったとみられる「ウッドサークル」も発見されており、白山比咩神社の”起源”と深く関わる遺跡であると考えられるのです。
このようにシラヤマ信仰およびに白山比咩神社の「原型」さえもが、縄文期にまで遡る可能性が非常に高くなってきました。
縄文期に(沖縄から)伝わった「シラ」の概念・信仰に基づいて作られた「土偶ー石棒」の「男女一対神」 。
同じく縄文期にさかのぼり、同じく「シラ」の概念・信仰に基づくシラヤマ信仰の(「ククリヒメー泉守道者」という) 「陰陽二神」 。
前回(すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(5)沖縄と加賀の不思議な一致)で見た沖縄と加賀のただならぬ”関係”も考え合わせれば、 「土偶ー石棒」と「陰陽二神」は同等もしくは同一であると考えられるのです。
つまり「縄文の土偶」は、豊饒の女神(大地母神)でもある「シラヤマヒメ」を象ったものである、と。
この結論部分だけに関して言えば、これはワタシの個人的意見ではなく、何人かの専門家も同様の考えを持っています。
縄文期以降の「シラ」の概念・信仰およびに「シラヤマ」信仰の広がりと定着ぶりを見れば、沖縄から「シラ」の思想・信仰をたずさえて来た人々は、単に伝えるために来たのではなく、 ”移住”を伴っていたはずです。
それも大量に。
ではなぜ、彼らはわざわざ遥か遠くの北陸までやって来たのか。
そしてそれは一方通行的なものだったのか、それとも双方の往き来、さらには”交流”があったのかどうか。
それも含めて次回以降ということで。
参考文献:
他多数。
甲賀の真実
』(6)はまた次回ということで。
甲賀については前回、全国の木地師の中心とチラリと述べましたが、正確には甲賀を含む「南近江」一帯と書くべきでした。
この南近江は、かつて栗本慎一郎氏が「日本における闇のシンボルゾーン」と呼んで、日本の歴史を影で(=裏から)動かしてきたと指摘した土地です。
その原動力は、栗本氏は「山人(やまびと)」の系譜と言っていましたが、ワタシ流に言えば、それこそ「境の場の住人たち」だったのです。
具体的には(前回やや詳しく列挙しましたが)「商人・木地師などの工芸人・金属民(鉱山師・鋳物師・鍛冶師等)・芸能民(遊女・白拍子・傀儡子・大道芸人等)・宗教民・山岳修験者・‥‥etc.」といったヒトたちです。
点、そして「さまざまな”富”を産み出す」という点にあります。
日本列島の中心部にあり、また琵琶湖の水運をも視野に入れた東西南北の交通の要衝でもあった南近江一帯は、そのような「境の場の住人」が各地を遍歴する上で必ず往来する場所であり、全国各地の”富と情報”が行き交う特別な地域でもあったのです。
先述した木地師の本拠地ともいえる中心は南近江の現・東近江市(笑.ヤヤコシイですが一応南近江とします)の山深くにある君ヶ畑、蛭谷です。
この東近江市と甲賀にはさまれた地域には日野川が流れる日野町がありますが、全国に何か所かこれと同じ地名が散在しています。
詳しく述べる余裕はありませんが、この地名は古代から続く”金属にかかわる(採鉱・精錬加工など)”地名です。
実際、日野川流域には金属にかかわる地名や神社が散在しています。
また南近江には金属民の崇敬を集める霊山・三上山と御上神社が、野洲市にあります。
俵藤太伝説で藤太に退治された大ムカデが住んでいたのが三上山です。
ムカデは歴史・民俗学では金属民の象徴とされています。
注目すべきは南近江には秦庄をはじめとして、 ”~畑”など「秦氏」との関連をうかがわせる地名が多数あり、実際秦氏一族の根拠地の一つでもあります。
それもそのはず、鏡神社や兵主大社、穴村(穴村町)など、秦氏の祖伸であるアメノヒボコ*1に関係する地名や神社があるのも南近江です
南近江の西隣、京都と隣接した大津市には、古代からの石工技能集団で、戦国期には城の石垣造りに重宝された穴太(あのう)衆の本拠地がありました。
この穴太(アノウ)は、前回述べた聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の穴穂部(アナホベ)とも関係しています。*2
このような人々というか集団、すなわち「境の場の住人」たちが集住し、盛んに行き交っていたのが南近江であり、甲賀だったのです。
まさに全国規模の情報と物資と技術と富が南近江には集中していた。
そしてそれは特に戦国期において、戦略上おおいに求められたものばかりです。
そしてそこに住む人々は必然的に、 ”機を見るに敏”で”理にさとく”なります。
このような(しかも伊賀と隣接する)甲賀に全国屈指の忍者集団が生まれ、戦国期におおいに勢力を拡大したのも、ある意味当然と言えるでしょう。
そしてこの土地に生まれた戦国期の大名、六角氏や蒲生氏などはまさに南近江的な性格を濃厚に持った大名であり、「境の場の住人」との結びつき*3を背景に表舞台に出てきた人たちだったと考えられるのです。
忍者の起源 またまたブラタモリからのネタですが
ブラタモリで伊賀の忍者についてやってましたね。
次回の放送では甲賀をやるそうで。
伊賀の忍者はもともと地元の農民だったと番組では言っていましたが、さて?
もっとも古い忍者は、記録によれば聖徳太子が使っていた「志能備(忍び)」です。
もちろんアカデミズムでは一顧だにされていませんが(笑)。
その史料が「正史」ではない、荒唐無稽だ、とか理由で(笑)。
その「正史」である『日本書紀』では、聖徳太子より半世紀後の大海人皇子(おおあまのみこ) 、のちの天武天皇が「天文遁甲」を能くした、つまり自在に使いこなしていたと書かれています。
「天文遁甲」のうち、 「遁甲」とはつまり今風に言うと「忍術」のようなものです。
天武天皇はワタシが歴史上で最も好きな人物の一人で、大変興味深い側面・裏面を持っています。
そのうち採り上げてみたいと思いますが、今回は聖徳太子の方に焦点を当ててみましょう。
聖徳太子が使っていた「志能備」が最初の忍者であることを記していたのは、じつはブラタモリの中でも紹介されていた忍術書『萬川集海』です。
その志能備の名は大伴細人という人物とされてますが実在した人物かどうかは不明です。謎の人物です。
じつはそれ以外にも太子の周辺には、実在したことは事実なのに謎が多くその人物像がはっきりしない人が2人います。
側近中の側近・秦河勝と、太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后です。
秦河勝といえば、当時の秦氏の族長・太秦(ウズマサ)だった人です。
秦氏というのは、以前当ブログで言ったと思いますが、日本中の「境界」を支配して非常に大きな力を有していた一族です(以前のブログでは「境界」という言葉は使っていなかったかもしれませんが)。
境界すなわち「境の場」というのは、
- 交通に関わる「(陸上の)道、(水上の道である)河川や海辺・湖畔、坂、辻、河原、橋、山、etc.」など本来誰のものでも無いはずの場所
- そしてそこに立つ「市(市場)」
などです。
じつはそれら「境の場」を活動場所とし、往き来していた「大道芸人・木地師・鉱山にかかわる金属民・鍛冶師・鋳物師・白拍子・白太夫・遊女・白比丘尼・修験者(山伏)・神人(ジニン)・坂の者・河原者・渡し守・etc.」といった古代から中世にかけての漂泊芸能民、漂泊宗教民等は、秦河勝をその祖としている人たちが多かったのです。
ブラタモリでは忍者の原型として、全国の山々を行きかい、情報収集にも長けていた修験者(山伏)に言及していましたが、彼らなどはここで挙げた通り、(ワタシ流にいえば) 「境の場の住人」の典型です。
伊賀忍者といえば服部氏が有名ですが、彼らの起源も古く、もともと古代では”服織部(ハタオリベ)”だったのが省略されて”服部(ハットリ)”となったものです。
彼らも元々は秦(ハタ)氏の一族だったと考えられています。
養蚕で得られた絹を機織り(ハタオリ)して作った絹織物が、秦氏の大きな財源の一つだったことは言うまでもありません。
秦河勝といえば、太子に命じられてその前で”六十六番のものまね”を披露したことが有名ですが、これなど不思議に感じられた方も多いのではないでしょうか。
これが後の申楽=猿楽(さるがく)のルーツになったと、やはり秦河勝の子孫であることを主張した世阿弥の『風姿花伝』に書かれていますが、このような能力(多彩なものまね)も「忍び」の能力と重なります。
そのような能力を活かした大道芸人などの漂泊芸能民や、修験者などの漂泊宗教民を日常の姿として、全国津々浦々を走破したのが「忍び」だったのです。
伊賀に関して言えば、確かに”食う”ために農業もしていたでしょうが、ただの農民ではなかった、ということです。
そもそも伊賀の地は番組でも言っていたように「交通の要衝」であり、大きな「境の場」としてさまざまな漂泊芸能民や漂泊宗教民が常に行き交う土地だったのでしょう。
すぐ隣には、日本中の山々を往く木地師の中心であった「甲賀」もありましたし。
ともあれ、このように大伴細人は実在したかどうかわかりませんが、確実に太子の側近として実在した秦河勝は、 「忍び(志能備)」と大いに関り、あるいは「境の場の住人」の長として、志能備を配下にする立場の人物だった可能性が考えられるのです。
さらに問題なのは、太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后です。
「穴穂部」の名についても非常に大きな問題をはらんでいるのですが*1、ここでは「間人(ハシヒト)」だけにフォーカスを当てましょう。
「間人(ハシヒト)」はつまり「間の人」。
何と何の間かといえば、それは「神と人」の間。
さらには「あの世とこの世」の間。
要するに「間人(ハシヒト)」というのは、「あの世」の存在である霊魂や精霊さらには神と、「この世」の存在である人との「間=境の場」に立って、両者を結びつける、くくりつける存在。
つまり間人皇后の場合、神の意思を人間社会に伝える存在、「託宣する巫女」だったと考えられます。
それも国家最高位クラスの。
じつは「間人」の「ハシ」という語には、 「相対する二つの存在の間にあって両者をつなげるもの」という意味があります。
橋渡しの「橋」は川辺のアッチとコッチをつなげるもの。
「箸」は食べ物と自分をつなげる、もっと言えば、 ”神人供食”という考え方において、神にささげた食べ物を自分も「箸」で頂くことによって、神と一つになる、神と自分の間をつなげる、という古え(いにしえ)の考え方から来ています。
間人皇后と同じような存在として、崇神天皇のおばだった「ヤマトトトヒモモソヒメ」がいます。
この人物は”神”である「蛇」を飼って託宣する「蛇巫女」だったと考えられています。
そういえば秦氏も竜蛇神を信仰する「蛇」氏だったことも、以前このブログで述べました。
それはともかくこの「間人」 、前々回と前前々回で述べたシラヤマ信仰のククリヒメにそっくりですよね。
ククリヒメもあの世とこの世の「境の場」に立って、あの世の存在の言葉を伝える=託宣する(だけではありませんでしたが)巫女でした。
つまりハシヒトとはあの世とこの世をくくるククリヒメであり、逆にククリヒメはあの世とこの世を橋渡しするハシヒトなのです。
両者は「境の場の住人」の典型と言えます。
問題は聖徳太子が「間人(ハシヒト)」である母の血を、色濃く受け継いでいる、ということです。
正史『日本書紀』には聖徳太子が「兼ねて未然を知ろしめす」と書かれ、先のことを予見できたことが書かれています。
また『未然記』『未来記』なるものを残していたともいわれます。
これなどもアカデミックな世界では話題にすら上りませんが、太子がハシヒトであった母の能力を受け継いでいた、さらにその「技術」を学んでいたとしたら、それが”真実”であった可能性は俄然高くなります。
むしろそのような能力は持っていて当然、という見方さえ出来るのです。
さらに重要なのは、聖徳太子自身が「境の場に立つ住人」だった可能性があることです。
だとすれば、 「境の場の住人」の長である太秦・秦河勝が、なぜ側近として太子の傍に常に寄り添っていたのか、という理由も見えてきます。
彼らがさまざまな能力・特技をもつ「境の場の住人」たちを、諜報活動のための「志能備」として活用していた可能性は大いにある。
ワタシはそう思います。
すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(5)沖縄と加賀の不思議な一致
「シラ(死と再生)」の信仰である白山(シラヤマ)信仰に基づいた「擬死再生(=ウマレキヨマリ)」の儀礼は、白山を仰ぐ加賀よりもむしろその近辺の地域に有名なものが残っています。*1
三河地方の「花祭」における「白山(シラヤマ)行事」や、富山県立山の芦峅寺における「布橋灌頂(ぬのはしかんじょう)」がそれです。
詳しく述べる余裕はありませんが、いずれも「橋」を渡って「暗く密閉された空間」に籠もったあと、解放されることで”新たな力強い自分に生まれ変わった(ウマレキヨマル)”ことを実感するというものです。
では肝心の加賀にはそのような民俗儀礼がまったく残っていないのかといえば、花祭や布橋灌頂ほど大々的ではありませんが、じつは細々と伝えられてきた”奇習”があります。
それが金沢にいまも残る「七つ橋渡り」です。
金沢の古い街なかだけで口伝えで伝承されてきた行事です。
この行事は春と秋の彼岸中日の真夜中午前0時に行われます。
50歳前後の女性たちが集団で、街なかを流れる浅野川に架かる七つの橋を、上流から下流に向かって順番に渡ってゆくのですが、
- 新しい「白い」下着をつける。
- 行事の最中は無言で歩く。
- 行事の最中は決して後ろを振り返らない。
- 同じ道、同じ橋は二度と通らず、一筆書きのように進む。
などの決まり事があります。
これによって”老齢後の健全”が叶うというものです。
あきらかに「シラ(死と再生)」の概念に基づく「生命力の更新」を図る儀礼であり、これによって「グレードアップされた新しい自分に生まれ変わる」のです。
ただ「七つの橋を渡る」というこの儀礼の起源はまったく不明なのだそうです。
ところが、この儀礼と驚くほど酷似している儀礼が、遠くはなれた沖縄の祭祀の中にあったというのです。
その祭祀とは「イザイホー」です。
沖縄のなかでも”聖地”として知られる「神の島」久高島。
そこで1978年まで行われていたのがイザイホーです。
久高島で生まれ育った女性はある一定の年齢に達すると必ず、神に仕え、また家族を守護する「神女(タマガエー)」になることになっていたのだそうです。
12年ごとの午年、旧暦十一月十五日の満月の日から4日間にわたって行われる、30歳から41歳の女性が「神女」に就任する儀式、それがイザイホーなのです。
金沢の「七つ橋渡り」と酷似する儀式はその初日に行われます。
その名もまったく同じ「七ツ橋渡り」です。
※『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』比嘉康雄(集英社新書)より
イザイホーの「七ツ橋渡り」では、初日の夕刻、 「白」装束の女性たちが”エーファイ”と連呼しながら「七ツ橋」と呼ばれる橋を渡って”他界との境界”である「神の宮(ハンアシャギ)」に入り、入りきると踵を返してまた「七ツ橋」を渡って”現世”側に出てくる、ということを7回繰り返します。
7回目にハンアシャギに入ると全員で「神歌(ティルル)」を歌い、歌い終わると反対側の出口から”他界”である「七ツ屋」に入ります。
神女となる女性たちはそこで一晩を過ごし、二日目の午前中にそこから出てくるのです。
イザイホーはその後も続き(全4日間)ますが、「七ツ橋渡り」に関する行事はここまでです。
細かい相違点はありますが、 「橋」を7回渡る ということ、 「グレードアップした新しい自分に生まれ変わる」と言った点では完全に一致しています。
とくに、 「七つ橋渡り」という儀礼名の一致など偶然とは思えないものがあります。
なにより両者ともに「シラ(死と再生)」の儀礼であると言う事。
「シラ」の最も古い形が、柳田国男によって沖縄の地に見出されていたことは、以前述べた通りです。
もうひとつ、両者の奇妙な一致点を述べましょう。
金沢の「七つ橋渡り」では上流から下流に向かって順次橋を渡っていくと先ほど述べましたが、最後の橋である昌永橋からさらに下流側へ1キロほど下ったところに「七ツ屋」町があります。
前述の通りイザイホーの「七ツ橋渡り」でも、最後の7回目からさらに”他界”側へ向かって「七ツ屋」に入ります。
これを偶然と捉えるかどうかは、読んでいるアナタ方におまかせします。
もちろんワタシは偶然とは思っていません(笑)。
他にも沖縄久高島と加賀のそれぞれ独特の民俗儀礼・風習において、奇妙な一致を見せるものがいくつかありますが、長くなるのでここではもう言及しません。*2
それはさておき、前回、 「大いなる境の場」としての加賀と白山比咩神社について述べましたが、そこでひとつ大事なことを言い忘れていました。
それはこの地が、東日本と西日本のちょうど境界、すなわち日本列島全体の「境の場」でもあったということです。
大げさと思われるかもしれません。
しかし前回述べた、この地の他の「境の場」的要素からみても、それが偶然だとは思えません。
だとすれば、この地を「列島規模の境の場」であることを見出した人たちとは、当然、 ”列島規模でこの地を見ることが出来た人たち”であったに違いありません。
もちろん飛行機も無ければ人工衛星も無かった時代の話です。
それは遠い海からやって来て、海からこの日本列島を見ることのできた人々であったはずです。
それも南の海からやって来た人々だったはずです。
なぜなら南から海流に乗って来た時に、真っ先に見える秀麗な「白い山」こそが加賀の白山であり、また逆に北から来たのだとすれば「白い山」など珍しくも無く、そこを自らの信仰(「シラ(死と再生)」)の”聖地”になどとは考えなかったでしょうから。
以上のことから、加賀の地に「シラ(死と再生)」の概念、 「白山(シラヤマ)信仰」 、そして「七つ橋渡り」の儀礼の原型等をもたらした人々とは、
すなわち沖縄から来たと考えるのが、もっとも自然だと思われるのです。
ところで「シラ」の概念をたずさえて沖縄から来た人々は、加賀の地だけにとどまったのでしょうか。
もちろんそうではありません。
何しろこの日本列島を、それこそ列島規模で眺めていた人たちです。
彼らは主に日本海側を中心に日本列島中に展開したとワタシは考えています。
その傍証となるものが、列島中の「縄文遺跡」から発見されているのです。
ワタシが、 「シラ」あるいは「シラヤマ信仰」の原型が縄文時代に伝わって来た と考える理由はそこにあります。
またその名残ともいえる信仰儀礼が東北地方各地に残っています。
次回は縄文時代に伝わった「シラ」とその具体例について見ていきましょう。
参考文献:
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(4)白山比咩神社が鎮座する「境の場」
白山比咩神社は加賀地方の鶴来(ツルギ)町(現・白山市)の、白山から流れ出る手取川を見おろす高台に鎮座しています。
手取川は古代においては比楽河と呼ばれていました。
「ヒラ」の”ヒ”は、古くから”シ”と転訛しやすい音であり、ヒラ=シラ、要するに「シラ」の川だったと(あくまで私見ですが)考えられます。
つまり「シラ」ヤマから流れ出る「シラ」の川の横に鎮座しているのです。
しかももっと大事なことがあります。
それはこの神社が、 「死の世界(あの世)」と「生の世界(この世)」のちょうど境界に位置している、ということです。
この神社は白山(シラヤマ)を源流とする手取川(シラの川)が、狭い山間部から広い平野へと流れ出る扇状地の「扇頂」部分、扇のかなめの部分に位置しているのです。
このことが意味することとは何か。
古来、「山」とは死者の霊魂が赴くところと考えられてきました。
なかでも「シラ(死と再生)」の山である白山はその最たるもの。
実はククリヒメ以外に、越前の平泉寺のようにイザナミを白山の女神としているところもあります。
前回述べたようにイザナギの妻だったイザナミは、黄泉の存在です。
つまり白山こそが列島中の死者が集まる黄泉の国という認識があり、そこからイザナミを白山の女神だとする考え方が出てきたのだと思われます。*1
古代において白山(シラヤマ)は黄泉=死者の世界(あの世)だと考えられていたのです。
つまり、白山から白山比咩神社が鎮座する扇頂部にまで至る山間部は列島規模における「死者の世界」 。
白山比咩神社を「境」にして、そこから下流域、すなわち人々が暮らす平野部はもちろん「生者の世界」 。
このように白山比咩神社は「シラ」の川のそばというだけではなく、文字通り列島規模における「あの世とこの世の境界」=大いなる「境の場」に鎮座しているのです。
もちろんこの場所に鎮座しているのは、偶然ではないでしょう。
はっきりと意識してそこに建てられたはずです。
ワタシの考えを述べさせてもらえば、シラヤマ、そしてククリヒメの「シラ」の力=「死から生への転換力」=「蘇り・黄泉がえりの力」を最大限に生かすため、そうとしか考えられません。
では何故、加賀という一地方にあるこの白山(シラヤマ) 、そして白山比咩神社が”列島規模”の「シラ」の場、 「大いなる境の場」となったのか。
それはこのシリーズ『すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか』でたびたび言及している、対馬暖流に乗ってやって来た人々が、海上から最初に見つけた最も秀麗な「白い山」が加賀の白山(シラヤマ)だったからだと考えられるからです。
コトは縄文時代にまで遡ると考えられます。
しかし縄文時代のハナシは後にとっておいて、まず「対馬暖流に乗って来た人々」についての話からした方が良いでしょう。
「対馬暖流に乗って来た人々」 、つま沖縄から来た人々のことです。
※イメージです
なぜ沖縄から来たと言えるのか。
前回まで述べたように「シラ」という共通の概念があることも、もちろんその一つです。
しかしそれ以上に、興味深く、しかも驚くべき共通点が、沖縄と加賀にあったのです。
それは次回で。お楽しみに。
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
*1:この点については拙著『影の王』にて詳しく検証しました。