すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(6)縄文の「シラヤマヒメ」
沖縄から対馬暖流に乗ってやって来たシラ(「死と再生」)の概念・信仰は、主に本州日本海側に広がってシラヤマの信仰となった。
その傍証となるものが各地の縄文遺跡から出土している。
またその名残と言える信仰儀礼が東北地方各地にも残っている、というのが前回までの話。
つまり「シラ」は縄文時代に沖縄から伝わったことになります。
縄文期にすでに「シラ(死と再生)」の概念が伝わっていたことを示す遺物とは何か。
お気づきの人も多いかと思いますが、それは土偶です。
土偶はその形状(胸部や女性器、妊娠を示す腹部)から女性像であり、豊饒・増殖の女神、大地母神をかたどった姿であるとの見方が非常に有力です。
その理由として妊娠を示す形状のものが多いこと。
そしてほとんどすべての土偶は人為的に、全体や一部が破壊された状態で発見されていますが、最初から破壊する目的で壊されやすいように作られていたことなどが挙げられます。
土偶を破壊する事というのは、つまり大地の女神を破壊=殺害するということ。
古事記などに見られる日本神話や南北アメリカを含む太平洋各地の神話では、女神を殺害することで、その遺骸から多くの食べ物や作物(の起源)が得られたという共通のモチーフが数多く見られます。
その代表的な神話の女神の名からハイヌヴェレ(ハイヌウェレ)型と呼ばれる食物起源神話です。
あまりに広範な分布から、相当に古い思想であると考えられます。
つまり土偶が最初から全体や一部を破壊するために作られていたということは、女神を殺すことで豊饒を願い、またケガや病気からの快復を願い、さらにそこから転じて(乳幼児の死亡率が高かったことから)死後の再生や多産までも願う一種の呪物だったと考えられるのです。
これはまさに「死と再生」すなわち「シラ」の信仰です。
では土偶が象った女神とは「シラ」の女神なのか。
土偶と同じ時期に盛んに造られたものに男性器を象った石棒があります。
両者が一緒に出土する例もあることから、これらは一つのセットだと考えられます。
女神と男神のセット、つまり男女一対神。
この男女一対神の系譜は非常に古いことが知られていますが、そのルーツは縄文時代の「土偶ー石棒」にさかのぼるものだったのです。
そしてこれは、シラヤマ信仰の総本宮である白山比咩神社の主祭神(つまりシラヤマヒメ)であるククリヒメと、その相方である泉守道者(ヨモツモリミチヒト)の男女一対神と重なります。
事実、現在の主祭神はククリヒメですが、柳田国男が当時の白山比咩神社の宮司から聴き出した社伝では、古くは「陰陽二神」(つまり男女一対神)だった、という話があるのです。
男女一対神というのは、その多くが男女の性的結合を表している神像なのです(そのため「男女一対の性神」という言われ方もします)が、白山比咩神社が永く「陰陽二神」であることを秘していた理由もそのあたりにあるのではないでしょうか。
話しがそれましたが、いにしえの人々はそれほどまでに女神の妊娠による豊饒と多産を祈願していたと言えます。
先ほど「土偶が象った女神とはシラの女神なのか」と書きましたが、少し形を変えてもう一度問いましょう。
シラヤマ信仰のククリヒメと泉守道者の男女一対神(陰陽二神)は、本当に縄文の土偶と石棒に起源を持つのか。
これはシラヤマ信仰は本当に縄文にまで遡るのか、 「土偶ー石棒」はそのことを示すものなのか、という問いでもあります。
さて?
縄文の「土偶ー石棒」とシラヤマ信仰の「陰陽二神」の間(ミッシング・リンク)を埋めるものはあるのか。
実はその”連続性”については、おおよそ分かっています。
まず縄文に続く弥生時代。
縄文からの系譜を引くと考えられる「人形(ひとがた)土製品」 、 「石棒」や「木製の男根像」が各地で出土していますが、前期でほぼ姿を消します。
それを継ぐのが弥生中期以降の「男女二体の木偶」で、出土場所が集落と墓地の「境界」に位置する祭場と推測されているケースもあります。
この系譜はずっと続き、平安期にはそれがさまざまな神像として残っていたことが記録で確認されています。
京都の辻々に祀られた、男女の性器が刻まれて赤く塗られた男女二体の木製神像である「岐神(クナドノカミ)」 。
同様に辻や村境などの「境の場」に祀られた男女二体の性神である「サエノカミ(道祖神・塞神)」 。
現在でも男女の結合を表した「道祖神(ドウソジン)」(双体道祖神)が見られることをご存知の方も多いでしょう。
ここまで来るとシラヤマ信仰の「陰陽二神(男女一対の性神)」との類似性は明らかです。
おそらくシラヤマ信仰の「陰陽二神」の姿も、「クナドノカミ」や「サエノカミ」、あるいは弥生期の「男女二体の木偶」とほとんど同じなのだと考えられます。
「男女二体の木偶」は、実は現代にも残っています。
東北地方各地に残る「オシラサマ」です。
地域によっては「オシラガミ」 。
「シラ」様であり、 「シラ」神です。
これらのご神体は、 「男女二体の木製神像」であることが知られています。
さらには遠野地方では「男女二体の性神」を「シラア」 (!)と呼んでいた(宮田登『白のフォークロア』 *1より)といいますから、弥生期にさかのぼる「男女二体の木偶」 、さらにはそれとはっきり”連続”するルーツである縄文の「土偶ー石棒」が、少なくとも「シラ」の信仰につながることはかなりの確率で言えるのではないでしょうか。
もう一つ決定的なことがあります。
「オシラサマ」といえば”口寄せ”で有名な「イタコ」の大切な呪具で、筒に入れて常に持ち歩いています。
民俗学者の宮本常一が、あるときイタコに無理を言ってその筒の中身を見せてもらったところ、中に紙が入っており「白山姫神」と書いてあったというのです。
前田速夫氏がその著書『白の民俗学へ』のなかで、”オシラサマ(オシラガミ)がシラヤマの神である動かぬ証拠”とやや興奮ぎみにこのことを報告しています。
「男女二体の木偶」であるオシラサマは、シラヤマの女神=ククリヒメと泉守道者の「男女一対神」と直接つながるものだったのです。
さらに付け加えれば、オシラサマはカイコの神(蚕神)としても知られますが、蚕もまた「シラ」を体現する生き物なのです。
蚕は脱皮を繰り返して一旦死んだようになった幼虫が、サナギとなってマユの中に静かに籠もり(このときサナギの中では蚕が一旦ドロドロに溶けた状態となり、生物の体を成していない、つまり疑似的「死」の状態にある)、何日後かにマユを突き破って、より華々しい成虫として力強く「再生」(羽化)することで、 「死と再生」を体現しているのです。
つまりオシラサマにも実質的に「シラ」=「死と再生」の信仰の特質が認められるのです。
ちなみにイタコといえば「恐山」ですが、この「オソレ」山も「オシラ」山から転訛したものではないかと個人的には考えています。
このように「男女一対の性神」の系譜は縄文期の「土偶ー石棒」から連綿とつながっており、それは(沖縄から来た) 「シラ」の概念・信仰に基づくものであると、かなりの確率で言えることが分かりました。
シラヤマ信仰の「陰陽二神(ククリヒメ・泉守道者)」もこの系譜につながることは確かなのですが、シラヤマ信仰自体が縄文期にまでさかのぼるものなのかどうか。
その”物的証拠”といえる縄文遺跡が、白山比咩神社の周辺(古社殿伝承地など)でいくつか見つかっています。
縄文中期の舟岡山遺跡・白山上野遺跡。
縄文後期~晩期の「白山(しらやま)遺跡」 。
これらはその立地上、白山比咩神社およびにシラヤマ信仰との関係が疑われている遺跡です。
とくに後~晩期の「白山遺跡」は中世にまで継続する集落遺跡で、祭祀施設だったとみられる「ウッドサークル」も発見されており、白山比咩神社の”起源”と深く関わる遺跡であると考えられるのです。
このようにシラヤマ信仰およびに白山比咩神社の「原型」さえもが、縄文期にまで遡る可能性が非常に高くなってきました。
縄文期に(沖縄から)伝わった「シラ」の概念・信仰に基づいて作られた「土偶ー石棒」の「男女一対神」 。
同じく縄文期にさかのぼり、同じく「シラ」の概念・信仰に基づくシラヤマ信仰の(「ククリヒメー泉守道者」という) 「陰陽二神」 。
前回(すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(5)沖縄と加賀の不思議な一致)で見た沖縄と加賀のただならぬ”関係”も考え合わせれば、 「土偶ー石棒」と「陰陽二神」は同等もしくは同一であると考えられるのです。
つまり「縄文の土偶」は、豊饒の女神(大地母神)でもある「シラヤマヒメ」を象ったものである、と。
この結論部分だけに関して言えば、これはワタシの個人的意見ではなく、何人かの専門家も同様の考えを持っています。
縄文期以降の「シラ」の概念・信仰およびに「シラヤマ」信仰の広がりと定着ぶりを見れば、沖縄から「シラ」の思想・信仰をたずさえて来た人々は、単に伝えるために来たのではなく、 ”移住”を伴っていたはずです。
それも大量に。
ではなぜ、彼らはわざわざ遥か遠くの北陸までやって来たのか。
そしてそれは一方通行的なものだったのか、それとも双方の往き来、さらには”交流”があったのかどうか。
それも含めて次回以降ということで。
参考文献:
他多数。
甲賀の真実
』(6)はまた次回ということで。
甲賀については前回、全国の木地師の中心とチラリと述べましたが、正確には甲賀を含む「南近江」一帯と書くべきでした。
この南近江は、かつて栗本慎一郎氏が「日本における闇のシンボルゾーン」と呼んで、日本の歴史を影で(=裏から)動かしてきたと指摘した土地です。
その原動力は、栗本氏は「山人(やまびと)」の系譜と言っていましたが、ワタシ流に言えば、それこそ「境の場の住人たち」だったのです。
具体的には(前回やや詳しく列挙しましたが)「商人・木地師などの工芸人・金属民(鉱山師・鋳物師・鍛冶師等)・芸能民(遊女・白拍子・傀儡子・大道芸人等)・宗教民・山岳修験者・‥‥etc.」といったヒトたちです。
点、そして「さまざまな”富”を産み出す」という点にあります。
日本列島の中心部にあり、また琵琶湖の水運をも視野に入れた東西南北の交通の要衝でもあった南近江一帯は、そのような「境の場の住人」が各地を遍歴する上で必ず往来する場所であり、全国各地の”富と情報”が行き交う特別な地域でもあったのです。
先述した木地師の本拠地ともいえる中心は南近江の現・東近江市(笑.ヤヤコシイですが一応南近江とします)の山深くにある君ヶ畑、蛭谷です。
この東近江市と甲賀にはさまれた地域には日野川が流れる日野町がありますが、全国に何か所かこれと同じ地名が散在しています。
詳しく述べる余裕はありませんが、この地名は古代から続く”金属にかかわる(採鉱・精錬加工など)”地名です。
実際、日野川流域には金属にかかわる地名や神社が散在しています。
また南近江には金属民の崇敬を集める霊山・三上山と御上神社が、野洲市にあります。
俵藤太伝説で藤太に退治された大ムカデが住んでいたのが三上山です。
ムカデは歴史・民俗学では金属民の象徴とされています。
注目すべきは南近江には秦庄をはじめとして、 ”~畑”など「秦氏」との関連をうかがわせる地名が多数あり、実際秦氏一族の根拠地の一つでもあります。
それもそのはず、鏡神社や兵主大社、穴村(穴村町)など、秦氏の祖伸であるアメノヒボコ*1に関係する地名や神社があるのも南近江です
南近江の西隣、京都と隣接した大津市には、古代からの石工技能集団で、戦国期には城の石垣造りに重宝された穴太(あのう)衆の本拠地がありました。
この穴太(アノウ)は、前回述べた聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の穴穂部(アナホベ)とも関係しています。*2
このような人々というか集団、すなわち「境の場の住人」たちが集住し、盛んに行き交っていたのが南近江であり、甲賀だったのです。
まさに全国規模の情報と物資と技術と富が南近江には集中していた。
そしてそれは特に戦国期において、戦略上おおいに求められたものばかりです。
そしてそこに住む人々は必然的に、 ”機を見るに敏”で”理にさとく”なります。
このような(しかも伊賀と隣接する)甲賀に全国屈指の忍者集団が生まれ、戦国期におおいに勢力を拡大したのも、ある意味当然と言えるでしょう。
そしてこの土地に生まれた戦国期の大名、六角氏や蒲生氏などはまさに南近江的な性格を濃厚に持った大名であり、「境の場の住人」との結びつき*3を背景に表舞台に出てきた人たちだったと考えられるのです。
忍者の起源 またまたブラタモリからのネタですが
ブラタモリで伊賀の忍者についてやってましたね。
次回の放送では甲賀をやるそうで。
伊賀の忍者はもともと地元の農民だったと番組では言っていましたが、さて?
もっとも古い忍者は、記録によれば聖徳太子が使っていた「志能備(忍び)」です。
もちろんアカデミズムでは一顧だにされていませんが(笑)。
その史料が「正史」ではない、荒唐無稽だ、とか理由で(笑)。
その「正史」である『日本書紀』では、聖徳太子より半世紀後の大海人皇子(おおあまのみこ) 、のちの天武天皇が「天文遁甲」を能くした、つまり自在に使いこなしていたと書かれています。
「天文遁甲」のうち、 「遁甲」とはつまり今風に言うと「忍術」のようなものです。
天武天皇はワタシが歴史上で最も好きな人物の一人で、大変興味深い側面・裏面を持っています。
そのうち採り上げてみたいと思いますが、今回は聖徳太子の方に焦点を当ててみましょう。
聖徳太子が使っていた「志能備」が最初の忍者であることを記していたのは、じつはブラタモリの中でも紹介されていた忍術書『萬川集海』です。
その志能備の名は大伴細人という人物とされてますが実在した人物かどうかは不明です。謎の人物です。
じつはそれ以外にも太子の周辺には、実在したことは事実なのに謎が多くその人物像がはっきりしない人が2人います。
側近中の側近・秦河勝と、太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后です。
秦河勝といえば、当時の秦氏の族長・太秦(ウズマサ)だった人です。
秦氏というのは、以前当ブログで言ったと思いますが、日本中の「境界」を支配して非常に大きな力を有していた一族です(以前のブログでは「境界」という言葉は使っていなかったかもしれませんが)。
境界すなわち「境の場」というのは、
- 交通に関わる「(陸上の)道、(水上の道である)河川や海辺・湖畔、坂、辻、河原、橋、山、etc.」など本来誰のものでも無いはずの場所
- そしてそこに立つ「市(市場)」
などです。
じつはそれら「境の場」を活動場所とし、往き来していた「大道芸人・木地師・鉱山にかかわる金属民・鍛冶師・鋳物師・白拍子・白太夫・遊女・白比丘尼・修験者(山伏)・神人(ジニン)・坂の者・河原者・渡し守・etc.」といった古代から中世にかけての漂泊芸能民、漂泊宗教民等は、秦河勝をその祖としている人たちが多かったのです。
ブラタモリでは忍者の原型として、全国の山々を行きかい、情報収集にも長けていた修験者(山伏)に言及していましたが、彼らなどはここで挙げた通り、(ワタシ流にいえば) 「境の場の住人」の典型です。
伊賀忍者といえば服部氏が有名ですが、彼らの起源も古く、もともと古代では”服織部(ハタオリベ)”だったのが省略されて”服部(ハットリ)”となったものです。
彼らも元々は秦(ハタ)氏の一族だったと考えられています。
養蚕で得られた絹を機織り(ハタオリ)して作った絹織物が、秦氏の大きな財源の一つだったことは言うまでもありません。
秦河勝といえば、太子に命じられてその前で”六十六番のものまね”を披露したことが有名ですが、これなど不思議に感じられた方も多いのではないでしょうか。
これが後の申楽=猿楽(さるがく)のルーツになったと、やはり秦河勝の子孫であることを主張した世阿弥の『風姿花伝』に書かれていますが、このような能力(多彩なものまね)も「忍び」の能力と重なります。
そのような能力を活かした大道芸人などの漂泊芸能民や、修験者などの漂泊宗教民を日常の姿として、全国津々浦々を走破したのが「忍び」だったのです。
伊賀に関して言えば、確かに”食う”ために農業もしていたでしょうが、ただの農民ではなかった、ということです。
そもそも伊賀の地は番組でも言っていたように「交通の要衝」であり、大きな「境の場」としてさまざまな漂泊芸能民や漂泊宗教民が常に行き交う土地だったのでしょう。
すぐ隣には、日本中の山々を往く木地師の中心であった「甲賀」もありましたし。
ともあれ、このように大伴細人は実在したかどうかわかりませんが、確実に太子の側近として実在した秦河勝は、 「忍び(志能備)」と大いに関り、あるいは「境の場の住人」の長として、志能備を配下にする立場の人物だった可能性が考えられるのです。
さらに問題なのは、太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后です。
「穴穂部」の名についても非常に大きな問題をはらんでいるのですが*1、ここでは「間人(ハシヒト)」だけにフォーカスを当てましょう。
「間人(ハシヒト)」はつまり「間の人」。
何と何の間かといえば、それは「神と人」の間。
さらには「あの世とこの世」の間。
要するに「間人(ハシヒト)」というのは、「あの世」の存在である霊魂や精霊さらには神と、「この世」の存在である人との「間=境の場」に立って、両者を結びつける、くくりつける存在。
つまり間人皇后の場合、神の意思を人間社会に伝える存在、「託宣する巫女」だったと考えられます。
それも国家最高位クラスの。
じつは「間人」の「ハシ」という語には、 「相対する二つの存在の間にあって両者をつなげるもの」という意味があります。
橋渡しの「橋」は川辺のアッチとコッチをつなげるもの。
「箸」は食べ物と自分をつなげる、もっと言えば、 ”神人供食”という考え方において、神にささげた食べ物を自分も「箸」で頂くことによって、神と一つになる、神と自分の間をつなげる、という古え(いにしえ)の考え方から来ています。
間人皇后と同じような存在として、崇神天皇のおばだった「ヤマトトトヒモモソヒメ」がいます。
この人物は”神”である「蛇」を飼って託宣する「蛇巫女」だったと考えられています。
そういえば秦氏も竜蛇神を信仰する「蛇」氏だったことも、以前このブログで述べました。
それはともかくこの「間人」 、前々回と前前々回で述べたシラヤマ信仰のククリヒメにそっくりですよね。
ククリヒメもあの世とこの世の「境の場」に立って、あの世の存在の言葉を伝える=託宣する(だけではありませんでしたが)巫女でした。
つまりハシヒトとはあの世とこの世をくくるククリヒメであり、逆にククリヒメはあの世とこの世を橋渡しするハシヒトなのです。
両者は「境の場の住人」の典型と言えます。
問題は聖徳太子が「間人(ハシヒト)」である母の血を、色濃く受け継いでいる、ということです。
正史『日本書紀』には聖徳太子が「兼ねて未然を知ろしめす」と書かれ、先のことを予見できたことが書かれています。
また『未然記』『未来記』なるものを残していたともいわれます。
これなどもアカデミックな世界では話題にすら上りませんが、太子がハシヒトであった母の能力を受け継いでいた、さらにその「技術」を学んでいたとしたら、それが”真実”であった可能性は俄然高くなります。
むしろそのような能力は持っていて当然、という見方さえ出来るのです。
さらに重要なのは、聖徳太子自身が「境の場に立つ住人」だった可能性があることです。
だとすれば、 「境の場の住人」の長である太秦・秦河勝が、なぜ側近として太子の傍に常に寄り添っていたのか、という理由も見えてきます。
彼らがさまざまな能力・特技をもつ「境の場の住人」たちを、諜報活動のための「志能備」として活用していた可能性は大いにある。
ワタシはそう思います。
すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(5)沖縄と加賀の不思議な一致
「シラ(死と再生)」の信仰である白山(シラヤマ)信仰に基づいた「擬死再生(=ウマレキヨマリ)」の儀礼は、白山を仰ぐ加賀よりもむしろその近辺の地域に有名なものが残っています。*1
三河地方の「花祭」における「白山(シラヤマ)行事」や、富山県立山の芦峅寺における「布橋灌頂(ぬのはしかんじょう)」がそれです。
詳しく述べる余裕はありませんが、いずれも「橋」を渡って「暗く密閉された空間」に籠もったあと、解放されることで”新たな力強い自分に生まれ変わった(ウマレキヨマル)”ことを実感するというものです。
では肝心の加賀にはそのような民俗儀礼がまったく残っていないのかといえば、花祭や布橋灌頂ほど大々的ではありませんが、じつは細々と伝えられてきた”奇習”があります。
それが金沢にいまも残る「七つ橋渡り」です。
金沢の古い街なかだけで口伝えで伝承されてきた行事です。
この行事は春と秋の彼岸中日の真夜中午前0時に行われます。
50歳前後の女性たちが集団で、街なかを流れる浅野川に架かる七つの橋を、上流から下流に向かって順番に渡ってゆくのですが、
- 新しい「白い」下着をつける。
- 行事の最中は無言で歩く。
- 行事の最中は決して後ろを振り返らない。
- 同じ道、同じ橋は二度と通らず、一筆書きのように進む。
などの決まり事があります。
これによって”老齢後の健全”が叶うというものです。
あきらかに「シラ(死と再生)」の概念に基づく「生命力の更新」を図る儀礼であり、これによって「グレードアップされた新しい自分に生まれ変わる」のです。
ただ「七つの橋を渡る」というこの儀礼の起源はまったく不明なのだそうです。
ところが、この儀礼と驚くほど酷似している儀礼が、遠くはなれた沖縄の祭祀の中にあったというのです。
その祭祀とは「イザイホー」です。
沖縄のなかでも”聖地”として知られる「神の島」久高島。
そこで1978年まで行われていたのがイザイホーです。
久高島で生まれ育った女性はある一定の年齢に達すると必ず、神に仕え、また家族を守護する「神女(タマガエー)」になることになっていたのだそうです。
12年ごとの午年、旧暦十一月十五日の満月の日から4日間にわたって行われる、30歳から41歳の女性が「神女」に就任する儀式、それがイザイホーなのです。
金沢の「七つ橋渡り」と酷似する儀式はその初日に行われます。
その名もまったく同じ「七ツ橋渡り」です。
※『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』比嘉康雄(集英社新書)より
イザイホーの「七ツ橋渡り」では、初日の夕刻、 「白」装束の女性たちが”エーファイ”と連呼しながら「七ツ橋」と呼ばれる橋を渡って”他界との境界”である「神の宮(ハンアシャギ)」に入り、入りきると踵を返してまた「七ツ橋」を渡って”現世”側に出てくる、ということを7回繰り返します。
7回目にハンアシャギに入ると全員で「神歌(ティルル)」を歌い、歌い終わると反対側の出口から”他界”である「七ツ屋」に入ります。
神女となる女性たちはそこで一晩を過ごし、二日目の午前中にそこから出てくるのです。
イザイホーはその後も続き(全4日間)ますが、「七ツ橋渡り」に関する行事はここまでです。
細かい相違点はありますが、 「橋」を7回渡る ということ、 「グレードアップした新しい自分に生まれ変わる」と言った点では完全に一致しています。
とくに、 「七つ橋渡り」という儀礼名の一致など偶然とは思えないものがあります。
なにより両者ともに「シラ(死と再生)」の儀礼であると言う事。
「シラ」の最も古い形が、柳田国男によって沖縄の地に見出されていたことは、以前述べた通りです。
もうひとつ、両者の奇妙な一致点を述べましょう。
金沢の「七つ橋渡り」では上流から下流に向かって順次橋を渡っていくと先ほど述べましたが、最後の橋である昌永橋からさらに下流側へ1キロほど下ったところに「七ツ屋」町があります。
前述の通りイザイホーの「七ツ橋渡り」でも、最後の7回目からさらに”他界”側へ向かって「七ツ屋」に入ります。
これを偶然と捉えるかどうかは、読んでいるアナタ方におまかせします。
もちろんワタシは偶然とは思っていません(笑)。
他にも沖縄久高島と加賀のそれぞれ独特の民俗儀礼・風習において、奇妙な一致を見せるものがいくつかありますが、長くなるのでここではもう言及しません。*2
それはさておき、前回、 「大いなる境の場」としての加賀と白山比咩神社について述べましたが、そこでひとつ大事なことを言い忘れていました。
それはこの地が、東日本と西日本のちょうど境界、すなわち日本列島全体の「境の場」でもあったということです。
大げさと思われるかもしれません。
しかし前回述べた、この地の他の「境の場」的要素からみても、それが偶然だとは思えません。
だとすれば、この地を「列島規模の境の場」であることを見出した人たちとは、当然、 ”列島規模でこの地を見ることが出来た人たち”であったに違いありません。
もちろん飛行機も無ければ人工衛星も無かった時代の話です。
それは遠い海からやって来て、海からこの日本列島を見ることのできた人々であったはずです。
それも南の海からやって来た人々だったはずです。
なぜなら南から海流に乗って来た時に、真っ先に見える秀麗な「白い山」こそが加賀の白山であり、また逆に北から来たのだとすれば「白い山」など珍しくも無く、そこを自らの信仰(「シラ(死と再生)」)の”聖地”になどとは考えなかったでしょうから。
以上のことから、加賀の地に「シラ(死と再生)」の概念、 「白山(シラヤマ)信仰」 、そして「七つ橋渡り」の儀礼の原型等をもたらした人々とは、
すなわち沖縄から来たと考えるのが、もっとも自然だと思われるのです。
ところで「シラ」の概念をたずさえて沖縄から来た人々は、加賀の地だけにとどまったのでしょうか。
もちろんそうではありません。
何しろこの日本列島を、それこそ列島規模で眺めていた人たちです。
彼らは主に日本海側を中心に日本列島中に展開したとワタシは考えています。
その傍証となるものが、列島中の「縄文遺跡」から発見されているのです。
ワタシが、 「シラ」あるいは「シラヤマ信仰」の原型が縄文時代に伝わって来た と考える理由はそこにあります。
またその名残ともいえる信仰儀礼が東北地方各地に残っています。
次回は縄文時代に伝わった「シラ」とその具体例について見ていきましょう。
参考文献:
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(4)白山比咩神社が鎮座する「境の場」
白山比咩神社は加賀地方の鶴来(ツルギ)町(現・白山市)の、白山から流れ出る手取川を見おろす高台に鎮座しています。
手取川は古代においては比楽河と呼ばれていました。
「ヒラ」の”ヒ”は、古くから”シ”と転訛しやすい音であり、ヒラ=シラ、要するに「シラ」の川だったと(あくまで私見ですが)考えられます。
つまり「シラ」ヤマから流れ出る「シラ」の川の横に鎮座しているのです。
しかももっと大事なことがあります。
それはこの神社が、 「死の世界(あの世)」と「生の世界(この世)」のちょうど境界に位置している、ということです。
この神社は白山(シラヤマ)を源流とする手取川(シラの川)が、狭い山間部から広い平野へと流れ出る扇状地の「扇頂」部分、扇のかなめの部分に位置しているのです。
このことが意味することとは何か。
古来、「山」とは死者の霊魂が赴くところと考えられてきました。
なかでも「シラ(死と再生)」の山である白山はその最たるもの。
実はククリヒメ以外に、越前の平泉寺のようにイザナミを白山の女神としているところもあります。
前回述べたようにイザナギの妻だったイザナミは、黄泉の存在です。
つまり白山こそが列島中の死者が集まる黄泉の国という認識があり、そこからイザナミを白山の女神だとする考え方が出てきたのだと思われます。*1
古代において白山(シラヤマ)は黄泉=死者の世界(あの世)だと考えられていたのです。
つまり、白山から白山比咩神社が鎮座する扇頂部にまで至る山間部は列島規模における「死者の世界」 。
白山比咩神社を「境」にして、そこから下流域、すなわち人々が暮らす平野部はもちろん「生者の世界」 。
このように白山比咩神社は「シラ」の川のそばというだけではなく、文字通り列島規模における「あの世とこの世の境界」=大いなる「境の場」に鎮座しているのです。
もちろんこの場所に鎮座しているのは、偶然ではないでしょう。
はっきりと意識してそこに建てられたはずです。
ワタシの考えを述べさせてもらえば、シラヤマ、そしてククリヒメの「シラ」の力=「死から生への転換力」=「蘇り・黄泉がえりの力」を最大限に生かすため、そうとしか考えられません。
では何故、加賀という一地方にあるこの白山(シラヤマ) 、そして白山比咩神社が”列島規模”の「シラ」の場、 「大いなる境の場」となったのか。
それはこのシリーズ『すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか』でたびたび言及している、対馬暖流に乗ってやって来た人々が、海上から最初に見つけた最も秀麗な「白い山」が加賀の白山(シラヤマ)だったからだと考えられるからです。
コトは縄文時代にまで遡ると考えられます。
しかし縄文時代のハナシは後にとっておいて、まず「対馬暖流に乗って来た人々」についての話からした方が良いでしょう。
「対馬暖流に乗って来た人々」 、つま沖縄から来た人々のことです。
※イメージです
なぜ沖縄から来たと言えるのか。
前回まで述べたように「シラ」という共通の概念があることも、もちろんその一つです。
しかしそれ以上に、興味深く、しかも驚くべき共通点が、沖縄と加賀にあったのです。
それは次回で。お楽しみに。
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
*1:この点については拙著『影の王』にて詳しく検証しました。
すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(3)シラヤマ信仰と「境の場」
「シラ」の”転換力”が発現する「場」。
それと密接にかかわる白山(シラヤマ)信仰の本質とは。
白山(シラヤマ)信仰。
その総本宮が石川県の加賀地方にあります。
現在は白山市の一部となっている鶴来(ツルギ)町に鎮座する「白山比咩神社」(シラヤマヒメジンジャ)です。
その主祭神は「ククリヒメ」。
菊理媛と書きますが、まあこれは当て字と思っていいでしょう。
神社の名前が”シラヤマヒメ”(白山姫)ですから、「ククリヒメ」こそが”シラヤマヒメ=白山の女神”だとされているわけです。
このククリヒメ、実はほとんどどういう神なのかわかっていない、という”謎の女神”でもあるのです。
なにしろ古代文献に出てくるのは『日本書紀』の「神代巻」のなかでもただの一か所、 「一書(あるふみ)にいわく」として書かれている所だけ。
ここでは「国生み」で有名なイザナギが、死んでしまった妻イザナミに会いたいと思って黄泉の国に行く場面を描いています。
そこで妻との約束を破ってイザナミの醜い腐乱死体を見てしまったイザナギは、怒り狂うイザナミの追っ手から命からがら、”黄泉と現世の境界”である「泉平坂(ヨモツヒラサカ)」(「黄泉平坂」とも)まで逃げおおせます。
この黄泉と現世の「境界」を挟んでかつての夫婦神が対決(というか言い合い)するわけですが、ここでまず「泉守道者(ヨモツモリミチヒト)」という神が出てきます。
この神はイザナギに、黄泉の存在となってしまったイザナミからの伝言を伝えます。
『あなたと共にここを去ることは出来ない。わたしは黄泉にとどまります。』と。
ここでククリヒメが登場するのですが、その「行動」がじつに謎めいているのです。
”菊理媛、また申す事あり”( ”申す事”は原文では「白事」(「白す事」)と書かれています。)
ククリヒメはここでイザナギに対し”何か”を申し上げ、それを聞いたイザナギは”ほめた”といいます。
ククリヒメがした事といえばこれだけ。
登場シーンもこれだけなのです。
ククリヒメが何を申し上げたのかについては諸説ありますが、この後イザナギが川で「禊ぎ(ミソギ)」をして黄泉の国でついた”穢れ(ケガレ)”をキヨメたことから、”禊ぎをすることを勧めた”とするのが一般的です。
このようなつかみどころのない”謎の女神”を、何故シラヤマ信仰では主神としているのか。
それこそがシラヤマ信仰の本質にかかわる重大な問題なのです。
シラヤマ信仰の主神は「ククリヒメ」ですが、崇拝というか信仰の対象となっているのは、その名の通り白い雪を頂いた「白山」です。
白山の色である「白」は、前回述べたように「清浄なるものの象徴」であり、 「死の象徴」であり、それを目にしたときは「自分が死ぬとき、あるいは(死から)再生するとき」であるという、古代の人々にとっては非常に重要な色であり、また恐ろしい色でもありました。
白山の白い雪からは清冽な「水」が生まれ、その地域を潤し、また清めます。
シラヤマ信仰は「水」の信仰でもあります。
その清冽な水は すべての生き物を潤し、育み、豊饒をもたらします。
その清冽な水は、またすべての「ケガレ」をキヨメる力をもっています。
さらにその清冽な水は、 「越(コシ)の変若水(ヲチミズ)」と呼ばれるほど、すべてのものを蘇らせる(黄泉返らせる)、つまり「再生」させる力を持つと信じられていました。
このような力を持つ白山の「水」 。
まさに前回述べた「シラ」そのものです。
白山(シラヤマ)は文字通り「シラの山」なのです。
実際、シラヤマ信仰とは「死と再生」(=「シラ」)の信仰であると考えられています。
一方のククリヒメ。
イザナギに「川で禊ぎをすること」を申し上げた。
この「申し上げた」が実際は「白事」だったことは先述の通りですが、これは「シラコト」とも訓みます。
つまり「シラ」に関する事、すなわち「禊ぎ」を申し上げた。
多少の私見も混じりますが、 「シラ」を司る神として、同じく「シラ」の霊力を持つ白山の神にされたのだと考えられます。
白山比咩神社の片隅に「川濯尊」という神がひっそりと祀られています。
起源がよく分からない神ですが、地元では古くから「カワスソンサマ」として親しまれている神様です。
その名から「禊ぎ」に関わる神であることは容易に推測がつきますが、 「川で濯ぐ(すすぐ)=禊ぎ」という名は、イザナギの川での禊ぎを思い起こさせます。
ククリヒメの「ククリ」も水で禊ぎを行う際の「潜り(クグリ)」だとも考えられています。
このように白山比咩神社とククリヒメは、 「水」を媒体にした「シラ」を介して結びついていますが、さらに重要なことがあります。
それはククリヒメがどこにいたかということです。
ククリヒメは泉守道者とともに、黄泉(あの世)と現世(この世)の「境界」であるヨモツヒラサカにいました。
そもそもイザナギが妻に会いに行っただけとはいえ、黄泉(あの世)=「死の世界」に行ったということは、現世=「生の世界」から見れば一旦死んだと言う事にほかなりません。
そこから死と生の「境界」=「境の場」に戻って来た。
そして禊ぎを行ってようやく落ち着き、生気を取り戻した。
これは「死」から「再生」した、蘇ったということです。
それを手助けしたのが、その「境の場」にいたククリヒメ。
つまり川で禊ぎをして「穢れた身を浄化(キヨメ)」し、「死からの再生」を実現するという、 「シラの転換力」が働いたということです。
そしてその”力”の発動に深くかかわったのは、まぎれもなく「あの世とこの世の境の場」にいたククリヒメ。そして泉守道者。
ククリヒメ、そして泉守道者の男女一対神は、 「シラ」とその「転換力」の発動に深く関わる神だったのです。
そしてその”力”が発動したのは、ヨモツヒラサカという黄泉と現世の「境の場」であり、禊ぎをした「川」でした。
歴史学・民俗学・文化人類学などでは、 「坂」や「川(河原)」は橋・浜辺・村境・道・墓地・辻・神社・寺等々と同様に、神仏やあの世の存在が支配する「境界」の地と考えられています。
境界、「境の場」こそが「シラの転換力」が発動する場だった。
なぜか。
「浄化(キヨメ)」にせよ「再生」にせよ、 ”穢れからの浄化” 、 ”死からの再生” 、つまり全く正反対、対照的な状態への劇的な変化です。
このような変化=転換は、例えば「死からの再生」ならば、「死の世界」の只中では困難であり、また完全な「生の世界」でも難しい。
どちらの状態にでも変化がたやすい「両者の境の世界」だからこそ、「負から正」への劇的な転換が可能なのです。
ただし「境の場」にただ漫然といるだけではだめで、転換する技術を持った存在、いわば転換のための触媒となる存在がいないと、「シラの転換力」は発動しないのです。
その存在こそがククリヒメなのです。
じつはククリヒメの「ククリ」には「(水を)潜る」以外にさらにもう一つ、 「正反対の世界をくくる」「あの世とこの世をくくる」という重要な意味があったのです。
これは逆に、「あの世とこの世の境」にいないと不可能な能力です。
この「ククリ」はあの世(アッチの世界)の存在、すなわち神霊や死者の霊魂とのコミュニケーション(交信)も可能にします。
泉守道者が黄泉の住人となったイザナミの伝言を、「生の世界」に戻ったイザナギに伝えることが出来たのも、まさにこの能力によるものと考えられます。
ククリヒメと泉守道者の能力は、ひとことで言えば「正反対の世界(や正反対の存在)の間に立ってその関係をとりもつ」能力です。
それが「神霊や霊魂との交信」を可能にし、また「死から生への転換」をも可能にするのです。
ククリヒメは「シラの神」なのです。
白山もまた「シラ(死と再生)の山」であり、 「シラの神」であるククリヒメが白山の女神と考えられたのも当然と言えるかもしれません。
ククリヒメを主祭神とする白山比咩神社は、じつは「縁結び」の神社としてむしろ有名です。
これもククリヒメの「正反対の存在の間に立ってその関係をとりもつ」能力の得意とするところであることは、言うまでもありません。
「良縁」を求めている善男善女の方々、金沢観光の折には是非白山比咩神社にまで足を延ばしてみてはいかがでしょうか(笑)。
ククリヒメは優しい神様ですヨ。
それはともかく(笑)、そのようなククリヒメの能力は「境の場」でないと発揮できないはずですが、この女神が祀られる白山比咩神社の鎮座する「場」はどうなのか。
神社だからある程度の「境の場」であることは間違いないのですが、そのぐらいのことでククリヒメの特別な能力が発揮されるものでしょうか。
じつはこの神社が鎮座するのは、大げさに言えば「大いなる境の場」 (やっぱり大げさデスネ.笑)とも言うべき場所だったのです。
次回はそのあたりを。
参考文献:
影の王: 縄文文明に遡る白山信仰と古代豪族秦氏・道氏の謎 (MyISBN - デザインエッグ社)
- 作者:泉 雄彦
- 出版社/メーカー: デザインエッグ社
- 発売日: 2018/03/19
- メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
すべては沖縄から始まった~有史前の日本に何が起こったか(2)「シラ」の謎
白山はもともと「ハクサン」ではなく、「シラヤマ」といいました。
「シラ」の山です。
この「シラ」には、「(雪を頂いて)白い」という意味以上に、日本人の民俗・宗教・文化の根源にかかわる深い意味があるのです。
そもそも太古からの日本列島の人々にとって、「白」色とはどのような意味を持っていたのでしょうか。
前田速夫氏の『白の民俗学へ』によれば「白」とは、
- 清浄なるものの象徴であると同時に、魔と死の象徴であり、
- それは色であって色ではなく、(まばゆい)「光」そのものである。
- 人がそれを目にするときは、自分が死ぬとき、あるいは「(死から)再生」するとき
だといいます。(『白の民俗学へ』p269より)
この「白」色の持つ本質的な意味が、実は「シラ」の本質とも密接に関わっているのです。
だからこそ太古の人びとは「白」色を、「シロ」「シラ」と呼んだのだと考えられます。
その「シラ」の概念・信仰は、沖縄の島々から対馬暖流に乗って太古に伝わって来た、と前回では述べました。
沖縄。
まさに沖縄を含む南西諸島には、古くからの「シラ」という言葉が近代にまで残っていたのです。
沖縄の「シラ」に最初に注目したのが、柳田国男です。
詳細は省きますが、柳田国男は沖縄に残る「シラ」を、「産屋」そして「稲積・稲霊」のことだと考えました。
「産屋」は昔、妊娠した女性が出産するときに籠もった小屋。
「稲積」は収穫した稲束を積んで保存したもの、「稲霊(イナダマ)」は稲のモミに宿る穀霊、つまり稲の魂・精霊のようなもので穀物としての稲の成長を促すもの。
この場合「稲積」は「稲霊」を育むための「産屋」だと考えられます。
また柳田は「原初のシラヤマ信仰」=「シラの信仰」を残すと考えられる、三河の「花祭」における「シラヤマ」にも注目しました。
この「シラヤマ」は、祭りの中で「ウマレキヨマリ」の場として機能しているもの。
これら沖縄と三河の「シラ・シラヤマ」の根底に共通する概念、すなわち「誕生・再生」こそが「シラ」の原義だと、柳田国男は考えたわけです。
柳田が示した「シラ」に対するこの解釈は現在においても概ね受け継がれ、とりわけ「再生」という概念は、日本の古層の文化・信仰儀礼を論じる上での最重要キーワードの一つと考えられています。
「再生」というのは「死後の再生」です。
「シラ」=「死後の再生」の”力”は新たな命の「誕生」につながり、さらに蛇や昆虫が「脱皮」するように生きている間の「生命力の更新」にもつながります。
太古の人びとは、すべての生き物(人間・動物・植物)には魂(=霊)が宿っており、それが生命力の源にもなっていると考えました。
その魂(霊)は生き物に宿っている間でも決して不変の状態でいられるわけではなく、たとえ年齢が若くても時がたつにつれて老朽化して弱っていきます。
例えば「稲霊」の場合は、秋の収穫を終えたときがそれ。
そのまま放っておけば来年の実りはおぼつかないものとなる。
老朽化し弱ってしまった「稲霊」を、また力強いものに蘇らせなければならない。
そこで人間の女性が身ごもった時に「産屋」に籠もるのと同じように、次代に引き継がれる魂(稲霊)を「再生」(誕生)させなけれればならない。
「稲積」はそのための「産屋」、すなわち「シラ」だったのです。
このように「再生」の概念は、人間の誕生、さらには作物や狩猟採集物の「豊饒」にも直結するため、非常に古くから信仰儀礼の対象とされてきました。
人間の場合は誕生の時だけではなく、(蛇や昆虫が何度も「脱皮」するように)何年かに一度定期的に、「魂=霊力=生命力」の更新(すなわち再生)をはかる必要がありました。(その場合、多くは一度儀礼的に「疑似的な死」を通過したあとで「再生」という形をとります。)
そのように、豊饒や人間の誕生、生命力の更新を可能にするのが「シラ」の不思議な”力”だと考えられたのです。
こうしてみると、「シラ」は「産屋・稲積・稲霊」であり、そのもともとの意味は「誕生・再生」だと最初に書きましたが、それさえも元々の本来の「シラ」から派生したものであり、「誕生・再生」も「シラ」の持つ”力”のひとつの側面だと考えた方が良さそうに思えます。
このような偉大な力を持つ「シラ」とは何なのか。
何故そのような”力”を持つのか。
中沢新一氏は、「シラ」とは強力な浄化力で人にウマレキヨマリ(=生命力の更新)をもたらすことのできる自然の威力(=マナ)と密接に関わると指摘しました。
また前出の前田氏なども、「シラ」は自然のあらゆる力であり、あらゆる生命に宿り、それを支えている「大自然の大いなる精霊」であるとしています。
そしてこの「シラ」は「白」に象徴される「まばゆい光」や、あるいは嵐・雪・雨・海などの「大自然の猛威」として顕現することがあるといいます。
このように、どうやら「シラ」というのは「大自然の大いなる力・精霊」だと分かってきました。
これがなぜ再生・ウマレキヨマリ(生命力の更新)を実現することができるのか。
中沢氏はこれを「シラ」の持つ強力な浄化力だと言っていましたが、実は「シラ」にはその浄化力の根源ともなるある特長的な力がそなわっていたのです。
それは「転換力」です。
「シラ」には空間を「転換」させる力・エネルギーが秘められている。
この「転換力」こそが、不浄なものの状態を浄める(キヨメル)浄化力のもととなり、また、(「死」の状態から転換して)誕生・再生を実現し、(弱った状態を転換して)生命力の更新を実現するおおもとの力なのです。
つまり「白」に象徴される「まばゆい光」や大自然の猛威として顕現する「大自然の大いなる力・精霊」であり、その特有の力である「転換力」を以てものを浄化(キヨメ)し、誕生・再生さらに生命力の更新を実現し、農作物や狩猟採集物の豊饒をも約束する。
それが「シラ」なのです。
ところが、です。
この重要な力である「転換力」は、たとえ「シラ」といえども「ある場所」でしか発現できません。
場所というより「場」と言った方がより正確かもしれません。
その「場」は、 「シラ」と深くかかわる、というより「シラ」の信仰ともいえる「白山(シラヤマ)信仰」の本質とも密接に関連しているものです。
次回は「シラ」の転換力が発現する「場」とは何か、それと密接にかかわる「シラヤマ信仰」の本質とはなにか、について見ていきます。